今日は戊辰戦争について勉強していきます。戊辰戦争とは幕末の時代に起こった新政府軍と旧幕府軍の戦いで、この戦争を覚えるには、そのいきさつや各地で起こった多くの戦いを知る必要がある。

でも心配はいらない!なぜなら、この戦争は一つの物語として成り立つほど奥が深く、流れを知る中で先が気になり、むしろ自分から覚えたくなるくらいだからです。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から戊辰戦争をわかりやすくまとめた。

戊辰戦争が起こったいきさつ

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大政奉還してもなお政権を掌握する徳川慶喜

1867年、武力倒幕を目指す薩摩藩と長州藩は、朝廷への工作によって討幕の密勅をもらうことに成功します。討幕の密勅とは、薩摩藩と長州藩に下された徳川慶喜(とくがわよしのぶ)討伐の命令を伝える国家の公文書で、つまり幕府を倒すことを天皇に許可されたのです。

薩摩藩と長州藩は早速兵を集めて攻める作戦を練りますが、対する幕府……つまり徳川慶喜は意外な行動に出ました。討幕の密勅が下された直後、1867年10月14日に大政奉還を行って政権を明治天皇に返上したのです。翌日、この大政奉還が天皇に許可されたため、その時点で幕府はなくなりました。

倒すべき相手がいなくなったことで討幕の密勅は意味をなさず、そのため作戦は中止となります。本来ならこれで戦争をする理由はなくなりますが、それでも戊辰戦争が起こったのは徳川慶喜にはある企みがあったからです。徳川慶喜は幕府を失っても政権を掌握することを考えており、朝廷からも政務の継続を委任されたのでした。

王政復古の大号令による徳川慶喜の排除

大政奉還を行いつつも政権を掌握している徳川慶喜、当然この状況に反対した薩摩藩と長州藩は岩倉具視(いわくらともみ)と共に王政復古の大号令を出します。江戸幕府の廃止と摂政・関白等の役職の廃止、一方で総裁・議定・参与の三職を設置した新政府の樹立を宣言したのです。

会議では、徳川慶喜の役職の辞任と全ての領地を朝廷に返納すること(辞官納地)が決定して徳川慶喜を追い詰めます。徳川慶喜は大阪に移ると王政復古の大号令を強く非難しました。さらに薩摩藩は数々の挑発行為を繰り返し、その結果として旧幕府勢力は徳川慶喜でも制止できないほど激高します。

ついに、徳川慶喜は薩摩藩討伐のため配下の軍勢を京都に向かわせることにしました。こうして薩摩藩・長州藩を含めた新政府軍会津藩を含めた旧幕府軍が衝突、日本全土を巻き込んだ戊辰戦争へと発展していくのです。

鳥羽・伏見の戦いと江戸城無血開城

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戊辰戦争の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦い

1868年、戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽・伏見の戦いが勃発します。京都の南郊外となる鳥羽・伏見にて新政府軍と旧幕府軍が衝突したのです。この時の兵力は新政府軍の約5000人に対して旧幕府軍は約15000人とされており、兵力差では旧幕府軍が圧倒的に有利な状況でした。

しかし優勢となったのは意外にも新政府軍で、これは新政府軍が天皇の旗を掲げたため旧幕府軍が動揺したことが理由の一つとして挙げられています。新政府軍が天皇の旗を持つということは、天皇が新政府軍を認めたということ……つまり、旧幕府軍はそれに敵対する逆賊と扱われるわけですからね。

このため旧幕府軍は徐々に後退、ついては大坂城まで撤退します。また徳川慶喜はこの戦いで退却してしまい、これによって旧幕府軍は戦意喪失、各藩は戦いを止めて兵を帰すことにしました。こうして戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わったのです。

西郷隆盛が活躍した江戸城無血開城

鳥羽・伏見の戦いによって旧幕府軍は正式に朝廷の敵と見なされ、朝廷は旧幕府軍を討伐するための東征軍を作り、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に分かれて江戸へ向けて進軍します。そしていよいよ関東まで迫った東征軍は、3月15日に江戸城を攻撃する計画を立てました。

ここで活躍したのは新政府軍の西郷隆盛でしょう。西郷隆盛は旧幕府軍の勝海舟(かつかいしゅう)と会談、交渉の末に江戸城の明け渡しが成立したのです。徳川慶喜は江戸城を明け渡して謹慎、この一連の出来事は江戸城無血開城と呼ばれており、江戸が火の海になる事態を回避した西郷隆盛は高く評価されました。

無血開城された江戸城は尾張藩が、武器は肥後藩がそれぞれ一時的に管理を任されます。そして、東征軍の大提督である有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)の入城によって江戸城は正式に新政府軍の支配下へとなったのです。

上野戦争と北越戦争

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彰義隊と衝突した上野戦争

江戸城無血開城は戦わずして問題を解決しましたが、旧幕府軍の中には江戸開城に反対する者もいました。その者達は渋沢成一郎らを中心に彰義隊(しょうぎたい)を結成、新政府軍の兵士達に対して暴行や殺害を繰り返していたのです。

