今回は、浅井長政の娘たち浅井三姉妹を取り上げるぞ。父・浅井長政は信長に滅ぼされたが、三姉妹は信長の妹である母・お市の方と共に助け出されて成長したんです。

3人ともそれぞれ戦国女性を代表するような数奇な人生を送ったのですが、女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりかが、戦国時代の女性を代表する浅井三姉妹と彼女らを巡る人々や伝説についてまでを、5分でわかるよう徹底的にまとめる。

1.浅井三姉妹とは浅井長政とお市の方の娘たちのこと

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浅井三姉妹とは織田信長の妹のお市の方と、最初の夫である北近江の戦国大名だった浅井長政(あざいながまさ)との間に生まれた茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう)の三人の姉妹のことをさします。

1-1.両親は政略結婚でも円満だったが、信長に敗れて浅井家滅亡に

信長の妹・お市の方と浅井長政は、信長と浅井家の同盟の証の政略結婚でしたが、夫婦仲は円満で三女に恵まれました。

三姉妹は浅井家の小谷城で生まれ、仲睦まじい美男美女の両親のもとですくすくと成長していましたが、伯父の信長が、浅井家との同盟の約束である「朝倉家との不戦」を破ったため、浅井・朝倉軍と信長軍が激突。伯父である信長に攻められて、天正元年(1573年)小谷城が陥落し父・長政は自害し浅井家は滅亡。三姉妹は母・お市の方と共に救出されました。

2-2.浅井家滅亡後は織田家に保護され、その後は柴田勝家の北ノ庄城へ

その後、お市の方と三姉妹は織田家の庇護のもとに清洲城、岐阜城などで9年ほど平和な生活を過ごしたものの、天正10年(1582年)本能寺の変が勃発して伯父の信長が横死。羽柴秀吉らが明智光秀を制圧した後、秀吉ら織田家の重臣によって織田家の後継ぎ、その後を決める清洲会議が開催されました。

そのときに浅井三姉妹の母・お市の方は、織田家の重臣だった柴田勝家と再婚が決定。お市の方と三姉妹は、共に柴田勝家の居城である北ノ庄城に引き取られました。が、1年もたたない天正11年(1583年)に柴田勝家と羽柴秀吉が衝突、秀吉軍に攻められて、北ノ庄城が落城しました。

母・お市の方は夫の柴田勝家と運命を共にして自害。しかし三姉妹は母・お市の方による秀吉への直筆状を持って城を脱出し、その後は秀吉の保護下におかれました。

2-3.北ノ庄城陥落後は秀吉の保護下におかれた

北ノ庄城での母・お市の方自害後、浅井三姉妹は救出されて、秀吉の保護下におかれました。

そして安土城に迎えられ、その後は従兄に当たる織田信雄の後見のもとで、信長の妹でお市の方の姉のお犬の方や叔父の織田長益(有楽、または有楽斎)の庇護を受けた説や、後には、聚楽第で父・長政姉で伯母の京極マリアの縁を頼って、従姉の松の丸殿こと京極竜子の後見の元にあった説もあります。

3.浅井三姉妹のはっきりした生年は不明

浅井長政とお市の方との結婚は、永禄7年(1564年)、永禄8年(1565年)、永禄10年(1567年)説があり、はっきりしていません。また、三姉妹の正確な生年も不詳で、亡くなったときの年齢から逆算して推定したものです。

3-1.長女・茶々は秀吉の側室に

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By 奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』 / Nara Museum of Art - http://www.mahoroba.ne.jp/~museum/20sen/kaiga1/0003j.htm, パブリック・ドメイン, Link

長女・茶々は、永禄12年(1569年)に近江国小谷城(現在の滋賀県長浜市)で誕生。名前は、茶々またはお茶。後年、従五位下を賜ったときには菊子という公式名を名乗っています。

秀吉の側室となった後、住む場所により、二の丸殿、西の丸殿、淀の方などと呼ばれ、秀頼の母としてお袋様と呼ばれたりもしました。秀吉の死後落飾して大広院(だいこういん)、または大康院という名もあり。現在の淀殿、淀君は、生存中ではなく江戸時代以降の呼び名です。

