今回は、浅井長政とお市の方の長女淀殿茶々を取り上げるぞ。淀殿茶々は豊臣秀吉の側室となって、秀吉の最晩年に男の子を2人出産し、ひとりは成長して豊臣秀頼となったのです。淀殿茶々は秀吉に愛されて淀城を建ててもらって、その後実質上の大坂城の女城主になったのですが、これが豊臣家滅亡の元凶とさえ言われているらしいのです。

茶々に何があったのか、女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。今回は豊臣家を滅ぼしたヒステリー女、わがままな権力者として名をはせている淀殿茶々について、幼少期から晩年まで5分でわかるようまとめた。

1、 淀殿茶々はお市の方の娘で浅井三姉妹の長女

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淀殿茶々は、近江国小谷城(現在の滋賀県長浜市)で生まれました。生まれたのは永禄12年(1569年)と言われていますが、これは亡くなった年が49歳か50歳ということからの逆算の推定。両親であるお市の方と浅井長政の結婚の時期も永禄7年(1564年)、永禄8年(1565年)、永禄10年(1567年)説があるなど、はっきりせず。
妹たちは後の京極高次正室の常高院初と、徳川秀忠正室江

1-2、茶々は生まれたときの名前でその他にも呼び名は色々

淀殿茶々は、生まれたときから茶々と呼ばれていましたが、秀吉の側室となってからは、居住する御殿にちなんで、三の丸殿とか西の丸殿などと呼ばれ、鶴松が生まれるときに秀吉が淀城を建てて茶々の住まいとしたので、淀の御方と呼ばれるように。
秀吉没後は、秀頼母としてお袋様と呼ばれ、秀頼が右大臣になったとき、その母として朝廷から従五位下を贈られたときに、浅井 菊子(あざい きくこ)と名乗ったとも。

淀殿と淀君、どう違う?

昔から日本では身分の高い人に対しては、本名を呼ぶのは失礼にあたるので、居住場所や身分などからきた通称を呼び名に。なので、茶々の場合も、淀城城主になったために淀の御方、淀殿に。
また、淀君というのは江戸時代に定着した呼び名で、存命中は使われなかった、豊臣家を滅ぼした悪女ということで辻君という遊女のような差別的な意味を込めて淀君と称されたという説があり、最近は淀殿と呼ばれるように。
しかし、現在の皇室の女性方は〇子様を子のかわりに「〇君様」と君をつけて呼び合われているということを考えれば、必ずしも蔑称になるわけでもないようです。

1-3、茶々の幼少時代はすでに戦争まっただ中だった

淀殿茶々が育ったのは近江の小谷城ですが、元亀元年(1570年)には、伯父の信長が、淀殿茶々の父長政と交わした同盟の取り決めである、「朝倉への不戦の誓い」を破って、徳川家康らと共に越前国の朝倉方の城を攻略にかかりました。
淀殿茶々の父長政の浅井家は、伯父信長との同盟よりも古い関係の朝倉義景との同盟を重視して朝倉方に加勢することに決定し、信長、家康らの連合軍を背後から急襲。信長は、義弟の長政を信頼しきっていたため、なかなか裏切りを認めなかったけれど、お市の方の知らせなどもあって、秀吉や家康らの殿(しんがり)の奮戦で急遽、近江国を脱出したという、金ヶ崎の退き口という戦いが勃発。

淀殿茶々はわずか1歳。その後の姉川の戦いを経て、元亀3年(1572年)7月には信長が再び北近江に攻め入って両軍のにらみ合いが続き、天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せて来て朝倉家の一乗谷も小谷城も陥落、淀殿茶々の祖父久政、父長政は自害し、淀殿茶々は母お市の方と妹たちと共に城を脱出。

このとき淀殿茶々は4歳、銃声や戦闘の荒々しい気配のなかで幼児期を送り、物心つかないうちに戦争に巻き込まれていたのですね。

1-4、小谷城を出てからは、伯父信長の保護下で城を転々と暮らした

4歳の淀殿茶々は、母や妹たちと共に、伯父の織田信包の伊勢安濃津城、または尾張清洲城で保護されていたとか、尾張守山城主で信長とお市の方の叔父の織田信次に預けられ、天正2年9月29日に織田信次戦死後は、伯父信長の岐阜城に住んだと言われています。

