今日は岩倉具視(いわくらともみ)について勉強していきます。維新の十傑の一人だけあって、岩倉具視は幕末から明治維新にかけて活躍した人物であり、様々な場面で名前が登場する。

そして岩倉具視は日本の公家(日本において朝廷に仕えている貴族や上級官人の総称)であり政治家です。このため、当時の政治政策を知ることが岩倉具視を知ることになるでしょう。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から岩倉具視をわかりやすくまとめた。

岩倉具視の出生から廷臣八十八卿列参事件まで

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公家らしさがなく「岩吉」と呼ばれていた幼年期

岩倉具視は堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として京都に誕生しました。ちなみに堀川康親は公卿であり、公卿とは公家の中でも国政を担うだけの上級の職位です。ただ、幼い頃の岩倉具視には公家の高貴な面影が一切なく、容姿や言動から公家らしさを感じさせませんでした。

そのためか、幼名は「周丸」だったものの公家の子女達からは「岩吉」と呼ばれていたそうです。しかし、そんな岩倉具視を「大器の人物」と見抜いた者がいました。それが朝廷儒学者の伏原宣明(ふせはらのぶはる)で、彼は岩倉家への養子縁組を推薦したほどです。

さて、1838年に岩倉具慶(いわくらともやす)の養子となった岩倉具視は、伏原宣明によってこの時「具視」の名を選定されます。さらに同年の12月に元服すると昇殿を許され、翌年からは朝廷に出仕するようになったのです。

存在感を示した廷臣八十八卿列参事件

岩倉具視が最初にその存在感を示したのは、1858年に発生した公家による抗議運動の廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)です。1858年、老中の堀田正睦(ほったまさよし)は日米修好通商条約の勅許を得るため上京していました。

関白の九条尚忠(くじょうひさただ)はこれに対して勅許を与えるべきと主張、しかし多くの公卿と公家は九条尚忠の意見に反対します。岩倉具視もまた条例の調印には反対しており、 大原重徳(おおはらしげとみ)と共に九条尚忠に反対する公家達を集めました。

抗議に集結したその数は88人、九条尚忠は病を理由に参内を辞退しましたが、岩倉具視は面会できるまで動こうとしなかったのです。結局、岩倉具視が退去したのは夜遅くになってからで、九条尚忠は明日返答する旨を伝えて岩倉具視を納得させました。結局勅許は与えられず、これが岩倉具視にとって初めての政治活動かつ初めての勝利となったのです。

安政の大獄から失脚まで

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安政の大獄での立ち回り

1858年、幕府の大老である井伊直弼(いいなおすけ)は天皇の許可を得ることなく独断で日米修好通商条約を締結しました。後日、これを知った孝明天皇は当然激怒します。一方、井伊直弼はさらにオランダ、ロシア、イギリスとも次々と不平等条約を締結して、さらに抗議した藩主らに謹慎処分を下したのです。

これに対して孝明天皇は、水戸藩に対して井伊直弼の罪を問いただすため糾弾するよう勅令を下します。これが戊午の密勅(ぼごのみっちょく)と呼ばれる事件で、孝明天皇は水戸藩に対して幕政改革を指示する勅書を与えました。そこで幕府は井伊直弼らの対応方法に反対する者を弾圧、これが1858年から1859年にかけて起きた安政の大獄です。

その頃、岩倉具視は安政の大獄が皇室や公家にまで拡大するのを危険視しており、朝幕関係の悪化を怖れていました。そこで京都所司代の酒井忠義(さかいただあき)らと直接会談、天皇の考えを伝えた上で、朝廷と幕府の対立は国家にとって大きな過ちであると説いたのです。

親幕派と疑われて失脚、朝廷を去る

安政の大獄での会談によって、岩倉具視は酒井忠義と親しくなりました。そもそも岩倉具視は朝廷派・幕府派の偏ったものではなく、お互い……つまり朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体が理想と考えていたのです。このため、和宮降嫁にも力を尽くして協力しました。

その頃、各地では反幕府運動とも言える尊王攘夷運動が活発に起こっており、岩倉具視もまた朝廷権威の高揚に努めていたのです。しかし、京都所司代の酒井忠義と親しい仲であること、また和宮降嫁に尽力したことなどから、一部の尊王攘夷派から佐幕派(幕府を補佐する役)とみなされてしまいます。

そこで、尊王攘夷派は岩倉具視を退けようと朝廷に圧力をかけ、岩倉具視は孝明天皇の近習職を辞める勧告に従いました。しかし岩倉具視を退ける動きはまだ収まらず、最終的には孝明天皇にまで親幕派と疑われてしまったのです。そこで下った命令は蟄居(ちっきょ)・辞官・出家の申し出で、岩倉具視はこれに逆らうことなく辞官して出家、朝廷を去ることになりました。

蟄居生活から王政復古の大号令まで

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蟄居生活と禁門の変による転機

蟄居処分となった岩倉具視でしたが、攘夷強行論者達からはそれでもまだ処分が甘いという声が挙がり、そのためか京都からの退去を強く求める脅迫めいた予告文まで受けていました。身の危険を感じた岩倉具視は邸での蟄居を続けられなくなり、僧の姿となって西賀茂の霊源寺に身を隠します。

さらに養父の甥が住職をしている洛西の西芳寺に移り住む岩倉具視、しかし公卿の近衛忠煕(このえただひろ)は洛中に住んではならないと岩倉具視に追放令を出しました。住む場所に困る岩倉具視に救いの手を差し伸べたのが長男の岩倉具綱(いわくらともつな)であり、洛北の岩倉村に住居を用意してくれたため、そこで5年間の蟄居生活を送ったのです。