天正16年(1588年)頃、秀吉の側室になり、翌年、捨(鶴松)を生みました。大喜びした秀吉は、茶々のために山城淀城を築城して与えたので、以後、淀の方と呼ばれるように。しかし鶴松は天正19年(1591年)に2歳で早世。その後、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)が産まれました

茶々は近江の浅井氏の出身だということで、秀吉傘下の家臣のうち近江出身の石田三成、片桐且元らの勢力のシンボル的存在とされ、秀吉正室・寧々の子飼いの尾張出身者たち、武断派の加藤清正、福島正則らとの対立を生んだと言われています。茶々は秀吉の死後は秀頼の後見人として大坂城に居座り、乳母の大蔵卿局や饗庭局らを重用し、乳母子の大野治長らを用いて事実上の大坂城主として実権を握りました。関が原合戦後、秀吉の遺言だったこともあり、秀頼と徳川家康孫で茶々の妹・江の長女千姫とが結婚、このとき浅井三姉妹は十数年ぶりに3人が揃って再会。

大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤又兵衛などが、10年籠城して徹底抗戦して行けば情勢が変わると主張しましたが、茶々の居室付近に大砲が撃ち込まれて侍女が吹き飛ばされたのを目の当たりにして震え上がり、是が非でも講和を主張。このとき、妹の常高院お初が交渉にあたりましたが、結果的に家康に堀を埋められ大坂城は裸城に。

そして慶長20年5月8日(1615年6月4日)大阪夏の陣が勃発、茶々は秀頼と共に自害して豊臣家は滅亡。茶々は享年49歳でした。

3-2.次女・初は京極家の従兄へ嫁ぐ

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By 不明 - 常高寺所蔵、福井県立若狭歴史民俗博物館寄託「常高院像」, パブリック・ドメイン, Link

次女・初は永禄13年(1570年)小谷城で誕生。

天正15年(1587年)、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたり、父・長政の姉の子で従兄でもある京極忠高と結婚。忠高は天正18年(1590年)、小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石、文禄4年(1595年)には近江大津城6万石へと加増され、羽柴を許され豊臣姓もという出世ぶり。

しかし、妹・竜子が秀吉側室の松の丸殿であることや、初との結婚による出世とされて、蛍大名と陰口をたたかれます。しかし、慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いでは、三成側に就くと思わせて大津城に籠城して東軍に転じるなど、西軍を足止めする功績を残して、家康から若狭小浜8万5000石を与えられました。

初は夫の死後、剃髪して常高院と名乗り、大坂冬の陣では大坂城に入って姉・茶々らと妹・江の婚家徳川家との和議に尽力。高次との間に子供はなかったものの、妹・江の4女初姫をもらって嫡子忠高と結婚させたり、他にも血縁関係や家臣の子女の養育にあたったり、大坂夏の陣の後、秀頼の娘で後の天秀尼の助命を姪の千姫と共に家康に嘆願したと言われる、世話好きな人でもあります。

三姉妹のうち一番長生きで、寛永10年(1633年)に死去。享年64歳でした。

蛍大名とは?
武士は戦場による武功によって加増されてなんぼなのですが、主筋との結婚や姉や妹が側室になり後継ぎを産んだことで加増されたり大名になった人を、女の尻の光で出世したと言う意味で、蛍大名と蔑称されます。

京極高次が有名ですが、江戸幕府の5代将軍綱吉の母・桂昌院の実家である本庄家も将軍の母の実家というだけで小大名になれたことで、たいへん有名です。

3-3.三女・江は3度目に徳川秀忠と年の差結婚

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By 不明 - The Japanese book "Sengoku Daimyō Azai-shi to Kita-Ōmi (戦国大名浅井氏と北近江)", Nagahama Castle Historical Museum (長浜市立長浜城歴史博物館), 2008 ISBN 978-4-88325-373-9, パブリック・ドメイン, Link