親戚の城を転々としたようですが、伯父信長は、妹のお市の方と娘たちに裕福な暮らしを提供し贅沢を許したということなので、淀殿茶々は4歳から13歳の9年間は母子4人で落ち着いた暮らしができたのでは。

\次のページで「1-5、本能寺の変後に、淀殿茶々の生活に変化が」を解説!/

1-5、本能寺の変後に、淀殿茶々の生活に変化が

天正10年(1582年)に淀殿茶々の伯父信長が本能寺の変で明智光秀に攻められて自刃。秀吉が山崎合戦で光秀を討ち取った後に開かれた清洲会議で、信長の重臣たちが織田家の後継ぎ問題などについて話し合い、後継ぎは信長の嫡子でやはり二条城で自刃した信忠の3歳の息子三法師にと決定され、淀殿茶々の母お市の方も、秀吉のすすめで重臣の柴田勝家と再婚することになり、お市の方は了承。淀殿茶々は母や妹達とともに、勝家の居城である越前国北の庄城(現在の福井県福井市)に住むことに。

しかし、すぐに勝家と羽柴秀吉との対立が激化して、天正11年(1583年)には北の症城で勝家と母お市の方は自害。淀殿茶々は妹二人と城から脱出。
2度目の落城を経験した淀殿茶々は、14歳になっていました。

2-1、淀殿茶々ら姉妹は秀吉に引き取られた

淀殿茶々ら三姉妹は、北の庄城落城後、最初は遥の谷に匿われて知らせを受けた羽柴秀吉は、三姉妹を安土城に。その後は伯父信長の次男で淀殿茶々らの従兄に当たる織田信雄が三姉妹を後見。一年ほどの間、淀殿茶々たち姉妹の世話をしたのが、信長とお市の方の妹のお犬の方だとか、叔父の織田長益(有楽斎)、父方の伯母の京極マリアの縁で秀吉側室の松の丸方で従姉に当たる京極竜子の元で聚楽第にいたなど。

秀吉の保護のもとで、織田家や浅井家の親戚に面倒見てもらっていたようですね。

2-2、妹たちは、それぞれ嫁入りし、淀殿茶々は一人になった

淀殿茶々の妹たち、次女の初は茶々とはひとつ違いで、三女のお江は4つ違いですが、茶々を置いて、初は浅井家の主筋にあたり、父長政の姉である伯母京極マリアの息子で従兄の京極忠高と、お江は、母お市の方の妹お犬の方の息子でやはり母方の従兄になる佐治一成、次は秀吉の甥の秀勝という具合に、それぞれ親戚縁者で、それなりに政略的な相手に縁づいていきました。

淀殿茶々は長女で年長者なのに、なぜ一番に嫁がせられなかったのでしょうか。

3-1、淀殿茶々、秀吉の側室となり秀頼を出産

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淀殿茶々は、天正16年(1588年)頃に秀吉の側室となったといわれていますが、これも翌年の天正17年(1589年)に、捨(鶴松)を生んだことからの逆算。
この頃秀吉は、小田原城攻略のために長い間小田原に陣を張っていて、北政所に頼んで淀殿茶々ら側室を呼び寄せ、そのときに勝ったので縁起がいいとして、朝鮮半島への派兵のために九州の名護屋にやはり淀殿茶々を呼び寄せたりしています。淀殿茶々の懐妊を喜んだ秀吉は淀城を建ててプレゼント、以後淀殿茶々は淀の御方と呼ばれるように。

そして長子鶴松は天正19年(1591年)に3歳にもならず死亡するも、文禄2年(1593年)に再び拾(秀頼)を出産。秀吉はこのとき57歳、捨て子は元気に育つという迷信から、わざわざ秀頼を捨てて拾うパフォーマンスまで行って大事に育てました。

3-2、淀殿茶々、醍醐の花見で杯争いをやらかす

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淀殿茶々はお市の方の娘として最初から特別扱いであったでしょうが、秀吉の唯一の後継ぎを産んだため、名実ともに数ある秀吉の側室のナンバーワンになっていました。ということで、淀殿茶々の側室時代のエピソードとしては有名な醍醐の花見。

