箱館を占拠した旧幕府軍
江戸城無血開城をきっかけに、戊辰戦争の舞台は北へと移っていきました。そして最後の舞台となったのが箱館戦争で、五稜郭の戦いとも呼ばれています。榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府軍は、蝦夷地に辿り着くと箱館の北に上陸しました。
そして二手に分かれての作戦で箱館に攻め入ると、各地で次々と新政府軍を倒してやがては五稜郭を占拠したのです。蝦夷地にはここを本拠とする松前藩がありましたが、この時点で松前藩はクーデターにより新政府軍についていました。つまり旧幕府軍にとって松前藩は敵であり、そのため松前藩に対して降伏を勧告する使者を送ります。
しかしその使者は殺害されてしまったため、旧幕府軍は松前藩と戦うことを決意しました。松前城に向けて出陣する旧幕府軍……この時、総督を務めていたのが新選組の土方歳三です。松前藩に勝利して蝦夷地を平定した旧幕府軍はここに箱館政権を樹立、蝦夷共和国の建国を宣言しました。
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旧幕府軍の作戦が失敗した宮古湾海戦
旧幕府軍が箱館を占拠したことが新政府軍の耳に入ると、新政府軍は軍を差し向けます。陸軍はもちろん、最新の装甲軍艦を持つ海軍も艦隊を編成して集結、旧幕府軍討伐のため圧倒的な軍勢と装備で青森へと向かいました。
一方、旧幕府軍は新政府軍の艦隊が宮古湾に入る情報を入手、そこで最新の装甲軍艦を奪う作戦を立てたのです。しかしこの作戦は不利な状況が重なって失敗、多くの兵が投降・死亡しました。この戦いは宮古湾海戦と呼ばれ、ここでもまた新政府軍が勝利したのです。
ちなみに、旧幕府軍が新政府軍の装甲軍艦の奪取を狙ったのは、旧幕府軍の軍艦である開陽丸を暴風雨で失ったからだとされています。海上の戦力で新政府軍に対抗できないため、その打開や対外交渉が有利になる点を理由に宮古湾海戦を引き起こしたのです。
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