三女・江は天正元年(1573年)小谷城で誕生という説と、お市の方が小谷城脱出後に岐阜で出産した説があります。名前は小督、江与、おごう、またはこごう。亡くなった後に従一位を追贈され、達子(さとこ、またはみちこ)という名も。

最初は秀吉によって、信長の次男で江の従兄の織田信雄の家臣であり、従兄の佐治一成と政略結婚。しかし織田信雄と秀吉が小牧長久手の合戦で敵同士となったために離婚。これは時期がはっきりせず、婚約だけだった説もあります。

その後、天正14年(1586年)から文禄元年(1592年)までの間に、秀吉の姉の息子で秀次の兄である羽柴秀勝と結婚。一女・完子が生まれましたが、秀勝が文禄元年(1592年)朝鮮の役で病没。そして、文禄4年(1595年)に徳川家康の3男で6歳年下の17歳の秀忠と結婚。長女・千姫を頭に2男5女をもうけました

江の長女・千姫と長姉茶々の息子・豊臣秀頼は秀吉の遺言で結婚、また江の長男家光は3代将軍となり、徳川歴代将軍の中で唯一正室から生まれた将軍でありました。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去。享年54歳でした。

4.浅井三姉妹は美人だったか

お市の方は戦国一の美貌と言われたのですが、娘たちはどうだったでしょうか。茶々は大柄で華やかな印象、秀吉があれほど入れ込むのだから美人だったのでは。初は地味な存在ながらも世話好き、江は3度も結婚させられ、3度目の秀忠は7つも年下でしたが、秀忠が腰元に笑顔を向けただけで江がヒステリー発作を起こしたという話が伝わっていて、あまりのショックに秀忠はその後一切浮気もなかった、大変嫉妬深かったという逸話があります。

実直で誠実な人柄であったらしい秀忠は、17歳で江と結婚後は、側室もおかず、唯一、保科正之という婚外子が生まれたものの、江の存命中は対面もせず隠し通していたというほど。

ヒステリーの発作はたしかに怖いですが、秀忠は江にぞっこんだったためにこのような気遣いをしたのならば、よほどの美人であったのではないでしょうか。

5.浅井三姉妹の子孫は

ここからは浅井三姉妹の子孫についてみていきましょう。三人の中ではやはり多くの子に恵まれた江の子孫が続いているようです。

5-1.茶々こと淀殿は子供は出来たが…

鶴松は3歳で早世。秀頼は大坂夏の陣で23歳で自害(生存説もあり)。子孫はなし。

5-2.京極家に嫁いだ初は養子はあるが実子はなし

初は何人もの養子を育てたのですが、実の子供は授からなかったので、子孫なし。

5-3.江は3代将軍生母・女院生母となった

羽柴秀勝との間に生まれた豊臣完子(さだこ)は、江が秀忠と結婚するときに長姉の茶々が引き取り、その後、五摂家の九条家に嫁いで4男3女を産み、その子孫が現在の皇室にまで続いています

そして徳川秀忠との間の2男5女のうち、千姫の娘が池田家へ嫁ぎ綱政ら池田家の子孫に繋がり、家光の男系は絶えたもののその娘千代姫が尾張家へ嫁いだ子孫が続いているのです。

\次のページで「6.浅井長政には三姉妹の他にも子供がいた」を解説!/

6.浅井長政には三姉妹の他にも子供がいた

浅井三姉妹だけでなく、長政には側室がいたので他にも子供がいたということ。女性は江や娘の千姫の側に仕える乳母となっているのですね。

6-1.長政嫡子の万福丸

浅井万福丸(あざい まんぷくまる)は永禄7年(1564年)頃の生まれ。生母不詳で、天正元年9月(1573年10月)に串刺しの刑にて亡くなっています。

6-2.お市の方の子かもしれない万寿丸

万寿丸(まんじゅまる)は天正元年(1573年)生まれ。小谷城陥落のときには生まれたばかりで、お市の方の子か側室の子か不明ですが、許されて仏門に入り正芸と号して、近江国坂田郡長沢村副田寺の住職になりました。

