紫式部といえば「源氏物語」の作者として有名な女性です。彼女の「紫式部日記」は、中宮彰子や藤原道長の慶事を詳細に記録した貴重な資料でもある。同時に、華やかな宮中の生活になじみ切れない紫式部の孤独な心も浮かび上がらせる作品です。

それじゃ、「紫式部日記」を通じて宮中の暮らしや作者の心の機微を日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「源氏物語」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。「紫式部日記」は、宮中の慶事や紫式部の心の機微が読み取れる面白い作品。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて「紫式部日記」の記事をまとめた。

「紫式部日記」は宮仕えの記録

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「紫式部日記」は、作者の清少納言が中宮彰子のもとに仕えていた一時期のことを書いた日記。宮中のなかでの貴族たちの生活、慶事、ちょっとした会話などが、つぶさに記録されました。そのため平安時代を知るための資料的価値も高いとされています。

紫式部は「源氏物語」の作者

日記の作者は「源氏物語」を書いたことで知られる紫式部。970年から978年のあいだに生まれ、1019年まで生きていたと言われていますが、詳細は分かりません。

父は藤原為時。花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人でした。紫式部は、藤原宣孝と結婚するものの死別。その後、藤原道長のすすめにより宮中に出ることになりました。

道長の娘である中宮彰子の家庭教師となった紫式部。宮中における出来事や慶事などを観察して「紫式部日記」に記しました。

紫式部が仕えた中宮彰子とは?

中宮彰子の本名は藤原彰子。藤原道長の娘のひとりです。摂関政治の一環として一条天皇の妃となりました。彰子に仕えていたのは、紫式部のほか和泉式部、赤染衛門など。その後の文化史に大きな影響を与える女房が集められていました。

「枕草子」の作者である清少納言が仕えた中宮定子とはライバル的な位置づけ。定子は出産の影響により若くして亡くなります。そのため、実質、唯一の妃となりました。

彰子の晩年は、藤原摂関政治に陰りが見え始め、院政が台頭しつつあるころ。「扶桑略記」や「百練抄」などの記録によると、1074年の10月3日に法成寺阿弥陀堂内で亡くなったとのこと。御年、87歳とされています。

「紫式部日記」の構成

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「紫式部日記」は宮仕えをしていた時期に断片的に書かれたもの。「源氏物語」のような超大作ではありません。紫式部本人がまとめた本当の構成は不明。現代に伝わっている「紫式部日記」から原作の状態を推測するにとどまります。

「紫式部日記」は複数の断片的な文章の集合体

「紫式部日記」は、宮中に仕えていたころの一時期の記録。現存する「紫式部日記」は、おおよそ4つの記事のグループから構成されています。

1.1008年の7月から1009年の正月までの記事
2.1009年に記された断片的な記事
3.消息文と呼ばれている書簡体の文章
4.1010年に記された断片的な記事

紫式部がまとめたとおりの順番かは謎

本来は1008年の5月からはじまるものの、何らかの事情により欠落しているとする見方も。平安時代の貴族はまいにち日記をつける習慣があります。「紫式部日記」の本来の姿はもっとボリュームがあると考えることも可能です。

また、後世に別の人が改変しているとする説もあります。その根拠となるのが「消息文」。普通は作品の完結部分として入れられるもの。それが途中にあるのは不自然です。誰かの改編のあととする見方が有力ですが、決定的な証拠はありません。

\次のページで「「紫式部日記」には子供のころの回想や亡き夫への想いも」を解説!/

「紫式部日記」には子供のころの回想や亡き夫への想いも

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「紫式部日記」には、作者の心の機微も細やかに描写されています。作者の子供のころの回想や亡くなった夫に対する想いは、とくに興味深い箇所。これらは、紫式部の人生の一部を知るうえで重要な手がかりとなるものです。

子供のころから聡明だった紫式部

紫式部の母は、作者を生んですぐに亡くなりました。そのため紫式部は父親である藤原為時と強い絆で結ばれていたようです。

漢学者でもある為時の文才は、小さい頃の清少納言に大きな影響を与えたことが「紫式部日記」に記されています。弟は父から漢学を学んでいましたが、隣で聞いている紫式部の方が習得が早かったと自ら回想。

平安時代の女性は基本的に漢学を学ぶことはできません。父親の影響があったからこそ、漢学の教養が垣間見られる「源氏物語」が生まれました。

夫・藤原宣孝との出会いと別れ

紫式部は、父親の為時が越前守(現在の福井)として赴任する際も同行しています。しかし998年に紫式部は1人で京へ戻ることに。そのきっかけとなったのが藤原宣孝との結婚でした。

宣孝は、紫式部が越前にいるあいだも、たびたび手紙を送っていた人物。2人は子供をもうけるものの、宣孝は結婚してから3年後に病気で亡くなりました。

夫の死後、紫式部は「源氏物語」を書き始めます。「紫式部日記」によると、死別してから4~5年のあいだ「源氏物語」を書いては親しい知人に読んでもらっていたとのこと。それが評判となり藤原道長の目にとまることになります。

