
金融行政・工部省開設への尽力
明治維新がなされると、大隈重信は元薩摩藩士の小松清廉(こまつきよかど)からの推挙により1868年に徴士参与職、外国事務局判事に任命されました。この後、大隈重信は国のために多くの成果を挙げて出世していきます。まず、キリスト教禁令におけるイギリス公使パークスの猛抗議に対して手腕を発揮して交渉を行いました。
1869年には会計官副知事を兼務するようになり、高輪談判の処理と新貨条例の制定など金融行政にも携わります。ちなみに、新貨条例とは1871年に制定された日本の貨幣法のことで、この新貨条例によって貨幣単位に「円」が正式採用されたのです。
さらに大蔵大輔となった大隈重信は、鉄道や電信を建設して工部省の開設にも尽力します。そして1870年には太政官の官職である参議に、また1872年には伊藤博文らと協議して、富岡製糸場を設立しました。翌1873年に大蔵省事務総裁となると、同年に参議兼大蔵卿となったのです。
日本政府初の参加となる博覧会
1874年、ウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受けます。このため博覧会事務局を設置しますが、この時総裁を務めたのが大隈重信です。この万博は政府が初めて参加した万博博覧会であり、日本館は連日大盛況になるほどの成功を収めました。
順調に出世する大隈重信でしたが、当時権力が集中していたのは大久保利通(おおくぼとしみち)です。一方、大隈重信の私邸には伊藤博文らの若手の官僚らが集まるようになり、さらに木戸孝允(きどたかよし)とも結んで大久保利通を牽制しました。最も、征韓論においては大隈重信は大久保利通の意見に賛同しています。
伊藤博文らが集まるようになった大隈重信の私邸では、政治談議の目的で多くの客が常時滞在していたようです。明治を近代化に導いた人物が大勢集まって常に政治談議をする……そんな大隈重信の私邸は築地梁山泊と呼ばれるようになりました。
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明治十四年の政変による政府からの追放
大隈重信は西洋諸国に対抗するため、日本の近代化を考えた殖産興業政策を推進します。同じ頃、日本では全国で板垣退助による自由民権運動が活発化するようになりました。自由民権運動とは、政府に対して民主的改革を求める政治運動や社会活動のことです。
大隈重信は、この自由民権運動に同調する形で憲法公布と国会開設を主張しますが、一方で親しい仲だった伊藤博文らと対立することになります。政府内でも憲法制定議論は高まっていたのですが、君主大権を残すドイツ帝国の憲法であるビスマルク憲法とイギリス型の議院内閣制の憲法……どちらの形を取るかで意見が分かれていたのです。
大隈重信は後者の議院内閣制の憲法を支持しました。しかし、伊藤博文は前者のビスマルク憲法を支持しており、結果として大隈重信とその一派は明治政府から追放、これが1881年の明治十四年の政変です。このため、大隈重信は後日辞表を提出しました。
外務大臣への就任と襲撃事件
下野した大隈重信は、早くも10年後の国会開設に備えます。1882年に立憲改進党を結成、さらに東京専門学校を早稲田に開設……実は、この東京専門学校は現在の早稲田大学です。こうした準備を進める中、大隈重信は意外な形で政府に戻ることになります。
大隈重信にとって政敵である伊藤博文は、当時不平等条約改正の問題で悩んでいました。伊藤博文は大隈重信を政敵と考える一方で外交手腕は評価していましたから、1888年に不平等条約改正のため大隈重信を外務大臣へと選んだのです。
しかし、翌1889年に悲劇が起こります。外国人判事を導入するという条約案が明るみになり、これに反対した来島恒喜(くるしまつねき)によって爆弾の襲撃を受けてしまったのです。大隈重信はこの事件による負傷で右脚切断の手術を受けており、外務大臣を辞職することになりました。
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