室町時代戦国時代日本史歴史

悲劇のヒロインお市の方の娘「浅井三姉妹(茶々、初、江)」ー人生から伝説までを女性史大好き歴女がとことんわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は、浅井長政の娘たち浅井三姉妹を取り上げるぞ。父の浅井長政は信長に滅ぼされたが、三姉妹は信長の妹のお市の方と共に助け出されて成長したんだ。

3人ともそれぞれ戦国女性を代表するような数奇な人生を送ったのだが、女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりかが、戦国時代の女性を代表する浅井三姉妹と彼女らを巡る人々や伝説についてまでを、5分でわかるよう徹底的にまとめる。

1、浅井三姉妹とは浅井長政とお市の方の娘たちのこと

image by PIXTA / 10545227

織田信長の妹のお市の方と、最初の夫である北近江の戦国大名だった浅井長政(あざいながまさ)との間に生まれた茶々、初、江の3人の姉妹のことをさします。

1-1、両親は政略結婚でも円満だったが、信長に敗れて浅井家滅亡に

信長の妹お市の方と浅井長政は、信長と浅井家の同盟の証の政略結婚でしたが、夫婦仲は円満で3女に恵まれました。三人姉妹は浅井家の小谷城で生まれ、仲睦まじい美男美女の両親のもとですくすくと成長していましたが、伯父の信長が、浅井家との同盟の約束である「朝倉家との不戦」を破ったため、浅井、朝倉軍と信長軍が激突。伯父である信長に攻められて、天正元年(1573年)小谷城が陥落し父長政は自害し浅井家は滅亡。三姉妹は母お市の方と共に救出されました。

2-2、浅井家滅亡後は織田家に保護され、その後は柴田勝家の北ノ庄城へ

その後、お市の方と三姉妹は織田家の庇護のもとに清洲城、岐阜城などで9年ほど平和な生活を過ごしたものの、天正10年(1582年)本能寺の変が勃発して伯父の信長が横死。羽柴秀吉らが明智光秀を制圧した後、秀吉ら織田家の重臣によって織田家の後継ぎ、その後を決める清洲会議が開催されました。
そのときに浅井三姉妹の母お市の方は、織田家の重臣だった柴田勝家と再婚が決定。お市の方と三姉妹は、共に柴田勝家の居城である北ノ庄城に引き取られました。が、1年もたたない、天正11年(1583年)に柴田勝家と羽柴秀吉が衝突、秀吉軍に攻められて、北ノ庄城が落城しました。母お市の方は夫の柴田勝家と運命を共にして自害。しかし三姉妹は母お市の方による秀吉への直筆状を持って城を脱出し、その後は秀吉の保護下におかれました。

2-3、北ノ庄城陥落後は秀吉の保護下におかれた

北ノ庄城での母お市の方自害後、浅井三姉妹は救出されて、秀吉の保護下におかれました。

そして安土城に迎えられ、その後は従兄に当たる織田信雄の後見のもとで、信長の妹でお市の方の姉のお犬の方や、叔父の織田長益(有楽、または有楽斎)の庇護を受けたとか、後には、聚楽第で父長政姉で伯母の京極マリアの縁を頼って、従姉の松の丸殿こと京極竜子の後見の元にあった説もあり。

3、浅井三姉妹のはっきりした生年は不明

浅井長政とお市の方との結婚は、永禄7年(1564年)、永禄8年(1565年)、永禄10年(1567年)説があり、はっきりしておらず、3人姉妹の正確な生年も不詳で、亡くなったときの年齢から逆算して推定したもの。

3-1、長女茶々は秀吉の側室に

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By 奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』 / Nara Museum of Art – http://www.mahoroba.ne.jp/~museum/20sen/kaiga1/0003j.htm, パブリック・ドメイン, Link

長女茶々は、永禄12年(1569年)は近江国小谷城(現在の滋賀県長浜市)で誕生。名前は、茶々またはお茶、後年、従五位下を賜ったときには菊子という公式名を名乗っています。

秀吉の側室となった後、住む場所により、二の丸殿、西の丸殿、淀の方などと呼ばれ、秀頼の母としてお袋様と呼ばれたりも。秀吉の死後落飾して大広院(だいこういん)、または大康院という名もあり。現在の淀殿、淀君は、生存中ではなく江戸時代以降の呼び名。

天正16年(1588年)頃、秀吉の側室になり、翌年、天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生みました。大喜びした秀吉は、茶々のために山城淀城を築城して与えたので、以後、淀の方と呼ばれるように。しかし鶴松は天正19年(1591年)に2歳で早世。しかし文禄2年(1593年)に拾(秀頼)が産まれました

茶々は近江の浅井氏の出身だということで、秀吉傘下の家臣のうち近江出身の石田三成、片桐且元らの勢力のシンボル的存在とされ、秀吉正室寧々の子飼いの尾張出身者たち、武断派の加藤清正、福島正則らとの対立を生んだと言われています。茶々は秀吉の死後は秀頼の後見人として大坂城に居座り、乳母の大蔵卿局や饗庭局らを重用し、乳母この大野治長らを用いて事実上の大坂城主として実権を握りました。関が原合戦後、秀吉の遺言だったこともあり、秀頼と徳川家康孫で茶々の妹お江の長女千姫とが結婚、このとき浅井三姉妹は十数年ぶりに3人が揃って再会。

