平安時代と聞いて真っ先に思い出すのが「貴族」。貴族というと、美しい装束を身にまとい、優雅に歌を詠んでいるイメージです。ですが実際は、貴族には厳しい序列があり、政権争いに関わることも。宮廷におけるさまざまな仕事も貴族の重要な任務。我々が思うよりなかなかハードな世界だったようです。

詳しくは、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。平安貴族は、政治や行政の視点から見てもとても面白い存在。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて、平安貴族の記事をまとめた。

平安貴族とは何?日本文化の功労者?

image by PIXTA / 47044238

名誉や称号を持っている特権階級が貴族。本来はヨーロッパの特権階級のことを指す言葉です。平安時代に政治、経済、文化などに影響を与えた層のことを、便宜上、平安貴族と言い表すようになりました。貴族というと平安時代の文化を開花させた存在として有名。貴族出身の女房である清少納言は「枕草子」を、紫式部は「源氏物語」を生み出しました。

平安時代初期の貴族は飛鳥時代の豪族に由来

ひとことで平安貴族と言っても、平安時代の時期により貴族の性質はかなり異なります。平安時代の初期は、飛鳥時代の豪族の系譜にある人々が、貴族とされる上流階級を占めていました。

この豪族というのは、とくに地方で力を持っていた一族のこと。土地や財産そして武力により土地の支配を実現していた層です。平安初期の貴族の基盤は武力。私たちが思い浮かべる貴族とはややイメージが異なります。

平安時代中期になると新興氏族の力が高める

平安時代の中期ごろになると、豪族由来の貴族から振興の氏族の存在感が増してくるように。なかでも突出したのが、天皇家と婚姻関係を結ぶことで力をもった藤原家。そのほか、源氏、清原氏、菅原氏、橘氏の勢力が広がりました。

とくに天皇の外戚として権力を握ったのが藤原氏と源氏。摂関政治を確立した藤原道長らを輩出した藤原北家は、政治をつかさどる権利がある職を独占するに至りました。

平安時代の後期になると軍事貴族の力が増すように。そのひとつが平清盛などの平氏です。軍事貴族はもともと下級貴族として存在していました。武力衝突が繰り返されるなかで権力を拡大させたのです。

平安貴族のなかにある序列とは?どのように身分が決まるの?

image by PIXTA / 34255646

平安時代の貴族の身分を決めるのは2つ。1つは職業をあらわす「官職」。これは「律令」と呼ばれる法律により決められていました。もう1つが階級をあらわす「位階」。これは名誉のようなものです。この2つを掛け算することで、貴族の身分が決まりました。

平安貴族の身分を決める「官職」と「位階」の関係

官職と位階の序列はおおむね結びついています。もっとも上位に位置する官職が「太政大臣」。正一位、従一位の位階を持つ人がつける職業です。「左大臣」「右大臣」「中大臣」は、正二位、従二位の位階の人。「大納言」は正三位、「中納言」は従三位となります。

これら上層部は、政治をつかさどることができる層。まとめて公卿あるいは上達部と呼ばれる、いわゆる上流貴族です。

その下に位置する中流貴族は殿上人下流貴族は地下(じげ)と呼ばれました。殿上人は宮中にある殿上の間という部屋にのぼることを許された人々。そのため、上流貴族に出世できる可能性が。一方、地下に相当する貴族はないがしろにされる立ち位置でした。

身分に応じて待遇が変わる

官職と位階の組み合わせから決定される身分から生まれるのが待遇の差。そこから得られる収入が大きく変わってきます。

貴族の重要な収入源のひとつが土地の収穫物。それに農民から徴収する税、さらに絹、綿、布などの物品、使用人などが加わります。さらに平安時代の場合、私有地である荘園を拡大させて大儲けしていた貴族もたくさんいました。

収入の総額は身分によって大きく変化。上流貴族と下流貴族のあいだにはかなりの格差が生じることになりました。

平安貴族は仕事をしていた?どのくらい働くの?

image by PIXTA / 41280234

平安貴族の職場は宮中。ただ、出勤の状況は身分によってかなりの違いがありました。上流貴族になるとお昼に少し会議をするくらいの重役出勤。下流になるほど掃除、警備、夜勤などの仕事が増えて、勤務時間も長くなります。

下流貴族の仕事は夜明け前から始まる

下流貴族は位こそあるものの使用人のような側面が。太鼓の音と共に午前3時から4時くらいに起床。2回目の太鼓により、勤務開始となります。貴族たちは、2回の太鼓のあいだの45分のあいだに出勤の準備をしました。

