日本史

「徳川千姫」を女性史に詳しい歴女が解説!運命に翻弄されつつも強く生き抜いた彼女の生涯とは

よぉ、桜木健二だ、今回は徳川千姫を取り上げてみた。家康の孫で豊臣秀頼と政略結婚して、豊臣家が滅びた後、本多忠刻と結婚して姫路城に住んだお姫さまだ。その後のことはあまり知られていないが、なかなかしっかりした女性のようだぞ。

今回は女性史大好きなあんじぇりかと一緒に千姫の生い立ちから後半生までを勉強していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりかが、意外な後半生を過ごし悲劇に翻弄されず尊敬される人として成長したと感じた千姫について、5分でわかるようまとめた。

1-1、千姫は徳川家康の孫で、浅井長政の孫でもあった

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By 不詳 – 弘経寺(茨城県常総市)所蔵「千姫姿絵」, パブリック・ドメイン, Link

千姫は、慶長2年(1597年)4月11日に、徳川秀忠と浅井長政とお市の方の3女である江の方の長女として伏見城内の徳川屋敷で誕生、江戸城で育ちました。なので、家康の孫で浅井長政とお市の方の孫でもある、そして織田信長は大伯父、ということですね。
尚、千姫の弟妹は6人、妹の珠姫、勝姫、初姫と弟3代将軍家光と忠長そして後の東福門院和子(まさこ)、異母弟の保科正之がいます。

1-2、千姫の妹たち

千姫のすぐ下の妹、次女珠姫(たまひめ)は、千姫よりも早く3歳で前田利常と結婚、加賀へ嫁入りしました。3女勝姫は父秀忠の異母兄の結城秀康の嫡男で従兄でもある松平忠直と結婚、4女初姫は伯母の常高院の養女となり、浅井家の親戚筋の京極忠高と結婚、末の妹の和子(まさこ)は、後水尾天皇の中宮になりました。東福門院と呼ばれています。

2-1、千姫は秀吉の遺言で、秀頼と結婚

慶長5年(1600年)の関が原合戦後、家康は千姫と秀頼の婚礼を決行しました。秀吉の遺言を盾に千姫を大坂城に送り込んだのです。千姫を人質にしたと書いたものもありましたが、関が原合戦後、征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた家康にとっては、豊臣秀頼は名目上は一大名に過ぎない存在。しかし淀殿たちにとってはまだまだ豊臣家が天下人で、いずれは家康が秀頼に譲ると幻想を抱いていた時期。家康はそんなつもりはないし、秀頼が大坂城にいる限りはまだ安心できないということで、淀殿、秀頼の動向を探るために千姫を送り込んだとみて間違いないでしょう。
ただし、千姫自身に期待するのは幼過ぎて無理、千姫に付けたお付きのものたちからの情報を期待したはずです。

2-2、大坂城では秀頼とは別屋敷で暮らした

結婚したと言っても、まだ7歳の千姫と11歳の秀頼が正式な夫婦になるわけがなく、別居状態でした。千姫は秀頼の母淀殿にとって妹の娘で姪ではあるが、千姫付きの大勢の家来たちがいるため、姪というよりも家康の孫でスパイの巣、大事な秀頼に何をされるかわからない、という感じで警戒していたでしょう。千姫は、姫君とか政所様とか呼ばれていたのですが、広い大坂城内の一郭の別屋敷に住居。秀頼や淀殿とは年に何度かある儀式のときに上座に3人で座って顔を合わすだけの間柄で、お付きの人に囲まれて成長したようです。しかし秀頼と仲が良かったという説もあり、千姫の成人の儀式である髪削ぎでは、夫の秀頼が千姫の髪を削ぐ役目を果たしていたという目撃談があります。

尚、当時の男性の平均身長が158センチ程度だったのに、秀頼は身長6尺5寸(約197センチ)とかなりの大柄で、しかも体重43貫(約161キロ)の超おでぶ。一生のうち数度しか大坂城を出たことがなかったが、残された書を見ればかなり有能な人物だったという説も。

髪削ぎの儀式とは

平安時代から近世の女性たちは3歳までは髪を剃っていて丸坊主、そして3歳になると「髪置きの儀」という儀式をしたのちに髪を伸ばすことに。その後は髪を切らずにずっと伸ばし、16歳頃(事情によってはもっと若いことも)になれば吉日を選んで、儀髪の先をそろえるように切る「鬢削ぎの儀」を行います。これが成人式にあたるんですね。
源氏物語では、源氏の君が紫の上に、「千尋、千尋」と唱えながら髪を削ぐシーンがありますが、普通この儀式で髪を削ぐのは当人女性の父か兄の役目、千姫の場合、夫の秀頼だったのですね。

3-1、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が始まり、翌20年に夏の陣で家康が大坂城を攻撃

家康は70代になっていたので、自分の元気なうちに秀頼を滅ぼして徳川幕府を安泰に持って行きたいと思っていたでしょう。家康が関が原合戦の功労者に豊臣家の250万石をばらまき、豊臣秀頼の知行は河内などの65万石という一大名になっていましたが、秀吉の遺産として大坂城にはお金がどっさりあったといいます。これを軍資金にされてはたまらないので、秀吉の菩提を弔うためになどという名目で、全国のお寺や神社に莫大な寄進をさせて遺産を減らす作戦に。また、浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長が相次いで亡くなり、豊臣家はどんどん孤立していったわけです。

