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豊臣家を滅ぼした悪女と呼び声の高い「淀殿/茶々」の一生を歴女が徹底わかりやすく解説

1-5、本能寺の変後に、淀殿茶々の生活に変化が

天正10年(1582年)に淀殿茶々の伯父信長が本能寺の変で明智光秀に攻められて自刃。秀吉が山崎合戦で光秀を討ち取った後に開かれた清洲会議で、信長の重臣たちが織田家の後継ぎ問題などについて話し合い、後継ぎは信長の嫡子でやはり二条城で自刃した信忠の3歳の息子三法師にと決定され、淀殿茶々の母お市の方も、秀吉のすすめで重臣の柴田勝家と再婚することになり、お市の方は了承。淀殿茶々は母や妹達とともに、勝家の居城である越前国北の庄城(現在の福井県福井市)に住むことに。

しかし、すぐに勝家と羽柴秀吉との対立が激化して、天正11年(1583年)には北の症城で勝家と母お市の方は自害。淀殿茶々は妹二人と城から脱出。
2度目の落城を経験した淀殿茶々は、14歳になっていました。

2-1、淀殿茶々ら姉妹は秀吉に引き取られた

淀殿茶々ら三姉妹は、北の庄城落城後、最初は遥の谷に匿われて知らせを受けた羽柴秀吉は、三姉妹を安土城に。その後は伯父信長の次男で淀殿茶々らの従兄に当たる織田信雄が三姉妹を後見。一年ほどの間、淀殿茶々たち姉妹の世話をしたのが、信長とお市の方の妹のお犬の方だとか、叔父の織田長益(有楽斎)、父方の伯母の京極マリアの縁で秀吉側室の松の丸方で従姉に当たる京極竜子の元で聚楽第にいたなど。

秀吉の保護のもとで、織田家や浅井家の親戚に面倒見てもらっていたようですね。

2-2、妹たちは、それぞれ嫁入りし、淀殿茶々は一人になった

淀殿茶々の妹たち、次女の初は茶々とはひとつ違いで、三女のお江は4つ違いですが、茶々を置いて、初は浅井家の主筋にあたり、父長政の姉である伯母京極マリアの息子で従兄の京極忠高と、お江は、母お市の方の妹お犬の方の息子でやはり母方の従兄になる佐治一成、次は秀吉の甥の秀勝という具合に、それぞれ親戚縁者で、それなりに政略的な相手に縁づいていきました。

淀殿茶々は長女で年長者なのに、なぜ一番に嫁がせられなかったのでしょうか。

3-1、淀殿茶々、秀吉の側室となり秀頼を出産

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淀殿茶々は、天正16年(1588年)頃に秀吉の側室となったといわれていますが、これも翌年の天正17年(1589年)に、捨(鶴松)を生んだことからの逆算。
この頃秀吉は、小田原城攻略のために長い間小田原に陣を張っていて、北政所に頼んで淀殿茶々ら側室を呼び寄せ、そのときに勝ったので縁起がいいとして、朝鮮半島への派兵のために九州の名護屋にやはり淀殿茶々を呼び寄せたりしています。淀殿茶々の懐妊を喜んだ秀吉は淀城を建ててプレゼント、以後淀殿茶々は淀の御方と呼ばれるように。

そして長子鶴松は天正19年(1591年)に3歳にもならず死亡するも、文禄2年(1593年)に再び拾(秀頼)を出産。秀吉はこのとき57歳、捨て子は元気に育つという迷信から、わざわざ秀頼を捨てて拾うパフォーマンスまで行って大事に育てました。

3-2、淀殿茶々、醍醐の花見で杯争いをやらかす

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淀殿茶々はお市の方の娘として最初から特別扱いであったでしょうが、秀吉の唯一の後継ぎを産んだため、名実ともに数ある秀吉の側室のナンバーワンになっていました。ということで、淀殿茶々の側室時代のエピソードとしては有名な醍醐の花見。

この宴会では、北政所寧々が最初に秀吉から杯を受け、次に淀殿茶々か松の丸殿かという争いが起きたのですね。松の丸殿は京極竜子といい、淀殿茶々の浅井家の主筋に当たる京極家の出身で従姉でもある女性ですが、自分のほうが淀殿茶々よりも身分が高く側室としての経歴も長いと主張し、淀殿茶々は秀頼生母として優先権を主張したという醜い争いです。

この争いは、なんと前田利家夫人おまつが、「年齢から言えば私が先よ」と、客人の前で身内の争いをするものではないとばかりに、上手に丸くおさめたという話。
秀頼生母として当然私はナンバー2という淀殿茶々の気位の高さ、他の側室とのぎくしゃく具合がよく出ているエピソード。

醍醐の花見はイベント好きの秀吉一世一代のパフォーマンス

慶長3年3月15日(1598年4月20日)に、豊臣秀吉が京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した一大イベントの花見の宴のことで、大名らは茶屋を作ったり警護に当たったが、招かれたのは、秀頼、北政所、淀殿茶々ら側室たちほとんど女性ばかりと、家族同然の前田利家、利家夫人おまつ。

3-3、秀頼誕生後、秀吉は養子の秀次を排除

現代から考えると50代はまだ若いですが、秀吉は武将として戦争続きの人生で相当弱っていたらしく、まさか秀頼が生まれるとは思っていなかったので、姉の息子の秀次を養子にして後継者に任命。

秀次を関白にして聚楽第も譲ったのでしたが、そこへ秀頼が生まれたために、秀頼生後2ヶ月で秀次の娘と婚約させ、秀吉から秀次、秀頼という政権継承を計画。しかし秀吉はそれでも安心できなかったらしく、秀次に対して暴虐な振る舞いが多いとか、謀反の疑いがあるなど因縁をつけて文禄4年(1595年)7月に秀次の関白職を奪取。秀次は高野山で出家したが、自刃。そして秀次の子女や妻妾もほぼ全員が処刑してしまうという秀吉晩年を汚す残忍な事件となり、秀頼の継嗣としての地位を脅かすものはなくなり確固としたもののようで、豊臣家の次世代は壊滅。

また秀吉は、それまでの自分の独裁体制だったところに、五大老・五奉行などの職制を作り上げて、幼い秀頼を補佐する体制に。慶長3年(1598年)8月に秀吉が伏見城で63歳で死去すると、遺言で茶々と秀頼は大坂城に。尚、北政所寧々はさっさと大坂城を出て京都に隠棲。

淀殿茶々は秀頼の後見人として政治に介入し、乳母の大蔵卿局や饗庭局、乳兄弟の大野治長や片桐且元らを用いて大坂城の実権を掌握。

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