6-3.長政の養子とも3男とも言われる浅井井頼

浅井井頼(あざい いより)は元亀2年(1570年)頃の生まれで、長政の養子とも3男とも言われています。

信長の残党狩りから逃れたようで、賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に属し、その後に豊臣秀次、秀保の家臣となって600石の知行を与えられました。秀保の死後、大和郡山に増田長盛が入るとその家臣となり、関ヶ原の戦いでは西軍の生駒親正の隊に。戦後は、生駒親正の子の一正に仕えました。

大坂冬の陣では大坂城に入って、夏の陣で討死。または落城後に大坂を脱出、常高院初を頼って若狭小浜藩の京極忠高の家臣となって「京極作庵」と名乗ったとか、真田十勇士の根津甚八のモデルとも言われています。

6-4.千姫に仕えた刑部卿の局

刑部卿の局(ぎょうぶきょうのつぼね)は、江の娘・徳川千姫の乳母。元亀元年(1570年)に浅井長政の娘として誕生、母は不詳。

江の侍女として民部卿局と共に上臈として仕えていましたが、慶長2年(1597年)、江が千姫を妊娠した際、乳母となり、千姫が7歳で豊臣秀頼と結婚すると、侍女の松坂局とともに大坂城に入り。千姫の教育係として京風作法なども教えました。

大坂夏の陣のときには、千姫とともに脱出。千姫再婚前に代理として満徳寺で得度しましたが、刑部卿の局はその後、千姫に従って姫路城、竹橋御殿でも千姫の側に仕え、万治4年(1661年)、江戸で死去しました。享年92歳でした。

6-5.京極家に嫁いだらしいが謎の女性くす

くすは浅井長政の娘で京極家に嫁ぎ伯母である秀吉の側室・松の丸殿に仕えたと言われていますが詳細は不明。法名は寶光院殿心室理性尼大姉で生前に出家。没年は不明で、寛永3年(1626年)に若狭の湖嶽山龍澤寺で、くすの木像が造られています。

7.浅井三姉妹には、資料にはない様々な伝説が…

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はっきりと事実と裏付ける資料はないものの、三姉妹には色々な話が伝わっているので、伝説として取り上げてみました。

7-1.茶々にまつわる当時から誰もが不審に思っている伝説

淀殿と乳母大蔵卿の局の息子大野治長とは乳兄妹、当時から二人の密通が噂されていたという記録もあり、早世した鶴松や秀頼は秀吉の実子ではなく、治長と淀殿の子であるとする説もあります。秀吉は正室・寧々に子供がなく、あれだけ大勢の側室がいたのに晩年になって淀殿が2人も産んでいるのは誰が考えてもおかしいと思うはず。

7-2.初にまつわる嫉妬に狂った伝説

初は自分の子供はいないですが、妹・江の娘初姫をもらって育てたり、養子を育てたりしたなど、積極的に何人もの子育てに関わった話があります。常高院と尼になって以後も、妹・江の婚家の徳川家にも出入りし、大坂城の姉・茶々との交渉も買って出たという世話好きな印象のある人です.。

しかし、若い頃は夫高次の侍女懐妊を知ると嫉妬して殺害を計画、家臣が幼い後継ぎの忠高をかくまって、初の気持ちが収まるまで2年ほど浪人したという話が新発見されました。

織田家は美形の遺伝がありますが、一緒に狂気とヒステリーの人も多いようで、初も例外ではなかったのでしょうか。また、初の夫高次の母京極マリアがキリシタンだったので、初も洗礼を受けたキリシタンだという説もあります。

7-3.江にまつわる将軍後継ぎに関する伝説

江には家光(竹千代)と忠長(国松)の2人の息子がありましたが、江は、おっとりとしてどもりがちだったと言われる長男・竹千代よりも、才気煥発な国松を愛して国松を跡取りにと秀忠にアプローチしていたと言われています。

秀忠は江に首ったけだったので、江の希望通りに竹千代廃嫡国松後継ぎに流されそうに思った竹千代の乳母の春日局が、駿河の大御所家康に直訴したことで、竹千代が無事に跡取りにという逸話は有名。