この出勤の準備がなかなか大変です。手洗いや洗顔をふくめた身支度にくわえ、祈祷をする、占いをする、日記をつけるなど。下流貴族の朝は、かなり細かくルール化されていました。

宮中の掃除をしたり、格子をあげたりと、それぞれの担当業務を実施。お昼前まで仕事が続きます。それ以降は、午後勤務と夜間勤務でシフト制のような形に。夜間勤務は宮中の見回りが主な仕事。場合によっては、朝から夜中まで仕事が続くこともあったようです。

\次のページで「上流貴族は重役出勤、中流になると文筆家や転勤族も」を解説!/

上流貴族は重役出勤、中流になると文筆家や転勤族も

上流貴族は、お昼ごろまで寝て、午後になると宮中に出勤。2時間程度、ちょっとした会議をするだけ。そのほかの時間は、雅な遊びをする、歌を詠みあう、恋愛をするなど優雅なものでした。

殿上人に相当する中流貴族は、交代で天皇の食事の世話をするなどやや多忙に。「枕草子」を書いた清少納言や「源氏物語」を書いた紫式部は中流貴族に属します。

「更級日記」の作者の菅原孝標女の父親は中流貴族の受領。宮中にいるというよりは地方に赴任して行政を管理する立場です。主に関東地方が孝標の赴任先。今でいう転勤が多い管理職のような貴族と言えます。

平安貴族にとって和歌が果たす役割は?

image by PIXTA / 31287818

平安貴族にとって和歌は教養であると同時に出世の手段。和歌が上手であるほど信頼が増す傾向がありました。それなりの教養と機転がなければ優れた和歌を詠むことはできません。そのため和歌を詠むことはその人の素養をはかる手段でもあったのです。

出世するには漢詩と和歌の素養は絶対

平安貴族にとって必ず必要とされたのが漢文の習得。ただ、漢文を勉強することは男性の貴族に限定されていました。とくに中流貴族の場合、漢文を学ぶのが「大学寮」。女性の貴族は大学寮に入ることができないため漢文を学ぶ機会はありませんでした。

漢文が第1教養だとすれば、第2教養にあたるのが和歌。優れた和歌を披露することで、多くの人に賞賛されて「あの人はすばらしい」と信頼が高まりました。

また、和歌を上手に詠めることで男女の出会いの機会がふえます。平安時代、自分の経済的基盤を作るために恋愛ゲームが繰り広げられていた一面が。和歌の素養がある人ほど、男女ともに条件のいい相手を巡り合える確率が高くなりました。

暗記と即興の両方の能力が必要とされた

和歌の素養があるとは、まずたくさんの和歌を暗記していること。そして、突然に和歌を詠むことを求められても、とっさに優れた和歌を返すことができる。この2つを兼ね備えていると、和歌の名人として評価が高まりました。

とくに即興で和歌を返す能力は、教養の豊かさと頭の良さをあらわす基準。菅原道長に和歌を詠むことを求められたのが紫式部。『紫式部日記』によると、後一条天皇が生まれたことを祝う席でのことでした。

ただ、たくさんの和歌を暗記している、優れた歌を詠むことができるだけでは不十分。求められたらすぐに歌を詠むことができる、頭の回転の速さも教養のひとつとされていたことが分かります。

恋愛が平安貴族にとって重要だった理由は?

image by PIXTA / 33872084

恋愛もまた平安貴族を特徴づけるもの。「源氏物語」で、光源氏が多くの女性にアプローチして関係を持つストーリーは、平安時代=恋愛という見方を定着させました。ただ今とは少し異なる一面も。恋愛は現代以上に政治的そして経済的な意味を持っていました。

平安時代の恋愛は「自由恋愛」と「通い婚」が基本

平安時代の基本は自由恋愛。二股、三股は珍しいことではありませんでした。もちろん、他の相手に想いを寄せはじめることを快くは思いません。とはいえ、社会的には問題となる行動とは見なされなかったのです。

当時の恋愛は女性の家に男性が通うスタイル。男性を待つのは基本的に女性でした。そんな女性の苦しい気持ちを詠んだ和歌もたくさん残されています。

結婚しても一緒に住むことはなく、男性が女性のもとに通う形が続けられました。自由度が高い結婚ゆえ、離婚するカップルが多いことも特徴。「枕草子」を書いた清少納言も離婚経験者です。とはいえ離婚後も恋人らしき男性と歌の交換などを楽しんでいました。

