日本史

なぜ「菅原道真」は太宰府天満宮に祀られている?菅原道真公と御霊信仰について歴史マニアが5分で解説!

よぉ、桜木建二だ。学問の神様として名高い菅原道真だが、もともとは神様ではなく人間だったのは知っているな?今回はどうして菅原道真が神様として祀られるようになったのか、彼の一生と当時の日本人の宗教観について説明する。

日本史に詳しいライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。専門分野は源平(平安末期)だが、オカルトや神話が大好きで趣味で勉強した。フィールドワークという名の聖地巡礼は基本。

太宰府天満宮に祀られる菅原道真

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福岡県の太宰府天満宮、京都府の北野天満宮、東京の湯島天神にお祀りされている菅原道真公。人の身でありながら、なぜ祀られるようになったのでしょうか?

今回は道真公の一生や功績を追いながら、その経緯に迫ります。

菅原道真という「人間」

菅原道真が生まれたのは845年、平安前期にあたります。のちに学問の神様としてお祀りされるだけあり、幼少のころより大人顔負けの詩歌の才能を見せつけていました。まさに神童だったのでしょう。十八歳になると、大学寮の文書生(もんじょうのしょう)になります。大学寮とは、とんでもなく入学が難しい国立大学、文書生はその中でも中国の詩歌や歴史を専攻する学科の生徒のことです。

それが道真の出世街道のスタートとなりますが、その走り方はまさに爆走。生家である菅原氏は身分の高い家柄ではないにもかかわらず、道真は持ち前の才能で宇多天皇に重用されると次々と出世していきます。最終的に道真は右大臣にまで上り詰めました。

しかし、右大臣となったのも束の間、三年後に無実の罪で太宰府に流罪にされてしまいます。そうして二年後、道真は無念のうちにこの世を去ってしまうのでした。

道真による遣唐使廃止と唐

道真がどんどん出世していく中、894年、遣唐大使に任命されました。ところが、そのころの唐は荒れ果てており、命懸けで行ったとしても良い成果を得られる保証がなかったのです。

少しこれについて補足いたします。唐は618年から907年にかけて大陸に存在した非常に強く広い国でした。絶頂期は8世紀初頭、皇帝は玄宗です。玄宗政権の前半こそは善政でありましたが、後半に楊貴妃を見出し、溺愛してしまいます。その結果、玄宗は政治を疎み、さらに楊貴妃の一族をひいきして専横を許してしまいました。そうして起きたのが安史の乱です。安史の乱は九年にも及ぶ大反乱となり、唐は著しく力を失ってしまいました。さらに874年の黄巣の乱によって致命的なダメージを負い、領土の縮小が続いた結果、唐は907年に禅譲という形で幕を下ろします。

道真が遣唐使を廃止したのは、894年。唐の滅亡の13年前でした。当時の日本は専ら唐から輸入した唐風の文化の中にあります。しかし、遣唐使を廃止したからには自分たちの文化をより洗練していかなければなりません。そうして生まれたのが国風文化です。

道真の和歌と飛梅伝説

政治においてその才能をいかんなく発揮した道真ですが、彼の才能はそれだけにとどまりません。幼少より突出していた詩歌においては、小倉百人一首に選出されるほどの腕前でした。その一首と、もうひとつ梅の歌をご紹介しておきましょう。

此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

(今度の旅は急いで出発しましたので、捧げる幣も用意することができませんでした。手向山の紅葉を代わりに捧げますので、神様、どうか御心のままにお受け取りください)

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

(春風が吹いたら、梅の花よ、大宰府まで花の香りを届けてください。私がいなくても春を忘れないでおくれ)

後半の梅の短歌は、飛梅伝説として有名ですね。道真が大宰府に流され、都に取り残された道真の梅が一夜にして空を飛び、大宰府に根を下ろしたとされています。

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菅原道真は詩人、政治家、他にも刀匠としての才能もある本当に多才な人物だった。和歌は古典に、遣唐使廃止は日本史に出るポイントだから、しっかり記憶しておいてくれ。

都を追われて大宰府、そして天神へ

脅かされた藤原氏の陰謀

右大臣だった道真を追いやった無実の罪。これは藤原氏による虚偽告訴でした。

なぜ藤原氏は嘘をついて道真を朝廷から追い出したのか?実は、道真の娘の一人が宇多天皇の息子・斉世親王の后だったのです。天皇家に自分の娘を嫁入りさせることで天皇との結びつきを強くするのは、藤原氏が古くから行ってきたことですね。宇多天皇は道真を大変気に入っていますから、このままだと菅原氏が藤原氏にとって代わる可能性がありました。時の権力者・藤原時平はそれをひどく恐れます。しかも、そのころの政治体制は、宇多天皇自らが政治を行う親政でした。この親政は大変理想的な善政だったとされ、「寛平の治」と呼ばれています。藤原氏が絶対!という時期ではないので、時平の一存で道真をどうにかすることはできません。そこで、彼はある企みを実行することにしたのです。