しかし江が国松に入れ挙げた証拠も、春日局が家康に直訴した資料もないということです。なお、忠長は江の死後、後ろ盾を失い後に乱心して蟄居自害となりました。

波乱万丈の人生を送った、お姫様のイメージを覆すような浅井三姉妹

母・お市の方と同じく、自分の意志と関係なく家の都合で政略結婚をさせられた浅井三姉妹は、生まれながらに持った身分や家系、美貌をもとに政治的に利用されたのでしたが、与えられた環境のなかで出来た家族を自分なりに愛し、気遣って生きたのだと思います。

そう考えると戦国時代のお姫様というのは、自分をしっかり持つよう教育され、たくましくなければ生きられない時代だったのだなあとつくづく思った次第です。

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簡単にわかる「浅井三姉妹(茶々、初、江)」!お市の方の娘たちの人生を女性史大好き歴女がとことんわかりやすく解説

今回は、浅井長政の娘たち浅井三姉妹を取り上げるぞ。父・浅井長政は信長に滅ぼされたが、三姉妹は信長の妹である母・お市の方と共に助け出されて成長したんです。

3人ともそれぞれ戦国女性を代表するような数奇な人生を送ったのですが、女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりかが、戦国時代の女性を代表する浅井三姉妹と彼女らを巡る人々や伝説についてまでを、5分でわかるよう徹底的にまとめる。

1.浅井三姉妹とは浅井長政とお市の方の娘たちのこと

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浅井三姉妹とは織田信長の妹のお市の方と、最初の夫である北近江の戦国大名だった浅井長政(あざいながまさ)との間に生まれた茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう)の三人の姉妹のことをさします。

1-1.両親は政略結婚でも円満だったが、信長に敗れて浅井家滅亡に

信長の妹・お市の方と浅井長政は、信長と浅井家の同盟の証の政略結婚でしたが、夫婦仲は円満で三女に恵まれました。

三姉妹は浅井家の小谷城で生まれ、仲睦まじい美男美女の両親のもとですくすくと成長していましたが、伯父の信長が、浅井家との同盟の約束である「朝倉家との不戦」を破ったため、浅井・朝倉軍と信長軍が激突。伯父である信長に攻められて、天正元年(1573年)小谷城が陥落し父・長政は自害し浅井家は滅亡。三姉妹は母・お市の方と共に救出されました。

2-2.浅井家滅亡後は織田家に保護され、その後は柴田勝家の北ノ庄城へ

その後、お市の方と三姉妹は織田家の庇護のもとに清洲城、岐阜城などで9年ほど平和な生活を過ごしたものの、天正10年(1582年)本能寺の変が勃発して伯父の信長が横死。羽柴秀吉らが明智光秀を制圧した後、秀吉ら織田家の重臣によって織田家の後継ぎ、その後を決める清洲会議が開催されました。

そのときに浅井三姉妹の母・お市の方は、織田家の重臣だった柴田勝家と再婚が決定。お市の方と三姉妹は、共に柴田勝家の居城である北ノ庄城に引き取られました。が、1年もたたない天正11年(1583年)に柴田勝家と羽柴秀吉が衝突、秀吉軍に攻められて、北ノ庄城が落城しました。

母・お市の方は夫の柴田勝家と運命を共にして自害。しかし三姉妹は母・お市の方による秀吉への直筆状を持って城を脱出し、その後は秀吉の保護下におかれました。

2-3.北ノ庄城陥落後は秀吉の保護下におかれた

北ノ庄城での母・お市の方自害後、浅井三姉妹は救出されて、秀吉の保護下におかれました。

そして安土城に迎えられ、その後は従兄に当たる織田信雄の後見のもとで、信長の妹でお市の方の姉のお犬の方や叔父の織田長益(有楽、または有楽斎)の庇護を受けた説や、後には、聚楽第で父・長政姉で伯母の京極マリアの縁を頼って、従姉の松の丸殿こと京極竜子の後見の元にあった説もあります。

