
6.浅井長政には三姉妹の他にも子供がいた
浅井三姉妹だけでなく、長政には側室がいたので他にも子供がいたということ。女性は江や娘の千姫の側に仕える乳母となっているのですね。
6-1.長政嫡子の万福丸
浅井万福丸(あざい まんぷくまる)は永禄7年(1564年)頃の生まれ。生母不詳で、天正元年9月(1573年10月)に串刺しの刑にて亡くなっています。
6-2.お市の方の子かもしれない万寿丸
万寿丸(まんじゅまる)は天正元年(1573年)生まれ。小谷城陥落のときには生まれたばかりで、お市の方の子か側室の子か不明ですが、許されて仏門に入り正芸と号して、近江国坂田郡長沢村副田寺の住職になりました。
6-3.長政の養子とも3男とも言われる浅井井頼
浅井井頼(あざい いより)は元亀2年(1570年)頃の生まれで、長政の養子とも3男とも言われています。
信長の残党狩りから逃れたようで、賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に属し、その後に豊臣秀次、秀保の家臣となって600石の知行を与えられました。秀保の死後、大和郡山に増田長盛が入るとその家臣となり、関ヶ原の戦いでは西軍の生駒親正の隊に。戦後は、生駒親正の子の一正に仕えました。
大坂冬の陣では大坂城に入って、夏の陣で討死。または落城後に大坂を脱出、常高院初を頼って若狭小浜藩の京極忠高の家臣となって「京極作庵」と名乗ったとか、真田十勇士の根津甚八のモデルとも言われています。
6-4.千姫に仕えた刑部卿の局
刑部卿の局(ぎょうぶきょうのつぼね)は、江の娘・徳川千姫の乳母。元亀元年(1570年)に浅井長政の娘として誕生、母は不詳。
江の侍女として民部卿局と共に上臈として仕えていましたが、慶長2年(1597年)、江が千姫を妊娠した際、乳母となり、千姫が7歳で豊臣秀頼と結婚すると、侍女の松坂局とともに大坂城に入り。千姫の教育係として京風作法なども教えました。
大坂夏の陣のときには、千姫とともに脱出。千姫再婚前に代理として満徳寺で得度しましたが、刑部卿の局はその後、千姫に従って姫路城、竹橋御殿でも千姫の側に仕え、万治4年(1661年)、江戸で死去しました。享年92歳でした。
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6-5.京極家に嫁いだらしいが謎の女性くす
くすは浅井長政の娘で京極家に嫁ぎ伯母である秀吉の側室・松の丸殿に仕えたと言われていますが詳細は不明。法名は寶光院殿心室理性尼大姉で生前に出家。没年は不明で、寛永3年(1626年)に若狭の湖嶽山龍澤寺で、くすの木像が造られています。
7-1.茶々にまつわる当時から誰もが不審に思っている伝説
淀殿と乳母大蔵卿の局の息子大野治長とは乳兄妹、当時から二人の密通が噂されていたという記録もあり、早世した鶴松や秀頼は秀吉の実子ではなく、治長と淀殿の子であるとする説もあります。秀吉は正室・寧々に子供がなく、あれだけ大勢の側室がいたのに晩年になって淀殿が2人も産んでいるのは誰が考えてもおかしいと思うはず。
7-2.初にまつわる嫉妬に狂った伝説
初は自分の子供はいないですが、妹・江の娘初姫をもらって育てたり、養子を育てたりしたなど、積極的に何人もの子育てに関わった話があります。常高院と尼になって以後も、妹・江の婚家の徳川家にも出入りし、大坂城の姉・茶々との交渉も買って出たという世話好きな印象のある人です.。
しかし、若い頃は夫高次の侍女懐妊を知ると嫉妬して殺害を計画、家臣が幼い後継ぎの忠高をかくまって、初の気持ちが収まるまで2年ほど浪人したという話が新発見されました。
織田家は美形の遺伝がありますが、一緒に狂気とヒステリーの人も多いようで、初も例外ではなかったのでしょうか。また、初の夫高次の母京極マリアがキリシタンだったので、初も洗礼を受けたキリシタンだという説もあります。
7-3.江にまつわる将軍後継ぎに関する伝説
江には家光(竹千代)と忠長(国松)の2人の息子がありましたが、江は、おっとりとしてどもりがちだったと言われる長男・竹千代よりも、才気煥発な国松を愛して国松を跡取りにと秀忠にアプローチしていたと言われています。
秀忠は江に首ったけだったので、江の希望通りに竹千代廃嫡国松後継ぎに流されそうに思った竹千代の乳母の春日局が、駿河の大御所家康に直訴したことで、竹千代が無事に跡取りにという逸話は有名。
しかし江が国松に入れ挙げた証拠も、春日局が家康に直訴した資料もないということです。なお、忠長は江の死後、後ろ盾を失い後に乱心して蟄居自害となりました。
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波乱万丈の人生を送った、お姫様のイメージを覆すような浅井三姉妹
母・お市の方と同じく、自分の意志と関係なく家の都合で政略結婚をさせられた浅井三姉妹は、生まれながらに持った身分や家系、美貌をもとに政治的に利用されたのでしたが、与えられた環境のなかで出来た家族を自分なりに愛し、気遣って生きたのだと思います。
そう考えると戦国時代のお姫様というのは、自分をしっかり持つよう教育され、たくましくなければ生きられない時代だったのだなあとつくづく思った次第です。