道真を追いやった昌泰の変

901年一月、道真が右大臣となって二年目の冬のことでした。宇多天皇は897年に退位していますから、その息子の醍醐天皇の治世です。引退した宇多上皇でしたが、宇多上皇は醍醐天皇へ政治的指導を試みていました。簡単に言いますと、宇多上皇は引退しても政治の中心にいたかったのです。しかし、これにはやはり現役の公家たちが黙っていません。そこに醍醐天皇の後継者問題が絡まり、宇多上皇と公家たちの溝は深まるばかりでした。

後継問題に誰もが躍起になっている中、藤原時平は「宇多上皇は菅原道真の娘婿の斉世親王を東宮(次期天皇)にしようとしている」という噂を広めます。根も葉もない噂と言い捨ててしまうには、条件が整いすぎた噂でありました。そして、宇多上皇と道真に不満を持っていた醍醐天皇と藤原時平一派は、この噂を元に道真を流罪にしてしまいます。宇多上皇はお気に入りの道真を流罪にさせまいと醍醐天皇に取りなそうとしましたが、息子に面会すらしてもらえない始末でした。道真とその子供たちや、宇多上皇政権下の中心人物を流罪にしたこの事件を「昌泰の変」と呼びます。

道真が朝廷を去った後、時平は自分の娘を醍醐天皇の后(事実上の正妃)にして完全勝利を収めたのです。

怨霊となり、都に雷を落とす

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By 不明http://journal.mycom.co.jp/news/2008/05/01/005/index.html, パブリック・ドメイン, Link

大宰府で道真がこの世を去ると、不思議と京の都で怪事件が頻発するようになりました。道真を左遷した藤原時平が39歳で病死し、翌年には昌泰の変の首謀者のひとり右大臣源光が溺死、そして時平の甥で東宮だった保明親王が21歳で崩御されます。次に東宮となった時平の孫・慶頼王もわずか5歳で亡くなると、これは時平を恨んだ道真の祟りではないか、と取り沙汰されました。そして、トドメとばかりに御所内の清涼殿に雷が落ち、多くの死傷者が出てしまいます。これが清涼殿落雷事件です。この死者の中には昌泰の変に関わったものもいました。

御所は天皇のおわす聖なる場所です。そこへ、落雷事件による死の穢れが蔓延するのは非常にショッキングなことで、これによって体調を崩した醍醐天皇はわずか三ヶ月後に崩御してしまいました。

この一連の怪事件で菅原道真を追い出した政治家たちがいなくなり、京の人々は道真が怨霊(悪霊)となって大宰府から帰ってきたのだと確信したのです。

菅原道真、神様になる

道真の死後、彼は早い段階から大宰府で天満自在天神として神格されていました。そこに清涼殿落雷事件が加わり、人々は古来より信じられていた火雷神(ほのいかづちのおおかみ)と道真を結びつけます。のちに道真はその火雷神を従える日本太政威徳天とも呼ばれ、非常に恐れられました。

この恐ろしい神様の怒りを鎮めるにはどうしたらいいのか?そこで登場したのが御霊信仰でした。御霊信仰というのは、この世に深い恨みを残して非業の死を迎えた貴人の霊を生前の位に復帰させたりして鎮め、お祀りすることによって、逆に護国鎮護の神様にするというものです。こうして道真は天神様として太宰府天満宮、北野天満宮、湯島天神など、多くの神社に祀られることとなりました。

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「昌泰の変」によって無実の罪で太宰府へ流罪にされた道真だったが、その死後に続いた怪事件によって天神へと祀り上げられた。基本的には学問と豊穣の神だが、前章で言ったように道真は多才だったからか、武芸に商売、火事除けの信仰まで多岐にわたる。しかも、彼を祭神とする神社は日本各地にあるぞ。それだけ道真は強い神として崇められたということだ。

日本人は幽霊を信じていた

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ところで、みなさんは幽霊を信じますか?

いきなりオカルトな出だしですみません。数々のホラー映画が観客を集めていますが、「映画は楽しんで見れるけど、幽霊自体は信じてない」という現代人は多いと思います。

しかし、かつての日本人は本気で幽霊や妖怪を信じていました。理不尽なことや、理解を越えることが起こると人は幽霊、あるいは悪霊、そして妖怪の仕業だとしてきたのです。

古代の埋葬方法から見る死者への畏怖

かつて世界中で広く信仰されていたアニミズム。日本もその例にもれず、古代の日本人も目に見えない精霊や神様を信じていました。「八百万の神」と言ったほうがピンとくるかもしれませんね。そして、日本神話では亡くなったイザナミノミコトは黄泉の国(死後に行く世界)へ行きます。死んだ後の世界の概念も古くから根付いていたんですね。

物的な証拠を挙げるなら、縄文時代の日本では、死者を体育座りするように手足を曲げて埋葬する「屈葬」が主流でした。なぜ、手足を折り曲げるのでしょうか。一説によると、死者が生きている人間に災いをもたらさないためとされています。