この宴会では、北政所寧々が最初に秀吉から杯を受け、次に淀殿茶々か松の丸殿かという争いが起きたのですね。松の丸殿は京極竜子といい、淀殿茶々の浅井家の主筋に当たる京極家の出身で従姉でもある女性ですが、自分のほうが淀殿茶々よりも身分が高く側室としての経歴も長いと主張し、淀殿茶々は秀頼生母として優先権を主張したという醜い争いです。

この争いは、なんと前田利家夫人おまつが、「年齢から言えば私が先よ」と、客人の前で身内の争いをするものではないとばかりに、上手に丸くおさめたという話。
秀頼生母として当然私はナンバー2という淀殿茶々の気位の高さ、他の側室とのぎくしゃく具合がよく出ているエピソード。

醍醐の花見はイベント好きの秀吉一世一代のパフォーマンス

慶長3年3月15日(1598年4月20日)に、豊臣秀吉が京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した一大イベントの花見の宴のことで、大名らは茶屋を作ったり警護に当たったが、招かれたのは、秀頼、北政所、淀殿茶々ら側室たちほとんど女性ばかりと、家族同然の前田利家、利家夫人おまつ。

3-3、秀頼誕生後、秀吉は養子の秀次を排除

現代から考えると50代はまだ若いですが、秀吉は武将として戦争続きの人生で相当弱っていたらしく、まさか秀頼が生まれるとは思っていなかったので、姉の息子の秀次を養子にして後継者に任命。

秀次を関白にして聚楽第も譲ったのでしたが、そこへ秀頼が生まれたために、秀頼生後2ヶ月で秀次の娘と婚約させ、秀吉から秀次、秀頼という政権継承を計画。しかし秀吉はそれでも安心できなかったらしく、秀次に対して暴虐な振る舞いが多いとか、謀反の疑いがあるなど因縁をつけて文禄4年(1595年)7月に秀次の関白職を奪取。秀次は高野山で出家したが、自刃。そして秀次の子女や妻妾もほぼ全員が処刑してしまうという秀吉晩年を汚す残忍な事件となり、秀頼の継嗣としての地位を脅かすものはなくなり確固としたもののようで、豊臣家の次世代は壊滅。

また秀吉は、それまでの自分の独裁体制だったところに、五大老・五奉行などの職制を作り上げて、幼い秀頼を補佐する体制に。慶長3年(1598年)8月に秀吉が伏見城で63歳で死去すると、遺言で茶々と秀頼は大坂城に。尚、北政所寧々はさっさと大坂城を出て京都に隠棲。

淀殿茶々は秀頼の後見人として政治に介入し、乳母の大蔵卿局や饗庭局、乳兄弟の大野治長や片桐且元らを用いて大坂城の実権を掌握。

\次のページで「4-1、関ケ原の合戦が勃発したが、淀殿茶々と秀頼は傍観者に」を解説!/

4-1、関ケ原の合戦が勃発したが、淀殿茶々と秀頼は傍観者に

関ケ原の合戦はもともと豊臣政権内部の争いが発端で、近江出身の石田三成や小西行長らの官僚派と武断派の加藤清正や福島正則らの対立があり、にらみをきかせていた前田利家が亡くなると、徳川家康が大名間の婚姻や領地の授与などを勝手に行うようになったなどで、慶長5年(1600年)に石田三成が大谷吉継とともに、会津の上杉討伐に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てたことが切っ掛けに。

このとき淀殿茶々は、三奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)と連名で、家康に事態を鎮静化のために上洛せよと書状を送付。その後は、大坂城に入った毛利輝元が石田方の西軍総大将となって三奉行もそれに同調。しかし淀殿茶々は、石田方が切望した秀頼のお墨付きも秀頼の出陣も拒否。

淀殿茶々は石田方の動きを認めながら、豊臣家としてはこの合戦を観望する姿勢に。なお家康は淀殿茶々と三奉行からの書状を、石田三成、大谷吉継挙兵が謀叛だと他の諸大名に主張する材料に。家康は、関ヶ原合戦での徳川方(東軍)の勝利の後にわざわざ大野治長を大坂城に送って、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じている、と伝え、茶々はこれに対して感謝したそう。そして毛利輝元が大坂城を退去した後に家康が大坂城に入ったときに、茶々は家康に秀頼の父親代わりになってと公言したということ。

