日本史

早稲田大学の創立者!「大隈重信」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

大浦事件で傾いた第二次大隈内閣

1914年に大隈重信が再び総理大臣に任命された頃、第一次世界大戦が起こります。大隈重信は中国大陸での権益確保を求めることを目的に対独宣戦布告を行い、さらに対華21ヶ条要求を提出しました。対華21ヶ条要求とは、文字どおり日本が中華民国の政府に対して行った21ヶ条の要求と希望です。

そして、第二次大隈内閣が傾いたきっかけとなったのが、内相の大浦兼武(おおうらかねたけ)による1915年に起きた汚職事件で、これは大浦事件とも呼ばれています。大隈重信は信頼を取り戻すため、自らが外務大臣を兼任して内閣改造を図りますが、国民の支持は徐々に失われていってしまいました。

これは、大隈重信が内閣改造の際に過去の藩閥政治家と同じスタイルをとったこと、さらに弁明の内容にも批判が集まったのが信頼回復を不可能にした理由とされています。そして1916年に内閣は総辞職……前回のように短命ではなかったものの、今回もまた後味の悪い形で大隈内閣は解散されたのです。

政界からの引退と死去

内閣総辞職の後、年齢的なこともあってか大隈重信は完全に政界から引退します。この時1916年、そして1922年に大隈重信は人生の幕を下ろしました。早稲田の私邸で胆石症によって死去、日比谷公園では国民葬も行われたのです。

この時、大隈重信の国民葬に集まった一般市民はおよそ30万人と言われており、これまでの活動と実績がいかに多くの国民に認められていたのかが分かります。また、当時の新聞では日比谷公園での国民葬を公衆告別式と表現しました。

余談ですが、この3週間後には山縣有朋(やまがたありとも)の国葬が同じ日比谷公園が行われます。ただこちらは大隈重信の時と全く逆で、不人気が反映したのか政府関係者以外はほとんどおらず、「民抜けの国葬」と表現されました。

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対華21ヶ条要求は、中国側の画策や日本の対応など意外と深いものになっている。このため説明するのが難しく思うかもしれないが、ここで解説したように「日本が中華民国の政府に対して行った21ヶ条の要求と希望」と覚えておけばいいだろう!

一生の流れよりもキーワードを絞って覚えよう

大隈重信が行ったことは多々あるため、正直全て完璧に覚えるのは難しいでしょう。そこでポイントをまとめると、まず早稲田大学を創立した人物ということは必ず知っておいてください。ただ、当時は東京専門学校と呼ばれていたので要注意ですよ。

他には築地梁山泊、明治十四年の政変、隈板内閣、立憲改進党、憲政党、このあたりのキーワードを集中的に覚えていくと良いですね。一生を幅広く把握するより、こうしてキーワードを絞って覚えた方が効果的です。

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shintomoyui0311