当初はここでも西郷隆盛が対応する予定でしたが、対応の手ぬるさを批判されて司令官から解任、新たに大村益次郎が新司令官に任命されました。大村益次郎は交渉ではなく武力での解決を主張、そのため上野近辺にて新政府軍と彰義隊が衝突します。

これが1868年の上野戦争であり、約10000人の新政府軍と約4000人の彰義隊の戦いが起こったのです。ただこの戦争はたった1日で終結、これは新政府軍の新兵器アームストロング砲が絶大な威力を誇っていたためで、砲撃された彰義隊はあっという間に全滅してしまいました。

新政府軍が最も苦戦した北越戦争

江戸開城の後、会津藩や庄内藩は新政府軍と争う姿勢をとっており、越後平野に出兵して奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成します。一方、新政府軍はその討伐のために越後方面に出兵しますが、ここで問題となったのが長岡藩でした。

この時、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わっておらず、新政府軍でもなく旧幕府軍でもない疑惑の立場をとっていたのです。新政府軍はこれを敵と判断して開戦、長岡藩もみすみすやられるわけにはいかず、そのため奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦います。

これが北越戦争ですが、北越戦争は戊辰戦争において新政府軍が最も苦戦した戦いです。と言うのも長岡藩には新潟港があり、ここが武器弾薬の拠点となっていたからで、長岡藩は新政府軍に対して最新武器で応戦していました。しかし、圧倒的な兵力を投入した新政府軍が最終的にはこの戦いに勝利したのです。

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戊辰戦争最後の舞台・箱館戦争

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箱館を占拠した旧幕府軍

江戸城無血開城をきっかけに、戊辰戦争の舞台は北へと移っていきました。そして最後の舞台となったのが箱館戦争で、五稜郭の戦いとも呼ばれています。榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府軍は、蝦夷地に辿り着くと箱館の北に上陸しました。

そして二手に分かれての作戦で箱館に攻め入ると、各地で次々と新政府軍を倒してやがては五稜郭を占拠したのです。蝦夷地にはここを本拠とする松前藩がありましたが、この時点で松前藩はクーデターにより新政府軍についていました。つまり旧幕府軍にとって松前藩は敵であり、そのため松前藩に対して降伏を勧告する使者を送ります。

しかしその使者は殺害されてしまったため、旧幕府軍は松前藩と戦うことを決意しました。松前城に向けて出陣する旧幕府軍……この時、総督を務めていたのが新選組の土方歳三です。松前藩に勝利して蝦夷地を平定した旧幕府軍はここに箱館政権を樹立、蝦夷共和国の建国を宣言しました。

旧幕府軍の作戦が失敗した宮古湾海戦

旧幕府軍が箱館を占拠したことが新政府軍の耳に入ると、新政府軍は軍を差し向けます。陸軍はもちろん、最新の装甲軍艦を持つ海軍も艦隊を編成して集結、旧幕府軍討伐のため圧倒的な軍勢と装備で青森へと向かいました。

一方、旧幕府軍は新政府軍の艦隊が宮古湾に入る情報を入手、そこで最新の装甲軍艦を奪う作戦を立てたのです。しかしこの作戦は不利な状況が重なって失敗、多くの兵が投降・死亡しました。この戦いは宮古湾海戦と呼ばれ、ここでもまた新政府軍が勝利したのです。

ちなみに、旧幕府軍が新政府軍の装甲軍艦の奪取を狙ったのは、旧幕府軍の軍艦である開陽丸を暴風雨で失ったからだとされています。海上の戦力で新政府軍に対抗できないため、その打開や対外交渉が有利になる点を理由に宮古湾海戦を引き起こしたのです。

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戊辰戦争の終結とその後の日本

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箱館戦争、そして戊辰戦争の終結

宮古湾海戦に勝利した新政府軍は青森に上陸、旧幕府軍もこれを阻止しようと反撃しますが撃退されてしまいます。いよいよ新政府軍は箱館に向けて進行、箱館を攻撃する態勢が整っていきました。そして、新政府軍による総攻撃が始まったのです。

追いつめられる旧幕府軍は応戦するも撤退を続け、五稜郭まで追い詰められました。やがて箱館の市街は新政府軍によって完全に制圧され、新選組の土方歳三もここで銃撃されて戦死します。榎本武揚は降伏勧告に否定を続けますが、旧幕府軍首脳側は相談の末に降伏を決定、五稜郭も開城することになったのです。

こうして箱館戦争……すなわち戊辰戦争は終結し、榎本武揚含む旧幕府軍の幹部らは出頭、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄に投獄されました。しかし黒田清隆らが助命運動を行ってことで明治5年である1872年に赦免(罪や過ちを許すこと)されたようです。1868年に勃発した戊辰戦争は、日本全土を巻き込んだ末1869年にようやく終わりました。

新時代の始まりと西南戦争へ

戊辰戦争によって幕府の時代は終わり、新政府……つまり明治政府による新時代が訪れます。明治政府は版籍奉還廃藩置県など新たな政治政策を次々と打ち出していきますが、それらは戊辰戦争で明治政府に貢献した士族にとって不満となるものでした。