3-2、そして方広寺の鐘の「君臣豊楽国家安康」が家康の名前を呪ったと因縁を

家康は秀頼が派遣した片桐且元に、秀頼を江戸に参勤させること、淀殿を人質として江戸へ送ること、秀頼が国替えに応じ大坂城を退去することなどを条件として提示したのですが、大坂方は片桐且元を裏切り者呼ばわりして態度を硬化させ、全国の諸大名に大坂城にはせ参じるようにげきを飛ばしたが、誰一人来ないので、関が原合戦で浪人した元大名らを集めて戦争準備に

3-3、大坂冬の陣、夏の陣で大坂城落城

家康は20万を超える軍を率いて、大坂城を攻撃、豊臣軍は、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永、後藤又兵衛など、関が原合戦で西軍として戦ったため所領を没収されて家康に恨みを持つ有名な元大名が多く善戦しましたが、大野治長など淀殿側近たちとの折り合い悪く、まとまりを欠いていたのが難、攻戦を主張する彼らの反対を押し切り、結局は和平調停に持ち込まれたのです。

理由は淀殿の御殿に大砲を撃ち込み、淀殿の腰元たちに弾が直撃死亡、淀殿がヒステリーを起こしたから。家康はまたまた因縁をつけ、あれよあれよという間に大坂城の外堀から内堀まで埋めて裸城に。

そして翌慶長20年3月15日(1615年4月12日)には、大坂に不穏な動きありと夏の陣が勃発。大坂城は放火で焼け落ち、淀殿や秀頼らは城内山里廓の籾蔵に立てこもり、大野治長は最後の手段として千姫を助命嘆願に家康の陣に送ったが、叶えられずに、秀頼と淀殿は自決に追い込まれてしまいました。秀頼享年23歳。淀殿49歳(諸説あり)。

3-3、祖父家康、父秀忠の千姫への対応の違い

小さな時から家康や秀忠に可愛がられたという千姫ですが、家康は火の手が上がった大坂城を見て、「千姫を助け出したものに、千姫を与えるぞ」とまで言ったという話。父秀忠は、救出されて淀殿と秀頼の助命嘆願する千姫に対面して、「なぜ秀頼らと一緒に死ななかったのか」と叱責したという話。

どちらも本気で言ったのではなく、特に秀忠は千姫が助け出されて嬉しかったに違いないけど、まわりの家来たちに対して手放しで喜ぶところをみられたくなかった、いわゆるツンデレでしょう。この逸話に、ふたりの性格が出ているよう。

3-4、千姫、秀頼の遺児の助命嘆願する

秀頼は側室との間に国松という8歳の息子と7歳の女の子が。2人とも大坂城とは別の場所で育てられていたようで、冬の陣の前に大坂城に連れて来られたので、千姫はほとんど会ったことはなかったはず。それでも秀頼の正妻として、家康に助命嘆願したのですね。結果、国松は処刑されたが、7歳の女の子は天秀尼となり鎌倉の東慶寺の住職に。千姫は自らの声を上げて小さな命を救い、後々まで天秀尼と交流したということです。

4-1、千姫、本多忠刻と再婚することに

千姫は、大坂夏の陣後に江戸城に帰り、本多忠刻と再婚することに。そしてその前に豊臣家と縁を切るために上州の満徳寺という縁切寺で得度、もっとも頭を丸めたのは本人ではなく、代理の腰元。

4-2、坂崎出羽守の事件が起こる

元和2年(1616年)に、津和野藩主である坂崎出羽守直盛が、千姫の本多家への輿入れの行列を襲い、千姫強奪計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害。家臣たちは直盛自害と見せかけたが、坂崎家は改易処分。

これは千姫事件と呼ばれていて、坂崎出羽守が大坂城から千姫を助け出したのに、家康が自分に千姫をくれずに本多忠刻と結婚させた、または、千姫の再嫁先に公家を探すよう頼まれ奔走したのに、坂崎の尽力を無視して千姫が本多家に嫁いだことを恨んでいたという説がありますが、真相はわからずじまい。

4-3、本多忠刻は千姫の従姉の息子で家康と信長の曽孫でもあった

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By 不明 – 『新訂姫路城史 中巻』橋本政次著/臨川書店 個人蔵, パブリック・ドメイン, Link

本多忠政の長男の忠刻は、千姫のひとつ上の20歳。父忠政は徳川四天王といわれた本多平八郎忠勝の息子の譜代大名、母熊姫(ゆうひめ)は、家康の長男岡崎信康と正室徳姫(織田信長の娘)の次女。ということは、忠刻は家康と信長の曽孫。千姫は信長の妹お市の方の孫娘でもあるので、本多家は徳川家家臣の譜代大名家だけれど、徳川家のかなり近い親戚。さらに言えば、父忠政の姉はあの真田信之室の小松姫。忠刻は、誰もが振り返って見たという当代一の美男子、そして宮本武蔵の息子について剣術も学ぶ武将の家にふさわしい男っぷりだったそうです。