宮仕えを始めたころの心中を「紫式部日記」で回想

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「紫式部日記」の特徴は、紫式部の宮仕えをするなかでの心境を垣間見れること。とくに最初の部分は、夫の死後の気がすすまない状態で宮中に出たこともあり、紫式部の憂鬱な気持ちが際立っています。

憂鬱な気持ちと共にはじまる宮仕え

「紫式部日記」では、宮仕えをスタートさせたころの憂鬱な気持ちを次のように詠っています。

"身の憂さは心のうちに慕ひ来ていま九重ぞ思ひ乱るる" (紫式部)

この歌は、宮仕えに積極的になれない気持ちや、新しい環境に身を置くことへの不安を表現。紫式部は内向的な性格だったと言われています。そのため、きびしい秩序がある宮中に出ることは、気がすすまなかったのではないでしょうか。

紫式部の宮仕えは長期にわたる

このような不安を歌にこめた紫式部ですが、宮仕えは長期にわたります。1011年に一条天皇が崩御すると、中宮彰子は枇杷殿に住まいを移すことに。そのとき紫式部も側近として彰子につき従います。

「紫式部日記」の記述があるのは1010年まで。そのため枇杷殿における彰子らの生活は含まれていません。しかし紫式部は1013年までは確実に仕えていたようです。

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「紫式部日記」から見る中宮彰子の出産

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「紫式部日記」のなかでも、とくに細やかに記されているのが中宮彰子の出産の場面です。藤原道長の摂関政治の運命は、彰子が男の子を生むかどうかにかかっているとも言えます。男子が生まれた瞬間に宮中は喜びを共有。もちろん紫式部もそのひとりでした。

男児の出産は天皇候補の誕生の喜び

「紫式部日記」は、中宮彰子が男の子を生んだときのことを次のように記しています。

午の時に、空晴れて朝日さし出でたる心地す。たひらかにおはしますうれしさのたぐひもなきに、男にさへおはしましけるよろこび、いかがはなのめならむ。

男の子が生まれた瞬間、朝日が差し込んできたかのように感じる紫式部の心境がつづられています。男の子の誕生は、将来、天皇に即位する可能性も。彰子らにとって藤原一門の繁栄はいちばんの願い。それを同じように願う紫式部の心境を垣間見ることができます。

慶事と心の不安のコントラスト

しかしながら「紫式部日記」は、喜ばしい慶事と一緒に、心のうちにある憂いも記しています。

めでたきこと、おもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心の引く方のみ強くて、もの憂く、思はずに、嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しき。

ここから紫式部は、男児の出産というおめでたい出来事を共有しながら、沈んでいく自分の心も見つめています。そして紫式部は、自分を池で遊ぶ水鳥にたとえ、自分の人生を水のうえに浮いた不安定なものととらえました。

「紫式部日記」における和泉式部や清少納言に関する批評

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「紫式部日記」の消息文の特徴は、批評家としての紫式部の一面を垣間見られること。同じ中宮彰子サロンの女房であった和泉式部や赤染衛門、中宮定子サロンの御用作家である清少納言について、辛辣に批評する箇所が含まれています。

和泉式部の伝統を重んじない作風を批判

和泉式部は女房三十六歌仙のひとりになるなど歌の名人。とくに情熱的な恋愛をテーマとする歌を得意としました。

和泉式部は恋多き女としても知られ、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋愛関係にあったといううわさも。さらに為尊親王の死後、その弟にみそめられ、正妻が家を出てしまったという話もあります。

紫式部は和泉式部について、自分の才能を過信するあまり、伝統的な作歌方法を無視していると批判しました。和泉式部の恋愛遍歴を快く思わない記述からも、紫式部のまじめさが浮かび上がります。

清少納言の「枕草子」は軽々しいと考えた

消息文には「枕草子」の作者である清少納言に関する批評も。紫式部の宮仕えが始まったころ「枕草子」はすでに大人気の読み物。紫式部は、漢文に対する深い知識をひけらかす文章を批判。文体を軽々しいと言及していることから、かなり読み込んでいたことが分かります。

この批評から、清少納言と紫式部の対立関係を見る人も少なくありません。平安時代は、伝統から逸脱する新しい作風が生まれた時期。この一文は伝統を重んじる紫式部の態度の表明とみた方がいいでしょう。

\次のページで「紫式部日記絵巻とあわせて読むと楽しい」を解説!/

紫式部日記絵巻とあわせて読むと楽しい

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鎌倉時代の初期に「紫式部日記」の内容をもとにつくられたのが紫式部日記絵巻。絵にするのに適した箇所を細かく取り出し、詞書を添えて絵巻にしたものです。

鎌倉時代の初期に制作された紫式部日記絵巻

鎌倉時代の初期に作られたとき、絵と詞書がそれぞれ50~60段、全部あわせて10巻の大規模な構成でした。しかし現在のこっているのは、絵24段と詞書24段の全4巻。「紫式部日記」の全体の約25%程度のみとのことです。

紫式部日記絵巻には、蜂須賀家本、藤田家本、旧森川家本、旧久松家本の4つのバージョンがあります。それぞれ残存している場面に違いが。これらを組み合わせて全体を把握することになります。