この「死者が災いをもたらす」という考えは、現代にも共通していますね。ホラー映画やゲームでは定番です。この屈葬の例によって、古代から霊の存在は信じられていたことが証明できます。

平安時代の宗教思想

平安時代は奈良の平城京から京都の平安京に都を移した794年から、鎌倉幕府が成立する1185年までの391年間を指します。江戸時代が265年、明治時代から令和元年までが151年なので、平安時代はかなりのご長寿だとわかりますね。

平安時代の主な宗教は仏教でした。しかし、日本神話におけるアマテラスオオミカミなどの神道の神様と、仏教の大日如来や他の仏様が融和された神仏混交状態にあります。なので、神様と仏様、さらに民間信仰、八百万の神々などが混在していました。

日本三大怨霊と呼ばれた三人

御霊信仰で祀られているのは何も菅原道真だけではありません。特に平将門と崇徳院は、道真と共に日本三大怨霊として祀られ、恐れられていました。もちろん、この三人以外にも早良親王や橘逸勢などがいますよ。特に早良親王の怨霊は天皇に都ひとつ捨てさせるほど強力でした。

ただ、菅原道真、平将門、崇徳院は江戸時代に読本(小説)や歌舞伎の題材となって広く浸透したことで知られることとなります。この知名度が影響して「日本三大怨霊」と称されました。

せっかく名前が出たので、平将門と崇徳院についても軽く解説いたしますね。

首だけで京都から東京まで飛んだ平将門

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平将門は平安時代中期の関東豪族でした。「平」の姓ということで、家系を少し遡るとその血筋は桓武天皇へとつながります。貴人の血筋ということですね。

当時の関東は荒れており、下総国(現在の千葉県や東京都の一部)、常陸国(茨城県)では平氏一族の抗争が勃発していました。平将門は国府を襲撃し、自らを新しい王だと名乗って関東の独立を目指します。これが平将門の乱です。朝廷としてはそんなことをされてはたまりません。しかも、同じ時期に瀬戸内海では藤原純友の乱が起こって大忙しです。すぐさま平将門は朝敵となり、朝廷から藤原秀郷(俵籐太)、平貞盛が派遣されると、わずか二ヶ月のうちに討伐されてしまいます。

平将門の首は平安京まで輸送され、七条河原に晒し首にされました。その首は何か月経っても目を見開き、歯ぎしりをしているかのような物凄い形相です。ある夜、詩人が平将門の首を見て詩を読むと、途端に首が笑い出し、自分の体を探して関東へ飛び立ったと言われています。平将門の首が落ちたとされる場所には、今でも平将門の首塚や神社が残されていますよ。

なぜ天皇が怨霊に?崇徳院の場合

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崇徳院は平安後期、第75代天皇でした。当時の政治形態は、引退した上皇(法皇)が幼い天皇に代わって政を主導する院政が主流だったため、実権は父の鳥羽上皇にあります。ところが、鳥羽上皇が崇徳天皇を疎んじたため、弟の近衛天皇、後白河天皇へと譲位させられてしまいました。

鳥羽法皇の崩御後、抑圧され続けた崇徳院と、藤原摂関家の内部紛糾で不利だった藤原頼長が手を組み、保元の乱を起こします。果たして、争いに敗れた崇徳院は讃岐国(現在の香川県)に流罪となりました。その後、心を改めた崇徳院はお経を写本して完成した五つの本を朝廷に送りますが、怪しんだ後白河院はこれを拒否し、送り返してしまいます。これには崇徳院も大激怒です。怒りのあまり舌を噛み切り、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向する」と自分の血で呪いを書き残す壮絶な死を遂げます。

このあとが本当に大変でした。保元の乱関係者や近親者が次々と倒れてしまい、さらには延暦寺の強訴、安元の大火と都は災難続き。後白河院に至っては、鹿ヶ谷の陰謀を平清盛に暴かれて近臣たちが処分されてしまいます。ここにきてようやく崇徳院の怨霊が人々に意識されはじめました。そして、1184年になって保元の乱の古戦場である春日河原に崇徳院廟が置かれたのです。この廟は、現在は平野神社に統合されています。

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悪霊と言っても、この三人はただの悪霊じゃない。皇族の血を引いているものや身分の高いものが、非業の死を遂げると怨霊になると信じられていた。恨みを抱いた死者の怨念はすさまじい。だから、神として崇め、強い力を守護に使ってもらうという魂胆だ。

死してなお働き続ける菅原道真公

菅原道真公には、学問の神様としても多くの人がお世話になったことがあるでしょう。まさか都を震わせた怨霊だったとは知らずに。

生前は敏腕政治家、死後は天神様として今でも活躍し続ける菅原道真公。遣唐使廃止によって国風文化を洗練させ、さらに自らも多くの詩を読み、たくさんの詩集を編みました。政治家として、文化人として、当時の日本には欠かすことのできない人物です。

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