\次のページで「恋愛は政治力と財力をたくわえるための手段でもある」を解説!/

恋愛は政治力と財力をたくわえるための手段でもある

自由度が高い恋愛が定着していた理由のひとつが政治面での重要性です。藤原摂関政治に代表されるように、結婚は権力を得るための手段。女性にとっても自分の一族の階級を上げるために恋愛を重視していました。

また男性にとっては経済的基盤を作るために多くの女性と関係を持つ必要が。土地は平安貴族にとってなくてはならない収入源。しかし平安時代、土地を継承していくのは女性側の家だったのです。

純粋な恋愛結婚そして家庭を築くという考えが基本的にないことから、このような自由度の高い恋愛や結婚が定着。このスタイルは、政権争いや和歌文化など、平安時代を特徴づけるものごとを生み出しました。

政権争いに負けた平安貴族はどうなる?

image by PIXTA / 27537978

平安貴族にとって政権争いは身近なこと。とくに出世するほど争いに巻き込まれることが増えていきます。政権争いに負けた貴族は左遷されることに。当時の「辺境の地」に追いやられることになりました。

もっとも有名な左遷者であるのが菅原道真

政権争いに負けて左遷された貴族でもっとも有名な人物が菅原道真。宇多天皇に重宝されたこともあり、学者出身としては異例ともいえる大躍進を遂げます。それを快く思わなかったのが、上流貴族とりわけ摂関家の藤原時平。醍醐天皇に、道真が天皇制の廃止を企てているとウソを言います。

それをうのみにした天皇は、藤原道真を京から追放することを決定。追放先は、京から遠く離れた九州エリアの大宰府。道真の当時の役職である右大臣のポストも解かれました。

道真は、和歌や漢詩を詠むことを通じて無実であることを伝え続けます。しかし、疑いが晴れることなく死去。その後、京では天変地異が相次ぎます。それが道真の怨霊によるものだと噂されるように。無実であるとされた道真は太宰府天満宮に祭られました。

大臣経験者の左遷用ポストも存在していた

平安時代の九州エリアは、外交使節や貿易船が数多く訪れている外交窓口。左遷先ではありますが、かなり栄えていました。当時、大宰府を統率する責任者として「帥(そち)」というポストが存在。親王が任命されるため、実際に九州に赴任することはありませんでした。

「帥」はいわゆる名誉職。それに対して、「権(ごん)」という字を加えた「権帥(ごんのそち)」というポストを設置します。この「権」は「仮の」という意味。この手のポストは、大臣をしていた貴族を左遷させるために利用されました。

藤原道真のほかにも左遷された貴族たちが。醍醐天皇の息子で藤原氏に排斥されたのが源高明。道長との政争に負けた藤原伊周も、大臣から「太宰権帥」に左遷された人物です。

平安貴族は政治と密接に結びついた生活をしていた

平安時代の文化の担い手という印象が強い貴族。しかし、貴族のなかにもさまざまな身分があり、だれもが和歌や雅な遊びを楽しんでいたわけではありません。とくに厳しい管理下に置かれていた下級貴族は、平安時代の後期になると武装化し、源平争乱のような抗争をけん引していくことになります。

平安時代を特徴づける藤原摂関家の政治は、貴族のなかのヒエラルキーの変化のあらわれ。権力争いに敗れて、政治の中心から排除された貴族も数多くいたことは、貴族と政治の密接な関係性をあらわします。美しい装束を身にまとう姿は、貴族のほんの一部分。これを念頭に置いておきながら平安時代を見ていくことが、歴史を学ぶうえで大切になります。

" /> 簡単にわかる「平安貴族」の暮らし!仕事や序列も元大学教員がわかりやすく解説! – Study-Z
平安時代日本史歴史

簡単にわかる「平安貴族」の暮らし!仕事や序列も元大学教員がわかりやすく解説!