4-2、家康征夷大将軍となり、天下人となって淀殿茶々らと対立深まる

関が原合戦後の戦勝の恩賞として、家康は豊臣家の領地220万石の内ほぼ4分の3を勝手に配りまくり、豊臣家すなわち秀頼の知行は摂津、和泉、河内のわずか65万石の大名に。淀殿茶々は幼少の秀頼を盾に大坂城の実権を握るも、慶長8年2月12日(1603年3月24日)、家康は伏見城で征夷大将軍に就任。同年7月には、家康孫で秀忠と茶々の妹お江の娘の千姫を、秀吉の遺言に基づいて秀頼と結婚させました。

そして慶長10年(1605年)家康は上洛して秀忠に将軍職を譲り、秀頼には右大臣の位を譲ったのですね。この時点で家康の逆転上位はみえみえなんですが、家康は臣下の礼をとるために秀頼を上洛させて挨拶させろと要求、それに対して淀殿茶々は激しく拒否し、秀頼を殺して自害するとまで主張。しかしついに慶長16年(1611年)家康と秀頼は二条城で会見。

家康は見上げるばかりの大男に育った秀頼に畏怖し、豊臣家を滅ぼす決意をしたらしい。

4-3、淀殿茶々は豊臣家の金を使って全国の神社仏閣を再建

家康が勝手に処分して領地は65万石に減ったとはいえ、大坂城には秀吉の遺産の金が山ほどありました。家康はこれを減らすための作戦として、淀殿茶々に秀吉の菩提を弔うために、応仁の乱後、荒れに荒れていたあちこちの神社や寺への寄進を勧めたと言います。そうとは知らず、淀殿茶々らはもろ手を挙げて喜び勇んで、大金を奉じて方広寺の大仏を再建、鐘を作ったところで家康側は、「国家安康 君臣豊楽」に難癖をつけてきたわけですね。

そして慶長19年(1614年)、江戸との交渉役だった片桐且元と淀殿茶々の乳母の大蔵卿局の家康の意図解釈がうまくいかないのがきっかけとなり、大坂冬の陣へ。

4-4、大坂冬の陣、夏の陣が起こり、ついに豊臣家滅亡

家康の不穏な動きに大坂城では各大名らに声掛けしたが、誰も応じてくれず、関が原で領地を失った元大名ら浪人を招集。真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)、明石全登、長宗我部盛親、毛利勝永ら5人衆をはじめ約10万人の兵力が集まりました。大坂城は天下の名城だし5人衆は名将、彼らの言う通りにしてうまく使えばよかったのに、彼ら武将の上に立つ大野治長らが淀殿茶々の言いなりでは、まとまりのない寄せ集め集団に。

籠城して情勢の変わるのを待つ(家康は70代の老人なので)という5人衆の主張も重視されず。結局は大坂城を建てた大工頭の助言で、淀殿茶々の居室を狙っての大砲攻撃で淀殿茶々の目の前での侍女粉砕が功を奏して、淀殿茶々のヒステリー発作が激しくなり、何が何でも講和すると言い出したのでした。そして講和後、家康に外堀はおろか内堀まで埋められてしまい、天下の大坂城は裸城に。

翌年慶長20年(1615年)に夏の陣が勃発し、裸城となった大坂城では籠城できず市野戦に。真田信繁(幸村)らの大奮戦もむなしく、また寄せ集め軍団だけあって、敗色濃厚となると城内で敵方に寝返った兵が放火や略奪も行われたということでした。

淀殿茶々は秀頼や大野治長らと共に自害。 享年49歳または50歳
墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺にあり、戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓。

5、淀殿茶々についての謎の数々

浅井家も豊臣家も滅びてしまったので史料が残っていないためか、今のように戸籍がないためか、淀殿茶々については誕生からしてはっきり解明できていない謎の数々があります。

5-1、淀殿茶々は浅井長政の子ではない説も

淀殿茶々はお市の方の連れ子で、お市の方は信長の妹ではなく従妹とか愛妾、茶々は信長の子ではないかという説あり。根拠は、お市の方と浅井長政との結婚の時期がはっきりしないこと。長政との結婚の時期にお市の方の年齢が20歳前後になるため、初婚ではなく再婚ではないかという推測からで、お市の方は信長妹ではなく信長の側室の一人で茶々はその間に出来た子という説まで。