大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤又兵衛などが、10年籠城して徹底抗戦して行けば情勢が変わると主張したのに、茶々の居室付近に大砲が撃ち込まれて侍女が吹っ飛ばされたのを目の当たりにして震え上がり、是が非でも講和を主張、このとき、妹の常高院お初が交渉にあたったけれど、結果的に家康に堀を埋められ大坂城は裸城に。

そして慶長20年5月8日(1615年6月4日)大阪夏の陣が勃発、茶々は秀頼と共に自害して豊臣家は滅亡。茶々は享年49歳。

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やはり浅井三姉妹では、茶々が一番有名だな。聞くところによれば、権力者の側室は後継ぎを産んでなんぼだというが、秀吉の唯一の子で跡取りの秀頼を産んだ茶々は怖いものなしだったのかもしれないぞ。

3-2、次女の初は、京極家の従兄へ嫁ぐ

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By 不明 – 常高寺所蔵、福井県立若狭歴史民俗博物館寄託「常高院像」, パブリック・ドメイン, Link

永禄13年(1570年)小谷城で誕生。

天正15年(1587年)、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたり、父長政の姉の子で従兄でもある京極忠高と結婚。忠高は天正18年(1590年)、小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石、次は文禄4年(1595年)には近江大津城6万石へと加増され、羽柴を許され豊臣姓もという出世ぶり。

しかし、妹竜子が秀吉側室の松の丸殿であることや、初との結婚による出世とされて、蛍大名と陰口をたたかれたけれど、慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いでは、三成側に就くと思わせて大津城に籠城して東軍に転じるなど、西軍を足止めする功績を残して家康から、若狭小浜8万5000石を与えられました。

初は夫の死後、剃髪して常高院と名乗り、大坂冬の陣では、大坂城に入って姉茶々らと妹江の婚家徳川家との和議に尽力も。高次との間に子供はなかったけれど、妹のお江の4女初姫をもらって嫡子忠高と結婚させたり、他にも血縁関係や家臣の子女の養育にあたったり、大坂夏の陣の後、秀頼の娘で後の天秀尼の助命を姪の千姫と共に家康に嘆願したと言われる、世話好きな人でもあります。

三姉妹のうち一番長生きで、寛永10年(1633年)死去、享年64歳。

蛍大名とは?

武士は戦場による武功によって加増されてなんぼなのですが、主筋との結婚や姉や妹が側室になり後継ぎを産んだことで加増されたり大名になった人を、女の尻の光で出世したと言う意味で、蛍大名と蔑称されます。
京極高次が有名ですが、江戸幕府の5代将軍綱吉の母桂昌院の実家である本庄家も将軍の母の実家というだけで小大名になれたことで、たいへん有名。

3-3、三女江は3度目に徳川秀忠と年の差結婚

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By 不明 – The Japanese book “Sengoku Daimyō Azai-shi to Kita-Ōmi (戦国大名浅井氏と北近江)”, Nagahama Castle Historical Museum (長浜市立長浜城歴史博物館), 2008 ISBN 978-4-88325-373-9, パブリック・ドメイン, Link

天正元年〈1573年〉小谷城で誕生という説と、お市の方は小谷城脱出後に岐阜で出産した説もあり。名前は小督、江与、おごう、またはこごう説。亡くなった後に従一位を追贈され、達子(さとこ、またはみちこ)という名も。

最初は秀吉によって、信長の次男でお江の従兄の織田信雄の家臣であり、従兄の佐治一成と政略結婚、しかし織田信雄と秀吉が小牧長久手の合戦で敵同士となったために離婚。これは時期がはっきりせず、婚約だけだった説もあり。

その後、天正14年(1586年)から文禄元年(1592年)までの間の時期に、秀吉の姉の息子で秀次の兄である羽柴秀勝と結婚、一女完子が生まれたが、秀勝が文禄元年(1592年)朝鮮の役で病没。そして、文禄4年(1595年)に徳川家康の3男で6歳年下の17歳の秀忠と結婚、長女千姫を頭に2男5女を儲けました

お江の長女千姫と長姉茶々の息子豊臣秀頼は秀吉の遺言で結婚、またお江の長男家光は3代将軍となり、徳川歴代将軍の中で唯一正室から生まれた将軍でありました。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54

4、浅井三姉妹は美人だったか

お市の方は戦国一の美貌と言われたのですが、娘たちはどうだったでしょうか。茶々は大柄で華やかな印象、秀吉があれほど入れ込むのだから美人だったのでは。お初は地味な存在ながらもお世話好き、お江は3度も結婚させられ、3度目の秀忠は7つも年下でしたが、秀忠が腰元に笑顔を向けただけでお江がヒステリー発作を起こしたという話が伝わっていて、あまりのショックに秀忠はその後一切浮気とかもなかった、大変嫉妬深かったという印象があります。

実直で誠実な人柄であったらしい秀忠は、17歳でお江と結婚後は、側室もおかず、唯一、保科正之という婚外子が生まれたものの、お江の存命中は対面もせず隠し通していたというほど。

ヒステリーの発作はたしかに怖いけれど、秀忠はお江にぞっこんだったためにこのような気遣いをしたのならば、よほどの美人であったのでは。

5、浅井三姉妹の子孫は

3人の中ではやはり多くの子に恵まれたお江の子孫が続いているようです。

\次のページで「5-2、京極家に嫁いだ初は養子はあるが実子はなし」を解説!/

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