
わずか4ヶ月で終わった第一次大隈内閣
大隈重信が辞職した翌年、初の衆議院議員総選挙が行われました。この時、大隈重信が結成した立憲改進党は多くの議決を獲得したようです。その後、大隈重信は板垣退助が率いている自由党と合同する形となり、新たに憲政党が誕生しました。
そして1898年、大隈重信は総理大臣に就任すると日本で初めての政党内閣を組閣……これが第一次大隈内閣です。しかし、結果として思うようにはいきませんでした。アメリカのマッキンリー大統領に批判されて外交の危機を招くなど、結局第一次大隈内閣はわずか4ヶ月で総辞職することになったのです。
ちなみに、第一次大隈内閣は隈板内閣(わいはんないかく)とも呼ばれており、これは大隈重信と板垣退助のそれぞれの文字を取ってつけられました。内閣総辞職後、大隈重信は憲政本当を率いることになりますが、1907年には政界からも引退したのです。
政界からの引退と復帰
政界引退後、大隈重信は早稲田大学の総長に就任しました。政治からは離れて文化事業を行い、ヨーロッパ文献の日本語翻訳事業などを展開したのです。また、アメリカと早稲田大学の野球の国際親善試合では始球式の役目を務めており、これは日本の野球史上において記録に残っている最古の始球式とされています。
第一次護憲運動が起こった頃、大隈重信は再び政界に戻ってきました。護憲運動とは立憲政治を擁護する運動であり、この当時は薩長を中心とした政治に対する批判が高まっていたのです。1914年、ドイツのシーメンスによる日本海軍高官への賄賂事件が起こりました。
これがシーメンス事件であり、この事件の発覚で山本権兵衛(やまもとごんのひょうえ)の内閣は総辞職、大隈重信はその後任という形で再び総理大臣に就任します。この時の大隈重信は76歳、第二次大隈内閣の誕生となりました。
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