もうひとつは浅井家の菩提寺の位牌が初と江のものだけで淀殿茶々の位牌がないという話から。しかし淀殿茶々は浅井氏を名乗っていること、淀殿茶々は、妹お江が徳川秀忠と結婚する際に、豊臣秀勝との間に生まれた完子(さだこ)を引き取って養女にし、後に関白九条家へ嫁がせていることもあり、淀殿茶々がもし信長の子ならば、お市の方が小谷に嫁入りするときに連れて行かず信長が引き取るはず。

それに記名はしていないとはいえ、淀殿茶々が父長政17回忌と母お市の方の7回忌にあたるため、長男鶴松を産んだ天正17年(1589年)に高野山の持明院に父母の肖像画を奉納し、また秀頼を産んだ文禄2年(1593年)に養源院(養源院は浅井長政の院号で、寺の開基は浅井一族の成伯)を建立したのは明らかなので、ふたりの間の子であることは間違いないのでは。確たる証拠になる史料がないとはいえ、色々憶測されるときりがないということでしょう。

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5-2、淀殿茶々は美人だったか

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By 奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』 / Nara Museum of Art - http://www.mahoroba.ne.jp/~museum/20sen/kaiga1/0003j.htm, パブリック・ドメイン, Link

今に残る画像を見て、顔の形が四角で美人ではないとか、浅井長政もお市の方も大柄だったせいで、淀殿茶々もかなり大柄であったということで、お市の方ほど美人じゃないという意見もあるようですが、母が美形一家の織田家の出身で戦国一の美貌と言われ、しかも37歳で落城と共に自害という悲劇性も持っている女性ならば、その娘たちはどうしても見劣りするはず。どんな女性でもそれ以上に美人というわけにはいかないのではと思いますね。

5-3、鶴松、秀頼は本当に秀吉の子だったのか

これは秀吉存命中からささやかれていたことです。秀吉には近江長浜城時代に、石松丸秀勝という早世した息子と女の子があり(実子と確定しているわけではなく、養子説も)、生母は不明ながら南殿ではないかという説があることはありますが、正室の寧々には子供が生まれなかったとはいえ、その後何十人という側室を侍らせていて、しかもそのなかには秀吉の側室になる前の結婚では何人か出産した女性、秀吉没後に再婚して出産した女性もいるのにもかかわらず、秀吉には実子が生まれていません。

秀吉は63歳で亡くなったのですが、50代半ばになって急に2人も男子が生まれるなんて不思議に思わない人はいないでしょう。
秀頼の本当の父は淀殿茶々の乳兄弟の大野治長やその弟たち、近江出身の石田三成などの候補がいますが、もし秀吉が淀殿茶々の不義を知っていたとしても自分の子と信じたかったのでは。

そして肝心の秀吉が我が息子と認めた以上は、秀頼は間違いなく豊臣家の後継者だったんですね。

5-4、秀頼を大坂城から出さなかったのはなぜ?

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By 不明 - 京都市東山区養源院(ようげんいん)所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

関が原合戦後、征夷大将軍となった徳川家康が、秀頼を挨拶のために上洛させろと再三の要請にもかかわらず、淀殿茶々は秀頼をなかなか大坂城から出さず。
大坂冬の陣、夏の陣のときも、真田信繁(幸村)、後藤又兵衛らは、秀頼自身が秀吉以来の旗印を掲げ出馬することで、味方の鼓舞になり相手陣にも心理的な威圧感を与える効果を狙って、再三出馬要請したにもかかわらず、淀殿茶々は絶対に秀頼が大坂城から出るのを許さず。最後などは秀頼が出ると言い、用意が整い、さあ馬に乗るという直前に茶々の使いの奥女中が何度も走って来て止めたと言う話は有名。

これは専門家でなくてもどうみても分離不安障害でしょう。淀殿茶々は息子秀頼の存在があってこそ大坂城に君臨していられること、そして小谷城や北ノ庄城落城経験がトラウマになっていて、秀頼を自分の側から離すなんて、大坂城から出せば秀頼を失うのではという不安でいっぱいに。

淀殿茶々にとって秀頼と一緒にいることは、戦の勝ち負けや政治の駆け引きよりも大事なことだと思ったのかも。

5-5、淀殿茶々はヒステリー体質でワンマン女性だったか

淀殿茶々と言えば、側に控える乳母の大蔵卿の局(大野治長らの母)が、ヒステリーを起こすたびに必死でなだめる様子のイメージが。当時、名医と言われた曲直瀬玄朔の診察も受けていて、慶長6年(1601年)には実際に気鬱が激しくなって、胸の痛みや摂食障害が起きて頭痛に悩まされたので薬を処方された記録も。