関東大震災による消失や売却の過程における切断などから、現状が変わってしまった紫式部日記絵巻。蜂須賀家本は現在も個人の所蔵ですが、その他の絵巻は博物館や美術館で厳重に保管されています。

彰子出産の場面や紫式部の書斎の様子もわかる

紫式部日記絵巻の特徴はすっきりとした明快な画面構成。宮中の暮らしが細部にわたるまで再現されています。そのひとつが中宮彰子の出産の場面。中宮のために用意された食事の内容まで知ることができます。

里に戻ったときの紫式部の箇所では、積みあげられた冊子本や巻子本を描写。それにより物書きとしての紫式部の姿がとらえられました。

建物や室内の描写は平安時代の建築の様式の研究材料となるほどの価値が。国風文化が開花したとされる平安文化の様式をより具体的に知ることができるからです。

「紫式部日記」は宮中の慶事とそれに対する作者のまなざしを記録

実際に行われた宮中の慶事やそれにかかわる女房たちの様子を観察しているのが「紫式部日記」。平安時代中期の宮中を出来事が分かる資料的価値もある作品です。

それに加えて、慶事に参加するなかで湧き上がる紫式部の心の不安が同時に記されていることも大きな特徴。紫式部の心のうちを垣間見れるからこそ「紫式部日記」は長く読み継がれることになりました。

「紫式部日記」は絵巻の場面と照らし合わせながら読むのがおすすめ。宮中の出来事をよりリアルに感じ取ることができます。インターネット公開や写真集がありますので、ぜひ、参考にしてみてください。

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平安時代日本史歴史

宮中の慶事を記録した「紫式部日記」を元大学教員が5分でわかりやすく解説!作者の物憂げな心が印象的な作品を読み解いてみよう

紫式部といえば「源氏物語」の作者として有名な女性です。彼女の「紫式部日記」は、中宮彰子や藤原道長の慶事を詳細に記録した貴重な資料でもある。同時に、華やかな宮中の生活になじみ切れない紫式部の孤独な心も浮かび上がらせる作品です。

それじゃ、「紫式部日記」を通じて宮中の暮らしや作者の心の機微を日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「源氏物語」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。「紫式部日記」は、宮中の慶事や紫式部の心の機微が読み取れる面白い作品。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて「紫式部日記」の記事をまとめた。

「紫式部日記」は宮仕えの記録

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「紫式部日記」は、作者の清少納言が中宮彰子のもとに仕えていた一時期のことを書いた日記。宮中のなかでの貴族たちの生活、慶事、ちょっとした会話などが、つぶさに記録されました。そのため平安時代を知るための資料的価値も高いとされています。

紫式部は「源氏物語」の作者

日記の作者は「源氏物語」を書いたことで知られる紫式部。970年から978年のあいだに生まれ、1019年まで生きていたと言われていますが、詳細は分かりません。

父は藤原為時。花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人でした。紫式部は、藤原宣孝と結婚するものの死別。その後、藤原道長のすすめにより宮中に出ることになりました。

道長の娘である中宮彰子の家庭教師となった紫式部。宮中における出来事や慶事などを観察して「紫式部日記」に記しました。

紫式部が仕えた中宮彰子とは?

中宮彰子の本名は藤原彰子。藤原道長の娘のひとりです。摂関政治の一環として一条天皇の妃となりました。彰子に仕えていたのは、紫式部のほか和泉式部、赤染衛門など。その後の文化史に大きな影響を与える女房が集められていました。

「枕草子」の作者である清少納言が仕えた中宮定子とはライバル的な位置づけ。定子は出産の影響により若くして亡くなります。そのため、実質、唯一の妃となりました。

彰子の晩年は、藤原摂関政治に陰りが見え始め、院政が台頭しつつあるころ。「扶桑略記」や「百練抄」などの記録によると、1074年の10月3日に法成寺阿弥陀堂内で亡くなったとのこと。御年、87歳とされています。

「紫式部日記」の構成

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「紫式部日記」は宮仕えをしていた時期に断片的に書かれたもの。「源氏物語」のような超大作ではありません。紫式部本人がまとめた本当の構成は不明。現代に伝わっている「紫式部日記」から原作の状態を推測するにとどまります。

「紫式部日記」は複数の断片的な文章の集合体

「紫式部日記」は、宮中に仕えていたころの一時期の記録。現存する「紫式部日記」は、おおよそ4つの記事のグループから構成されています。

1.1008年の7月から1009年の正月までの記事
2.1009年に記された断片的な記事
3.消息文と呼ばれている書簡体の文章
4.1010年に記された断片的な記事

紫式部がまとめたとおりの順番かは謎

本来は1008年の5月からはじまるものの、何らかの事情により欠落しているとする見方も。平安時代の貴族はまいにち日記をつける習慣があります。「紫式部日記」の本来の姿はもっとボリュームがあると考えることも可能です。

また、後世に別の人が改変しているとする説もあります。その根拠となるのが「消息文」。普通は作品の完結部分として入れられるもの。それが途中にあるのは不自然です。誰かの改編のあととする見方が有力ですが、決定的な証拠はありません。

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