日本史に詳しいライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。
ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。専門分野は源平(平安末期)だが、オカルトや神話が大好きで趣味で勉強した。フィールドワークという名の聖地巡礼は基本。
太宰府天満宮に祀られる菅原道真
福岡県の太宰府天満宮、京都府の北野天満宮、東京の湯島天神にお祀りされている菅原道真公。人の身でありながら、なぜ祀られるようになったのでしょうか?
今回は道真公の一生や功績を追いながら、その経緯に迫ります。
菅原道真という「人間」
菅原道真が生まれたのは845年、平安前期にあたります。のちに学問の神様としてお祀りされるだけあり、幼少のころより大人顔負けの詩歌の才能を見せつけていました。まさに神童だったのでしょう。十八歳になると、大学寮の文書生(もんじょうのしょう)になります。大学寮とは、とんでもなく入学が難しい国立大学、文書生はその中でも中国の詩歌や歴史を専攻する学科の生徒のことです。
それが道真の出世街道のスタートとなりますが、その走り方はまさに爆走。生家である菅原氏は身分の高い家柄ではないにもかかわらず、道真は持ち前の才能で宇多天皇に重用されると次々と出世していきます。最終的に道真は右大臣にまで上り詰めました。
しかし、右大臣となったのも束の間、三年後に無実の罪で太宰府に流罪にされてしまいます。そうして二年後、道真は無念のうちにこの世を去ってしまうのでした。
道真による遣唐使廃止と唐
道真がどんどん出世していく中、894年、遣唐大使に任命されました。ところが、そのころの唐は荒れ果てており、命懸けで行ったとしても良い成果を得られる保証がなかったのです。
少しこれについて補足いたします。唐は618年から907年にかけて大陸に存在した非常に強く広い国でした。絶頂期は8世紀初頭、皇帝は玄宗です。玄宗政権の前半こそは善政でありましたが、後半に楊貴妃を見出し、溺愛してしまいます。その結果、玄宗は政治を疎み、さらに楊貴妃の一族をひいきして専横を許してしまいました。そうして起きたのが安史の乱です。安史の乱は九年にも及ぶ大反乱となり、唐は著しく力を失ってしまいました。さらに874年の黄巣の乱によって致命的なダメージを負い、領土の縮小が続いた結果、唐は907年に禅譲という形で幕を下ろします。
道真が遣唐使を廃止したのは、894年。唐の滅亡の13年前でした。当時の日本は専ら唐から輸入した唐風の文化の中にあります。しかし、遣唐使を廃止したからには自分たちの文化をより洗練していかなければなりません。そうして生まれたのが国風文化です。
道真の和歌と飛梅伝説
By 不明 – in the site of http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/ ;Website「やまとうた」 , パブリック・ドメイン, Link
政治においてその才能をいかんなく発揮した道真ですが、彼の才能はそれだけにとどまりません。幼少より突出していた詩歌においては、小倉百人一首に選出されるほどの腕前でした。その一首と、もうひとつ梅の歌をご紹介しておきましょう。
此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
(今度の旅は急いで出発しましたので、捧げる幣も用意することができませんでした。手向山の紅葉を代わりに捧げますので、神様、どうか御心のままにお受け取りください)
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
(春風が吹いたら、梅の花よ、大宰府まで花の香りを届けてください。私がいなくても春を忘れないでおくれ)
後半の梅の短歌は、飛梅伝説として有名ですね。道真が大宰府に流され、都に取り残された道真の梅が一夜にして空を飛び、大宰府に根を下ろしたとされています。
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