ヒステリー体質の女性は、常に自分がないがしろにされていないか、バカにされていないかと気にしていて、いったん激昂すれば後先考えず、手が付けられないほど暴れる人もいるので、周囲の人はとにかくなだめるのに必死。問題を解決するとか、決めるどころではなくなるのですね。こういう体質の人が高貴な身分で、しかも大事な決定を下す立場にいればどうなるかという典型淀殿が茶々ではないかと思うほど。

北政所寧々という稀有な存在を味方にせず敵視、またはプライドが邪魔をして的確なアドバイスを受けることが出来ない、大坂の陣にはせ参じた有能な真田信繁(幸村)らの話を聞く能力もなし、そして意外に有能だったとされる秀頼の教育を誤って無能力な大将にしてしまったのが最大の間違い、滅亡への泥沼にはまっていったのは淀殿茶々がヒステリー体質で乳母とその身内しか信用しなかったところから来ているとみて間違いないでしょう。

5-6、淀殿茶々と秀頼の最期の謎

敗戦濃厚で、もはやこれまで、城を枕に討ち死にというとき、城主や家族、重臣たちは天守閣に集まって酒宴を開き舞を舞ったりして、時世の歌を残した後に家族を手にかけて切腹、介錯したり見届けた家臣や身内の誰かを逃がして、自分たちの最期を語らせ菩提を弔わせるのが定番。

しかし、淀殿茶々と秀頼と側近たちが最後にこもったのは天守閣でも日頃住んでいた御殿でもなく、山里廓の隅っこにあったという籾蔵。しかも大野治長が淀殿茶々と秀頼の助命嘆願のために、秀頼正室の千姫を差し向けたが家康側は拒否、蔵に向かってはやく自刃せよとばかりに鉄砲を撃ち込んだところ(土壁が厚くて鉄砲の弾は中まで届かない)、ようやく白い煙が上がって内側から火の手が上がり籾蔵は焼け落ち、後で焼死体が見つかっただけ。

だれひとりとして淀殿茶々や秀頼の最期を看取った目撃談も証言もない、もちろん辞世の歌もなしという最期。しかし、淀殿茶々や秀頼らの最期を目撃した者の証言や記録が存在せず、遺体確認も出来なかったため、逃亡、生存説あり。彼らの最後が城の籾蔵だったなんて不自然、もしかすればこの蔵には、誰も知らない城の抜け穴があって場外に続いていたのでは、という想像をもかきたてるのであります。

同情に値する過酷な淀殿茶々の人生だが、あまりに「たられば」が多い人生かも

淀殿茶々は4歳にして生家浅井家の落城を経験し、その後は母お市の方の実家へ戻って落ち着いた平和な少女期を送ったものの、14歳で再婚した母を失い二度目の落城を経験したのは、戦国時代と言えども過酷なものだったでしょう。

長じては天下人ながらサルのような小男の助平爺の側室となり、男子を産んで側室のトップとなったけれど、美貌だった母といつも較べられているようで落ち着かなかったかもしれません。それは同情に値するのですが、爺の死後、息子の秀頼さえいれば天下人として大坂城で権力を行使していられると思い込んで大事に大事にしているうちに、あれよあれよと家康に天下を横取りされた。けしからん、キーっという程度では、老獪な家康たちの駆け引きにうまく対処できる家臣もおらず、秀頼は大事にしすぎた付けがまわってとうとう滅ぼされちゃった、というイメージです。

たらればは歴史にありがちですが、淀殿茶々がもう少し冷静で頭が良ければ、良い家臣を見分ける目があれば、少なくとも秀頼は江戸時代も大名として生きながら得たかもと思われてなりません。

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豊臣家を滅ぼした悪女と呼び声の高い「淀殿/茶々」の一生を歴女が徹底わかりやすく解説

今回は、浅井長政とお市の方の長女淀殿茶々を取り上げるぞ。淀殿茶々は豊臣秀吉の側室となって、秀吉の最晩年に男の子を2人出産し、ひとりは成長して豊臣秀頼となったのです。淀殿茶々は秀吉に愛されて淀城を建ててもらって、その後実質上の大坂城の女城主になったのですが、これが豊臣家滅亡の元凶とさえ言われているらしいのです。