この結婚は、千姫が江戸へ下るとき、桑名で忠刻を見初めて一目惚れした説と、忠刻母の熊姫が祖父家康に千姫を息子の嫁にと懇願した説、家康が千姫を忠刻にと考えた説がありますが、美男美女のお似合いのカップル、たいへん仲の良い夫婦だったそう。

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うむ、本多忠刻は、信長と家康のひ孫なのか、これはすごいサラブレッドじゃないか。その上にイケメンであの二刀流の宮本武蔵に剣術を習ったのか、千姫とラブラブだったと聞くが、もてない俺にはうらやましい限りだぞ。

4-4、千姫、桑名から姫路城へ

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千姫が嫁いだことで、本多忠政は桑名から播磨の国姫路に転封となり、姫路城主に。千姫は10万石の化粧料(持参金)を持ってきたので、夫忠刻はまだ後継ぎで城主ではないものの新しく増築した西の丸に住み、伏見城の遺構を用いた武蔵野御殿や化粧櫓も建てられました。千姫は播磨姫君と呼ばれましたが、これは江戸での呼び名であったはず。また千姫は、先夫秀頼の菩提を弔い、本多家が栄えることを祈願して建立させた千姫天満宮を毎日化粧櫓の窓から拝礼していました。ふたりの間には幸千代と勝姫が誕生。しかし元和7年(1621年)に幸千代が3歳で早世し、寛永3年(1626年)には夫の忠刻と姑の熊姫そして千姫実母のお江の方が次々と亡くなったことで、本多家は忠刻の弟が継ぐことになり、千姫は娘勝姫と共に姫路城を出て江戸城へ帰りました。

4-5、千姫、忠刻と死別し、江戸城へ帰る

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本多忠刻の病死後、千姫は娘の勝姫を連れて江戸城へ帰り、竹橋御殿を建ててもらい住居に。そして髪をおろして天樹院と号して尼になりました。娘の勝姫は、寛永5年(1628年)に千姫父の秀忠の養女となって、岡山の池田光政と結婚。

寛永9年(1632年)に父秀忠が亡くなりました。しかし、千姫は7歳下の弟の3代将軍家光とは仲が良く、また家光は、御台所の鷹司孝子と最初から別居状態であったことで徳川宗家には女主人不在だったこと、それに千姫は家光乳母の大奥の実力者である春日局との関係も良好だったので、以後、徳川宗家の女主人代わりとして大奥でも中心的存在の重鎮となりました。そして、池田家に嫁いだ娘や、大名夫人となった妹たちの要望を幕府に伝えたり、弟家光の息子を養子にしたり、人の世話をもっぱらにした後半生を送ったのです。

5、千姫の後半生

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・娘勝姫の頼みで池田藩の災害援助を幕府に要請
承応3(1654)年7月、勝姫が嫁いだ岡山池田藩で大雨による大洪水が発生し、大飢饉になり餓死者が3千人も。娘勝姫は千姫に頼み、千姫は幕府に働きかけて婿の光政に4万両の災害資金を援助させました。現在の金額にすれば約40億円ともいわれる支援で、光政は20万人もの領民の命を救えたということです。

・鎌倉東慶寺の伽藍を再建
寛永20年(1643年)、秀頼遺児の天秀尼の要請で鎌倉の東慶寺の伽藍を再建。

・家光の3男綱重の親代わりに
正保元年(1644年)、家光の厄年を避けるために、家光の側室お夏と家光の三男綱重と暮らすようになりました。

・妹勝姫の依頼で、お家騒動に介入
寛文5年(1655年)の越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻に関して、嫁側である越後高田藩の勝姫(千姫の妹、越後高田藩主松平光長の母)に依頼されて、幕府に対して介入を行いました。

千姫は寛文6年(1666年)2月6日、江戸で死去、享年70。徳川家の女性の菩提寺である伝通院に埋葬されました。

千姫の後半生をみれば、尊敬されていた人物と分かるはず

千姫は徳川家に生まれ、自分の意志とは関係なく物心つかぬ間に従兄の豊臣秀頼との政略結婚で大坂城で19歳まで過ごし、なさぬ仲の秀頼遺児の天秀尼を嫡母として助命嘆願して命を救い、その後10年は親戚の超イケメンの本多忠刻と幸せな2度目の結婚生活を送ったものの最愛の夫とは死別。実家へ戻って父や弟の庇護のもとに静かに暮らしたかと思いきや、弟家光に頼りにされ、家光の息子を預かって育てたり、娘や妹ら親類縁者のために幕府に働きかけて力を貸すなど地味ながらも意外な存在感を示しました。あまり歴史の表舞台には出ていないけれど、千姫は大坂城や姫路城での贅沢な生活に奢ることなく、落城や夫や幼子に先立たれるという不幸な目に合っても、しっかりと自分を持って人間として成長したせいで、相談されると力になるし、的確なアドバイスができる、人生の達人となった人なのではないでしょうか。

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