戊辰戦争の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦い
1868年、戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽・伏見の戦いが勃発します。京都の南郊外となる鳥羽・伏見にて新政府軍と旧幕府軍が衝突したのです。この時の兵力は新政府軍の約5000人に対して旧幕府軍は約15000人とされており、兵力差では旧幕府軍が圧倒的に有利な状況でした。
しかし優勢となったのは意外にも新政府軍で、これは新政府軍が天皇の旗を掲げたため旧幕府軍が動揺したことが理由の一つとして挙げられています。新政府軍が天皇の旗を持つということは、天皇が新政府軍を認めたということ……つまり、旧幕府軍はそれに敵対する逆賊と扱われるわけですからね。
このため旧幕府軍は徐々に後退、ついては大坂城まで撤退します。また徳川慶喜はこの戦いで退却してしまい、これによって旧幕府軍は戦意喪失、各藩は戦いを止めて兵を帰すことにしました。こうして戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わったのです。
西郷隆盛が活躍した江戸城無血開城
鳥羽・伏見の戦いによって旧幕府軍は正式に朝廷の敵と見なされ、朝廷は旧幕府軍を討伐するための東征軍を作り、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に分かれて江戸へ向けて進軍します。そしていよいよ関東まで迫った東征軍は、3月15日に江戸城を攻撃する計画を立てました。
ここで活躍したのは新政府軍の西郷隆盛でしょう。西郷隆盛は旧幕府軍の勝海舟(かつかいしゅう)と会談、交渉の末に江戸城の明け渡しが成立したのです。徳川慶喜は江戸城を明け渡して謹慎、この一連の出来事は江戸城無血開城と呼ばれており、江戸が火の海になる事態を回避した西郷隆盛は高く評価されました。
無血開城された江戸城は尾張藩が、武器は肥後藩がそれぞれ一時的に管理を任されます。そして、東征軍の大提督である有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)の入城によって江戸城は正式に新政府軍の支配下へとなったのです。
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彰義隊と衝突した上野戦争
江戸城無血開城は戦わずして問題を解決しましたが、旧幕府軍の中には江戸開城に反対する者もいました。その者達は渋沢成一郎らを中心に彰義隊(しょうぎたい)を結成、新政府軍の兵士達に対して暴行や殺害を繰り返していたのです。
当初はここでも西郷隆盛が対応する予定でしたが、対応の手ぬるさを批判されて司令官から解任、新たに大村益次郎が新司令官に任命されました。大村益次郎は交渉ではなく武力での解決を主張、そのため上野近辺にて新政府軍と彰義隊が衝突します。
これが1868年の上野戦争であり、約10000人の新政府軍と約4000人の彰義隊の戦いが起こったのです。ただこの戦争はたった1日で終結、これは新政府軍の新兵器アームストロング砲が絶大な威力を誇っていたためで、砲撃された彰義隊はあっという間に全滅してしまいました。
新政府軍が最も苦戦した北越戦争
江戸開城の後、会津藩や庄内藩は新政府軍と争う姿勢をとっており、越後平野に出兵して奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成します。一方、新政府軍はその討伐のために越後方面に出兵しますが、ここで問題となったのが長岡藩でした。
この時、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わっておらず、新政府軍でもなく旧幕府軍でもない疑惑の立場をとっていたのです。新政府軍はこれを敵と判断して開戦、長岡藩もみすみすやられるわけにはいかず、そのため奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦います。
これが北越戦争ですが、北越戦争は戊辰戦争において新政府軍が最も苦戦した戦いです。と言うのも長岡藩には新潟港があり、ここが武器弾薬の拠点となっていたからで、長岡藩は新政府軍に対して最新武器で応戦していました。しかし、圧倒的な兵力を投入した新政府軍が最終的にはこの戦いに勝利したのです。
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