平安時代と聞いて真っ先に思い出すのが「貴族」。貴族というと、美しい装束を身にまとい、優雅に歌を詠んでいるイメージです。ですが実際は、貴族には厳しい序列があり、政権争いに関わることも。宮廷におけるさまざまな仕事も貴族の重要な任務。我々が思うよりなかなかハードな世界だったようです。

詳しくは、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。平安貴族は、政治や行政の視点から見てもとても面白い存在。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて、平安貴族の記事をまとめた。

平安貴族とは何?日本文化の功労者?

image by PIXTA / 47044238

名誉や称号を持っている特権階級が貴族。本来はヨーロッパの特権階級のことを指す言葉です。平安時代に政治、経済、文化などに影響を与えた層のことを、便宜上、平安貴族と言い表すようになりました。貴族というと平安時代の文化を開花させた存在として有名。貴族出身の女房である清少納言は「枕草子」を、紫式部は「源氏物語」を生み出しました。

平安時代初期の貴族は飛鳥時代の豪族に由来

ひとことで平安貴族と言っても、平安時代の時期により貴族の性質はかなり異なります。平安時代の初期は、飛鳥時代の豪族の系譜にある人々が、貴族とされる上流階級を占めていました。

この豪族というのは、とくに地方で力を持っていた一族のこと。土地や財産そして武力により土地の支配を実現していた層です。平安初期の貴族の基盤は武力。私たちが思い浮かべる貴族とはややイメージが異なります。

平安時代中期になると新興氏族の力が高める

平安時代の中期ごろになると、豪族由来の貴族から振興の氏族の存在感が増してくるように。なかでも突出したのが、天皇家と婚姻関係を結ぶことで力をもった藤原家。そのほか、源氏、清原氏、菅原氏、橘氏の勢力が広がりました。

とくに天皇の外戚として権力を握ったのが藤原氏と源氏。摂関政治を確立した藤原道長らを輩出した藤原北家は、政治をつかさどる権利がある職を独占するに至りました。

平安時代の後期になると軍事貴族の力が増すように。そのひとつが平清盛などの平氏です。軍事貴族はもともと下級貴族として存在していました。武力衝突が繰り返されるなかで権力を拡大させたのです。

平安貴族のなかにある序列とは?どのように身分が決まるの?

image by PIXTA / 34255646

平安時代の貴族の身分を決めるのは2つ。1つは職業をあらわす「官職」。これは「律令」と呼ばれる法律により決められていました。もう1つが階級をあらわす「位階」。これは名誉のようなものです。この2つを掛け算することで、貴族の身分が決まりました。

平安貴族の身分を決める「官職」と「位階」の関係

官職と位階の序列はおおむね結びついています。もっとも上位に位置する官職が「太政大臣」。正一位、従一位の位階を持つ人がつける職業です。「左大臣」「右大臣」「中大臣」は、正二位、従二位の位階の人。「大納言」は正三位、「中納言」は従三位となります。

これら上層部は、政治をつかさどることができる層。まとめて公卿あるいは上達部と呼ばれる、いわゆる上流貴族です。

その下に位置する中流貴族は殿上人下流貴族は地下(じげ)と呼ばれました。殿上人は宮中にある殿上の間という部屋にのぼることを許された人々。そのため、上流貴族に出世できる可能性が。一方、地下に相当する貴族はないがしろにされる立ち位置でした。

身分に応じて待遇が変わる

官職と位階の組み合わせから決定される身分から生まれるのが待遇の差。そこから得られる収入が大きく変わってきます。

貴族の重要な収入源のひとつが土地の収穫物。それに農民から徴収する税、さらに絹、綿、布などの物品、使用人などが加わります。さらに平安時代の場合、私有地である荘園を拡大させて大儲けしていた貴族もたくさんいました。

収入の総額は身分によって大きく変化。上流貴族と下流貴族のあいだにはかなりの格差が生じることになりました。

平安貴族は仕事をしていた?どのくらい働くの?

image by PIXTA / 41280234

平安貴族の職場は宮中。ただ、出勤の状況は身分によってかなりの違いがありました。上流貴族になるとお昼に少し会議をするくらいの重役出勤。下流になるほど掃除、警備、夜勤などの仕事が増えて、勤務時間も長くなります。

下流貴族の仕事は夜明け前から始まる

下流貴族は位こそあるものの使用人のような側面が。太鼓の音と共に午前3時から4時くらいに起床。2回目の太鼓により、勤務開始となります。貴族たちは、2回の太鼓のあいだの45分のあいだに出勤の準備をしました。

この出勤の準備がなかなか大変です。手洗いや洗顔をふくめた身支度にくわえ、祈祷をする、占いをする、日記をつけるなど。下流貴族の朝は、かなり細かくルール化されていました。

宮中の掃除をしたり、格子をあげたりと、それぞれの担当業務を実施。お昼前まで仕事が続きます。それ以降は、午後勤務と夜間勤務でシフト制のような形に。夜間勤務は宮中の見回りが主な仕事。場合によっては、朝から夜中まで仕事が続くこともあったようです。

\次のページで「上流貴族は重役出勤、中流になると文筆家や転勤族も」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: