平安時代日本史歴史

「平安貴族」の生活や仕事は?政権争いにも関与?元大学教員が5分で徹底わかりやすく解説!

よぉ、桜木建二だ。平安時代と聞いて真っ先に思い出すのが「貴族」。貴族というと、美しい装束を身にまとい、優雅に歌を詠んでいるイメージだ。実際は、貴族には厳しい序列があり、政権争いに関わることも。宮廷におけるさまざまな仕事も貴族の重要な任務。我々が思うよりなかなかハードな世界だったようだ。

それじゃ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。平安貴族は、政治や行政の視点から見てもとても面白い存在。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて、平安貴族の記事をまとめた。

平安貴族とは何?日本文化の功労者?

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名誉や称号を持っている特権階級が貴族。本来はヨーロッパの特権階級のことを指す言葉です。平安時代に政治、経済、文化などに影響を与えた層のことを、便宜上、平安貴族と言い表すようになりました。貴族というと平安時代の文化を開花させた存在として有名。貴族出身の女房である清少納言は「枕草子」を、紫式部は「源氏物語」を生み出しました。

平安時代初期の貴族は飛鳥時代の豪族に由来

ひとことで平安貴族と言っても、平安時代の時期により貴族の性質はかなり異なります。平安時代の初期は、飛鳥時代の豪族の系譜にある人々が、貴族とされる上流階級をしめていました。

この豪族というのは、とくに地方で力を持っていた一族のこと。土地や財産そして武力により土地の支配を実現していた層です。平安初期の貴族の基盤は武力。私たちが思い浮かべる貴族とはややイメージが異なります。

平安時代中期になると新興氏族の力が高める

平安時代の中期ごろになると、豪族由来の貴族から振興の氏族の存在感が増してくるように。なかでも突出したのが、天皇家と婚姻関係を結ぶことで力をもった藤原家。そのほか、源氏氏、清原氏、菅原氏、橘氏の勢力が広がりました。

とくに天皇の天皇の外戚として権力を握ったのが藤原氏と源氏。摂関政治を確立した藤原道長らを輩出した藤原北家は、政治をつかさどる権利がある職を独占するに至りました。

平安時代の後期になると軍事貴族の力が増すように。そのひとつが平清盛などの平氏です。軍事貴族はもともと下級貴族として存在していました。武力衝突が繰り返されるなかで権力を拡大させたのです。

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平安貴族には、豪族貴族、公家貴族、軍事貴族などの違いがあったのか。公家貴族が平安貴族のイメージのほとんどを作っているが、だいぶ雰囲気が変わるな。豪族貴族の時代は、装束も中国の影響が強かったそうだ。いわゆる十二単が定着するのは公家貴族の時代になるようだ。

平安貴族のなかにある序列とは?そのように身分が決まるの?

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平安時代の貴族の身分を決めるのは2つ。1つは職業をあらわす「官職」。これは「律令」と呼ばれる法律により決められていました。もう1つが階級をあらわす「位階」。これは名誉のようなものです。この2つを掛け算することで、貴族の身分が決まりました。

平安貴族の身分を決める「官職」と「位階」の関係

官職と位階の序列はおおむね結びついています。もっとも上位に位置する官職が「太政大臣」。正一位、従一位の位階を持つ人がつける職業です。「左大臣」「右大臣」「中大臣」は、正二位、従二位の位階の人。「大納言」は正三位、「中納言」は従三位となります。

これら上層部は、政治をつかさどることができる層。まとめて公卿あるいは上達部と呼ばれる、いわゆる上流貴族です。

その下に位置する中流貴族は殿上人下流貴族は地下(じげ)と呼ばれました。殿上人は宮中にある殿上の間という部屋にのぼることを許された人々。そのため、上流貴族に出世できる可能性が。一方、地下に相当する貴族はないがしろにされる立ち位置でした。

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