その結果、やがては薩摩藩の士族と明治政府が衝突、日本史上最後の内戦となる西南戦争が起こります。薩摩藩は戊辰戦争で明治政府側として戦っていましたが、その薩摩藩が今度は明治政府と戦うことになるのです。

戊辰戦争の江戸城無血開城にて活躍した西郷隆盛も薩摩藩側となって明治政府と対立、西郷隆盛はこの西南戦争で命を落とします。そして日本の歴史における内戦はこれで終わるものの、その後は海外の国を相手にした戦争が起こっていくのです。

戊辰戦争を一つの物語として捉えよう

「鳥羽・伏見の戦いとは何か?」、「江戸城無血開城とは何か?」……戊辰戦争の場合、こうやってそれぞれ単体で覚えようとするとなかなか大変です。

それよりも、まず戊辰戦争全体の流れを一つのストーリーとして覚えましょう。その方が頭に入りやすく、また興味も出て覚えるのが苦にならないですよ。

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幕末日本史歴史江戸時代

新政府軍と旧幕府軍の戦い!5分で分かる「戊辰戦争」の流れを元塾講師がわかりやすく解説

戊辰戦争の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦い

1868年、戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽・伏見の戦いが勃発します。京都の南郊外となる鳥羽・伏見にて新政府軍と旧幕府軍が衝突したのです。この時の兵力は新政府軍の約5000人に対して旧幕府軍は約15000人とされており、兵力差では旧幕府軍が圧倒的に有利な状況でした。

しかし優勢となったのは意外にも新政府軍で、これは新政府軍が天皇の旗を掲げたため旧幕府軍が動揺したことが理由の一つとして挙げられています。新政府軍が天皇の旗を持つということは、天皇が新政府軍を認めたということ……つまり、旧幕府軍はそれに敵対する逆賊と扱われるわけですからね。

このため旧幕府軍は徐々に後退、ついては大坂城まで撤退します。また徳川慶喜はこの戦いで退却してしまい、これによって旧幕府軍は戦意喪失、各藩は戦いを止めて兵を帰すことにしました。こうして戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わったのです。

西郷隆盛が活躍した江戸城無血開城

鳥羽・伏見の戦いによって旧幕府軍は正式に朝廷の敵と見なされ、朝廷は旧幕府軍を討伐するための東征軍を作り、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に分かれて江戸へ向けて進軍します。そしていよいよ関東まで迫った東征軍は、3月15日に江戸城を攻撃する計画を立てました。

ここで活躍したのは新政府軍の西郷隆盛でしょう。西郷隆盛は旧幕府軍の勝海舟(かつかいしゅう)と会談、交渉の末に江戸城の明け渡しが成立したのです。徳川慶喜は江戸城を明け渡して謹慎、この一連の出来事は江戸城無血開城と呼ばれており、江戸が火の海になる事態を回避した西郷隆盛は高く評価されました。

無血開城された江戸城は尾張藩が、武器は肥後藩がそれぞれ一時的に管理を任されます。そして、東征軍の大提督である有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)の入城によって江戸城は正式に新政府軍の支配下へとなったのです。

上野戦争と北越戦争

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彰義隊と衝突した上野戦争

江戸城無血開城は戦わずして問題を解決しましたが、旧幕府軍の中には江戸開城に反対する者もいました。その者達は渋沢成一郎らを中心に彰義隊(しょうぎたい)を結成、新政府軍の兵士達に対して暴行や殺害を繰り返していたのです。

当初はここでも西郷隆盛が対応する予定でしたが、対応の手ぬるさを批判されて司令官から解任、新たに大村益次郎が新司令官に任命されました。大村益次郎は交渉ではなく武力での解決を主張、そのため上野近辺にて新政府軍と彰義隊が衝突します。

これが1868年の上野戦争であり、約10000人の新政府軍と約4000人の彰義隊の戦いが起こったのです。ただこの戦争はたった1日で終結、これは新政府軍の新兵器アームストロング砲が絶大な威力を誇っていたためで、砲撃された彰義隊はあっという間に全滅してしまいました。

新政府軍が最も苦戦した北越戦争

江戸開城の後、会津藩や庄内藩は新政府軍と争う姿勢をとっており、越後平野に出兵して奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成します。一方、新政府軍はその討伐のために越後方面に出兵しますが、ここで問題となったのが長岡藩でした。

この時、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わっておらず、新政府軍でもなく旧幕府軍でもない疑惑の立場をとっていたのです。新政府軍はこれを敵と判断して開戦、長岡藩もみすみすやられるわけにはいかず、そのため奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦います。

これが北越戦争ですが、北越戦争は戊辰戦争において新政府軍が最も苦戦した戦いです。と言うのも長岡藩には新潟港があり、ここが武器弾薬の拠点となっていたからで、長岡藩は新政府軍に対して最新武器で応戦していました。しかし、圧倒的な兵力を投入した新政府軍が最終的にはこの戦いに勝利したのです。

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