平安時代日本史歴史

宮中の慶事を記録した「紫式部日記」を元大学教員が5分でわかりやすく解説!作者の物憂げな心が印象的な作品を読み解いてみよう

よぉ、桜木建二だ。紫式部といえば「源氏物語」の作者として有名な女性だ。彼女の「紫式部日記」は、中宮彰子や藤原道長の慶事を詳細に記録した貴重な資料でもある。同時に、華やかな宮中の生活になじみ切れない紫式部の孤独な心も浮かび上がらせる作品だ。

それじゃ、「紫式部日記」を通じて宮中の暮らしや作者の心の機微を日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「源氏物語」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。「紫式部日記」は、宮中の慶事や紫式部の心の機微が読み取れる面白い作品。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて「紫式部日記」の記事をまとめた。

「紫式部日記」は宮仕えの記録

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「紫式部日記」は、作者の清少納言が中宮彰子のもとに仕えていた一時期のことを書いた日記。宮中のなかでの貴族たちの生活、慶事、ちょっとした会話などが、つぶさに記録されました。そのため平安時代を知るための資料的価値も高いとされています。

紫式部は「源氏物語」の作者

日記の作者は「源氏物語」を書いたことで知られる紫式部。970年から978年のあいだに生まれ、1019年まで生きていたと言われていますが、詳細は分かりません。

父は藤原為時。花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人でした。紫式部は、藤原宣孝と結婚するものの死別。その後、藤原道長のすすめにより宮中に出ることになりました。

道長の娘である中宮彰子の家庭教師となった紫式部。宮中における出来事や慶事などを観察して「紫式部日記」に記しました。

紫式部が仕えた中宮彰子とは?

中宮彰子の本名は藤原彰子。藤原道長の娘のひとりです。摂関政治の一環として一条天皇の妃となりました。彰子に仕えていたのは、紫式部のほか和泉式部、赤染衛門など。その後の文化史に大きな影響を与える女房が集められていました。

「枕草子」の作者である清少納言が仕えた中宮定子とはライバル的な位置づけ。定子は出産の影響により若くして亡くなります。そのため、実質、唯一の妃となりました。

彰子の晩年は、藤原摂関政治に陰りが見え始め、院政が台頭しつつあるころ。「扶桑略記」や「百練抄」などの記録によると、1074年の10月3日に法成寺阿弥陀堂内で亡くなったとのこと。御年、87歳とされています。

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「紫式部日記」のキーパーソンは中宮彰子か。平安時代の女性となると、清少納言や紫式部に関心が行きがちだが、彰子はとても興味深い人物。父である藤原道長の摂関政治を支えるため、彰子は貴族たちをとりまとめるリーダー的な役割も果たしたらしい。政治家としての一面もあったのだと思う。

「紫式部日記」の構成

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「紫式部日記」は宮仕えをしていた時期に断片的に書かれたもの。「源氏物語」のような超大作ではありません。紫式部本人がまとめた本当の構成は不明。現代に伝わっている「紫式部日記」から原作の状態を推測するにとどまります。

「紫式部日記」は複数の断片的な文章の集合体

「紫式部日記」は、宮中に仕えていたころの一時期の記録。現存する「紫式部日記」は、おおよそ4つの記事のグループから構成されています。

1.1008年の7月から1009年の正月までの記事
2.1009年に記された断片的な記事
3.消息文と呼ばれている書簡体の文章
4.1010年に記された断片的な記事

紫式部がまとめたとおりの順番かは謎

本来は1008年の5月からはじまるものの、何らかの事情により欠落しているとする見方も。平安時代の貴族はまいにち日記をつける習慣があります。「紫式部日記」の本来の姿はもっとボリュームがあると考えることも可能です。

また、後世に別の人が改変しているとする説もあります。その根拠となるのが「消息文」。普通は作品の完結部分として入れられるもの。それが途中にあるのは不自然です。誰かの改編のあととする見方が有力ですが、決定的な証拠はありません。

\次のページで「「紫式部日記」には子供のころの回想や亡き夫への想いも」を解説!/

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