3.浅井三姉妹のはっきりした生年は不明

浅井長政とお市の方との結婚は、永禄7年(1564年)、永禄8年(1565年)、永禄10年(1567年)説があり、はっきりしていません。また、三姉妹の正確な生年も不詳で、亡くなったときの年齢から逆算して推定したものです。

3-1.長女・茶々は秀吉の側室に

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By 奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』 / Nara Museum of Art – http://www.mahoroba.ne.jp/~museum/20sen/kaiga1/0003j.htm, パブリック・ドメイン, Link

長女・茶々は、永禄12年(1569年)に近江国小谷城(現在の滋賀県長浜市)で誕生。名前は、茶々またはお茶。後年、従五位下を賜ったときには菊子という公式名を名乗っています。

秀吉の側室となった後、住む場所により、二の丸殿、西の丸殿、淀の方などと呼ばれ、秀頼の母としてお袋様と呼ばれたりもしました。秀吉の死後落飾して大広院(だいこういん)、または大康院という名もあり。現在の淀殿、淀君は、生存中ではなく江戸時代以降の呼び名です。

天正16年(1588年)頃、秀吉の側室になり、翌年、捨(鶴松)を生みました。大喜びした秀吉は、茶々のために山城淀城を築城して与えたので、以後、淀の方と呼ばれるように。しかし鶴松は天正19年(1591年)に2歳で早世。その後、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)が産まれました

茶々は近江の浅井氏の出身だということで、秀吉傘下の家臣のうち近江出身の石田三成、片桐且元らの勢力のシンボル的存在とされ、秀吉正室・寧々の子飼いの尾張出身者たち、武断派の加藤清正、福島正則らとの対立を生んだと言われています。茶々は秀吉の死後は秀頼の後見人として大坂城に居座り、乳母の大蔵卿局や饗庭局らを重用し、乳母子の大野治長らを用いて事実上の大坂城主として実権を握りました。関が原合戦後、秀吉の遺言だったこともあり、秀頼と徳川家康孫で茶々の妹・江の長女千姫とが結婚、このとき浅井三姉妹は十数年ぶりに3人が揃って再会。

大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤又兵衛などが、10年籠城して徹底抗戦して行けば情勢が変わると主張しましたが、茶々の居室付近に大砲が撃ち込まれて侍女が吹き飛ばされたのを目の当たりにして震え上がり、是が非でも講和を主張。このとき、妹の常高院お初が交渉にあたりましたが、結果的に家康に堀を埋められ大坂城は裸城に。

そして慶長20年5月8日(1615年6月4日)大阪夏の陣が勃発、茶々は秀頼と共に自害して豊臣家は滅亡。茶々は享年49歳でした。

3-2.次女・初は京極家の従兄へ嫁ぐ

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By 不明 – 常高寺所蔵、福井県立若狭歴史民俗博物館寄託「常高院像」, パブリック・ドメイン, Link

次女・初は永禄13年(1570年)小谷城で誕生。

天正15年(1587年)、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたり、父・長政の姉の子で従兄でもある京極忠高と結婚。忠高は天正18年(1590年)、小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石、文禄4年(1595年)には近江大津城6万石へと加増され、羽柴を許され豊臣姓もという出世ぶり。

しかし、妹・竜子が秀吉側室の松の丸殿であることや、初との結婚による出世とされて、蛍大名と陰口をたたかれます。しかし、慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いでは、三成側に就くと思わせて大津城に籠城して東軍に転じるなど、西軍を足止めする功績を残して、家康から若狭小浜8万5000石を与えられました。

初は夫の死後、剃髪して常高院と名乗り、大坂冬の陣では大坂城に入って姉・茶々らと妹・江の婚家徳川家との和議に尽力。高次との間に子供はなかったものの、妹・江の4女初姫をもらって嫡子忠高と結婚させたり、他にも血縁関係や家臣の子女の養育にあたったり、大坂夏の陣の後、秀頼の娘で後の天秀尼の助命を姪の千姫と共に家康に嘆願したと言われる、世話好きな人でもあります。

