
つまり大隈重信は現代の日本の基礎を築いたと言っても過言ではなく、上級武士の家庭で生まれながらも政治で活躍する人物となったのです。そんな大隈重信の政治家としての一生を辿っていこう!今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大隈重信をわかりやすくまとめた。
儒教教育への反発と蘭学への関心
大隈重信は1838年に佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれます。大隈家の家柄は上級武士であり、大隈重信の幼名は八太郎でした。7歳で弘道館に入学、大隈重信はここで武士の心得を記した佐賀県の特色である葉隠(はがくれ)に基づいた儒教教育を受けますが、この教育方針に反対して改革を訴えます。
儒教教育は中国の代表的な思想なのですが、1854年にその教育方針の改革を訴えた大隈重信は、翌1855年の弘道館の南北騒動が原因で退学になってしまうのです。ただ、大隈重信の学ぶ意欲は高く、英才と言われた彼は佐賀藩の尊王派の教育者である枝吉神陽(えだよししんよう)から国学を学びます。
枝吉神陽は義祭同盟(ぎさいどうめい)と呼ばれる団体を結成しており、大隈重信もこれに参加するようになりました。1856年には佐賀藩の蘭学寮へと転入、1861年には佐賀藩の藩主・鍋島直正(なべじまなおまさ)にオランダ憲法について講義します。そしてこれが認められ、大隈重信は蘭学寮と合併した弘道館の教授となり、蘭学を教えることになったのです。
世界情勢に対する関心と政治家への道の決意
大隈重信は長州藩に協力すること、さらに江戸幕府と長州の朝廷の間に入って取り持つことを述べていましたが、これについては藩政に影響するほどの効果はありませんでした。ただ、1865年には佐賀藩校英学塾の致遠館にて教頭の地位を与えられ、副島種臣(そえじまたねおみ)と共に指導にあたります。
この時、大隈重信は校長のフルベッキから英語を学んでおり、新約聖書やアメリカ独立宣言を知ったことが自身に大きな影響を与えました。同じ頃、藩貿易にも携わるようになった大隈重信は世界情勢に関心を持つようになり、尊王派として活動しながら政治家への道に進む決意をしたのです。
そんな大隈重信が行動を起こしたのは1867年のこと、脱藩して副島種臣と共に京都に赴きます。これは、当時の将軍である徳川慶喜に大政奉還を勧める計画のためだったのですが、捕縛されて佐賀に強制送還、さらに一ヶ月の謹慎処分を受ける結果になってしまいました。最も、同年には実際に大政奉還が行われており、時代は明治維新へと進みます。
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