茶々に何があったのか、女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。今回は豊臣家を滅ぼしたヒステリー女、わがままな権力者として名をはせている淀殿茶々について、幼少期から晩年まで5分でわかるようまとめた。

1、 淀殿茶々はお市の方の娘で浅井三姉妹の長女

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淀殿茶々は、近江国小谷城(現在の滋賀県長浜市)で生まれました。生まれたのは永禄12年(1569年)と言われていますが、これは亡くなった年が49歳か50歳ということからの逆算の推定。両親であるお市の方と浅井長政の結婚の時期も永禄7年(1564年)、永禄8年(1565年)、永禄10年(1567年)説があるなど、はっきりせず。
妹たちは後の京極高次正室の常高院初と、徳川秀忠正室江

1-2、茶々は生まれたときの名前でその他にも呼び名は色々

淀殿茶々は、生まれたときから茶々と呼ばれていましたが、秀吉の側室となってからは、居住する御殿にちなんで、三の丸殿とか西の丸殿などと呼ばれ、鶴松が生まれるときに秀吉が淀城を建てて茶々の住まいとしたので、淀の御方と呼ばれるように。
秀吉没後は、秀頼母としてお袋様と呼ばれ、秀頼が右大臣になったとき、その母として朝廷から従五位下を贈られたときに、浅井 菊子(あざい きくこ)と名乗ったとも。

淀殿と淀君、どう違う?

昔から日本では身分の高い人に対しては、本名を呼ぶのは失礼にあたるので、居住場所や身分などからきた通称を呼び名に。なので、茶々の場合も、淀城城主になったために淀の御方、淀殿に。
また、淀君というのは江戸時代に定着した呼び名で、存命中は使われなかった、豊臣家を滅ぼした悪女ということで辻君という遊女のような差別的な意味を込めて淀君と称されたという説があり、最近は淀殿と呼ばれるように。
しかし、現在の皇室の女性方は〇子様を子のかわりに「〇君様」と君をつけて呼び合われているということを考えれば、必ずしも蔑称になるわけでもないようです。

1-3、茶々の幼少時代はすでに戦争まっただ中だった

淀殿茶々が育ったのは近江の小谷城ですが、元亀元年(1570年)には、伯父の信長が、淀殿茶々の父長政と交わした同盟の取り決めである、「朝倉への不戦の誓い」を破って、徳川家康らと共に越前国の朝倉方の城を攻略にかかりました。
淀殿茶々の父長政の浅井家は、伯父信長との同盟よりも古い関係の朝倉義景との同盟を重視して朝倉方に加勢することに決定し、信長、家康らの連合軍を背後から急襲。信長は、義弟の長政を信頼しきっていたため、なかなか裏切りを認めなかったけれど、お市の方の知らせなどもあって、秀吉や家康らの殿(しんがり)の奮戦で急遽、近江国を脱出したという、金ヶ崎の退き口という戦いが勃発。

淀殿茶々はわずか1歳。その後の姉川の戦いを経て、元亀3年(1572年)7月には信長が再び北近江に攻め入って両軍のにらみ合いが続き、天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せて来て朝倉家の一乗谷も小谷城も陥落、淀殿茶々の祖父久政、父長政は自害し、淀殿茶々は母お市の方と妹たちと共に城を脱出。

このとき淀殿茶々は4歳、銃声や戦闘の荒々しい気配のなかで幼児期を送り、物心つかないうちに戦争に巻き込まれていたのですね。

1-4、小谷城を出てからは、伯父信長の保護下で城を転々と暮らした

4歳の淀殿茶々は、母や妹たちと共に、伯父の織田信包の伊勢安濃津城、または尾張清洲城で保護されていたとか、尾張守山城主で信長とお市の方の叔父の織田信次に預けられ、天正2年9月29日に織田信次戦死後は、伯父信長の岐阜城に住んだと言われています。

親戚の城を転々としたようですが、伯父信長は、妹のお市の方と娘たちに裕福な暮らしを提供し贅沢を許したということなので、淀殿茶々は4歳から13歳の9年間は母子4人で落ち着いた暮らしができたのでは。

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