三姉妹のうち一番長生きで、寛永10年(1633年)に死去。享年64歳でした。

蛍大名とは?
武士は戦場による武功によって加増されてなんぼなのですが、主筋との結婚や姉や妹が側室になり後継ぎを産んだことで加増されたり大名になった人を、女の尻の光で出世したと言う意味で、蛍大名と蔑称されます。

京極高次が有名ですが、江戸幕府の5代将軍綱吉の母・桂昌院の実家である本庄家も将軍の母の実家というだけで小大名になれたことで、たいへん有名です。

3-3.三女・江は3度目に徳川秀忠と年の差結婚

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By 不明 – The Japanese book “Sengoku Daimyō Azai-shi to Kita-Ōmi (戦国大名浅井氏と北近江)”, Nagahama Castle Historical Museum (長浜市立長浜城歴史博物館), 2008 ISBN 978-4-88325-373-9, パブリック・ドメイン, Link

三女・江は天正元年(1573年)小谷城で誕生という説と、お市の方が小谷城脱出後に岐阜で出産した説があります。名前は小督、江与、おごう、またはこごう。亡くなった後に従一位を追贈され、達子(さとこ、またはみちこ)という名も。

最初は秀吉によって、信長の次男で江の従兄の織田信雄の家臣であり、従兄の佐治一成と政略結婚。しかし織田信雄と秀吉が小牧長久手の合戦で敵同士となったために離婚。これは時期がはっきりせず、婚約だけだった説もあります。

その後、天正14年(1586年)から文禄元年(1592年)までの間に、秀吉の姉の息子で秀次の兄である羽柴秀勝と結婚。一女・完子が生まれましたが、秀勝が文禄元年(1592年)朝鮮の役で病没。そして、文禄4年(1595年)に徳川家康の3男で6歳年下の17歳の秀忠と結婚。長女・千姫を頭に2男5女をもうけました

江の長女・千姫と長姉茶々の息子・豊臣秀頼は秀吉の遺言で結婚、また江の長男家光は3代将軍となり、徳川歴代将軍の中で唯一正室から生まれた将軍でありました。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去。享年54歳でした。

4.浅井三姉妹は美人だったか

お市の方は戦国一の美貌と言われたのですが、娘たちはどうだったでしょうか。茶々は大柄で華やかな印象、秀吉があれほど入れ込むのだから美人だったのでは。初は地味な存在ながらも世話好き、江は3度も結婚させられ、3度目の秀忠は7つも年下でしたが、秀忠が腰元に笑顔を向けただけで江がヒステリー発作を起こしたという話が伝わっていて、あまりのショックに秀忠はその後一切浮気もなかった、大変嫉妬深かったという逸話があります。

実直で誠実な人柄であったらしい秀忠は、17歳で江と結婚後は、側室もおかず、唯一、保科正之という婚外子が生まれたものの、江の存命中は対面もせず隠し通していたというほど。

ヒステリーの発作はたしかに怖いですが、秀忠は江にぞっこんだったためにこのような気遣いをしたのならば、よほどの美人であったのではないでしょうか。

5.浅井三姉妹の子孫は

ここからは浅井三姉妹の子孫についてみていきましょう。三人の中ではやはり多くの子に恵まれた江の子孫が続いているようです。

5-2.京極家に嫁いだ初は養子はあるが実子はなし

初は何人もの養子を育てたのですが、実の子供は授からなかったので、子孫なし。

5-3.江は3代将軍生母・女院生母となった

羽柴秀勝との間に生まれた豊臣完子(さだこ)は、江が秀忠と結婚するときに長姉の茶々が引き取り、その後、五摂家の九条家に嫁いで4男3女を産み、その子孫が現在の皇室にまで続いています

そして徳川秀忠との間の2男5女のうち、千姫の娘が池田家へ嫁ぎ綱政ら池田家の子孫に繋がり、家光の男系は絶えたもののその娘千代姫が尾張家へ嫁いだ子孫が続いているのです。

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