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維新の十傑「岩倉具視」を元塾講師が分かりやすくわかりやすく解説!「岩倉具視」の政治人生が5分で分かる

今日は岩倉具視(いわくらともみ)について勉強していきます。維新の十傑の一人だけあって、岩倉具視は幕末から明治維新にかけて活躍した人物であり、様々な場面で名前が登場する。

そして岩倉具視は日本の公家(日本において朝廷に仕えている貴族や上級官人の総称)であり政治家です。このため、当時の政治政策を知ることが岩倉具視を知ることになるでしょう。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から岩倉具視をわかりやすくまとめた。

岩倉具視の出生から廷臣八十八卿列参事件まで

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公家らしさがなく「岩吉」と呼ばれていた幼年期

岩倉具視は堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として京都に誕生しました。ちなみに堀川康親は公卿であり、公卿とは公家の中でも国政を担うだけの上級の職位です。ただ、幼い頃の岩倉具視には公家の高貴な面影が一切なく、容姿や言動から公家らしさを感じさせませんでした。

そのためか、幼名は「周丸」だったものの公家の子女達からは「岩吉」と呼ばれていたそうです。しかし、そんな岩倉具視を「大器の人物」と見抜いた者がいました。それが朝廷儒学者の伏原宣明(ふせはらのぶはる)で、彼は岩倉家への養子縁組を推薦したほどです。

さて、1838年に岩倉具慶(いわくらともやす)の養子となった岩倉具視は、伏原宣明によってこの時「具視」の名を選定されます。さらに同年の12月に元服すると昇殿を許され、翌年からは朝廷に出仕するようになったのです。

存在感を示した廷臣八十八卿列参事件

岩倉具視が最初にその存在感を示したのは、1858年に発生した公家による抗議運動の廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)です。1858年、老中の堀田正睦(ほったまさよし)は日米修好通商条約の勅許を得るため上京していました。

関白の九条尚忠(くじょうひさただ)はこれに対して勅許を与えるべきと主張、しかし多くの公卿と公家は九条尚忠の意見に反対します。岩倉具視もまた条例の調印には反対しており、 大原重徳(おおはらしげとみ)と共に九条尚忠に反対する公家達を集めました。

抗議に集結したその数は88人、九条尚忠は病を理由に参内を辞退しましたが、岩倉具視は面会できるまで動こうとしなかったのです。結局、岩倉具視が退去したのは夜遅くになってからで、九条尚忠は明日返答する旨を伝えて岩倉具視を納得させました。結局勅許は与えられず、これが岩倉具視にとって初めての政治活動かつ初めての勝利となったのです。

安政の大獄から失脚まで

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