岩倉具視が蟄居生活を送る中でのこと、1864年に禁門の変が発生して京都の攘夷強行論者達が一掃されました。ただ、それでも岩倉具視の赦免はなく、そのため岩倉具視は岩倉村で変わりなく生活を続けます。しかし、薩摩藩や朝廷の同志達が岩倉具視に会いに来るようになり、岩倉具視も「叢裡鳴虫」をはじめとした政治意見書を再び書くようになったのです。

倒幕派への変更と明治政府の誕生

政治意見書を書くようになった岩倉具視は、それを朝廷や薩摩藩の同志に送るなどして再び政治活動を始めました。また、この頃から岩倉具視が思う理想に変化が見られ、公武合体派から倒幕派へと立場を変更したのです。

倒幕派となった岩倉具視は様々な主張や批判を意見しますが、1867年に孝明天皇が死亡、そして明治天皇の即位によって長年の蟄居処分がようやく解かれたのでした。さらに同じ頃、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還を行ったことで政権を天皇へ返上、江戸幕府が終了して明治政府による新時代が訪れます。

しかし、徳川慶喜が依然政治的主導権を握ろうとしていたため、岩倉具視は大久保利通(おおくぼとしみち)らと共に徳川慶喜に辞官納地させる計画を立てました。そのため1868年に王政復古の大号令を実行、新政府樹立を宣言して明治政府の誕生、同時に徳川慶喜の新体制への参入も排除するものとしたのです。

輔相から岩倉使節団まで

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行政官の首座として活躍するも辞職

明治政府の政治機構はアメリカの政治制度が参考にされており、行政・立法・司法の三権分立を採用しました。岩倉具視は行政に就き、その中でも輔相(ほそう)と呼ばれる行政官の首座に該当する官職に任命されます。三条実美(さんじょうさねとみ)との二人体制であったものの、三条実美は江戸に出ていたことで実質的な首班は岩倉具視だったそうです。

岩倉具視が早々に行った改革は公家に学問を学ぶ時間を与えるためのもので、公家の宿直制度を廃止しました。ただ、これについては旧公家層から批判されており、岩倉具視もそれは想定済だったのでしょう。江戸にいる三条実美に「明治維新のためにはやり遂げなければならない」と手紙に書いていたようです。

さて、1868年の上野戦争が終結した後、明治天皇が東京を行幸することが発表されました。天皇へのお供である供奉(ぐぶ)するメンバーには岩倉具視も含まれており、東京城へ入城してそこが皇居となったのです。しかし京都の市民の感情に配慮したためか、1869年に明治天皇は京都に還幸、そして岩倉具視は京都に戻った後に輔相を辞職、病が理由とのことでした。

岩倉使節団で受けたカルチャーショック

版籍奉還後に行政組織の再編があり、岩倉具視は右大臣となった三条実美の補佐役となる大納言に就任しました。さらに廃藩置県を行った同日には岩倉具視が外務省の長官である外務卿、後に太政大臣が新設された際には三条実美がこれに就任したため、岩倉具視は右大臣を兼務することになります。

さて、外務卿になった岩倉具視は日米修好通商条約の条約改正の問題に追われました。そこで政府は欧米に使節団を送り、日本が未だ文明開化していないことを欧米に伝えることを考えたのです。その上で各国々で近代化の様子を視察、帰国後にそれらを日本に導入しようとしました。

そして、「文明開化を成し遂げた段階で条約交渉をしてほしい」と要請して条約改正交渉を引き延ばすことを目的としたのです。岩倉具視は特命全権大使として使節団に参加、各国の元首と面会しましたが、結局条約改正の問題は解決できずに終わります。それどころか、アメリカの近代国家ぶりは岩倉具視の想像を遥かに超えたものでした。

\次のページで「立憲問題と岩倉具視の死去」を解説!/

立憲問題と岩倉具視の死去

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憲法制定で悩む岩倉具視

1875年、明治天皇は「漸次に国家立憲の政体を立てる」という詔書を出し、これを立憲政体の詔書と言います。しかし岩倉具視はこれに反対、なぜなら憲法制定によって国が大きく変わってしまう危険性があると考えたからです。

そこで岩倉具視は抗議する意味で三条実美に辞表を提出、しかも三条実美がこれを拒否したため、岩倉具視は病を理由に出仕することを断ります。この時、岩倉具視に出仕を根強く依頼したのが大久保利通であり、岩倉具視も一応の形で了承、立憲には反対しつつも出仕するようになりました。

ただ、1880年頃になると自由民権運動が高まって憲法制定論議が加速します。立憲に反対し続けた岩倉具視でしたが、法務官僚から具申もあったことでその考えは徐々に変わっていき、憲法制定が必要であると実感するようになったのです。

ガンに侵されていた岩倉具視の死去

憲法制定を必要と考えるようになった岩倉具視にとっての悩みは、その憲法制定を誰に任せるべきかという点でした。岩倉具視を支えていた内務卿の大久保利通は暗殺されてしまったため、残る候補となったのは工部卿の伊藤博文と大蔵卿の大隈重信です。伊藤博文はドイツ憲法を模範と考え、議院内閣制ではなく君主大権を温存する憲法を主張しています。

一方、大隈重信はイギリスを習って議員内閣制の憲法を主張していました。それぞれ考えが全く異なっていましたが、岩倉具視は伊藤博文に任せることを決断します。この後、伊藤博文は大隈重信の解任を計画、この訴えに岩倉具視は了承して大隈重信を追放……これが明治十四年の政変と呼ばれる事件です。

伊藤博文は憲法調査のためにヨーロッパ各国へと派遣されますが、岩倉具視はそんな伊藤博文の帰国前にガンによって死去しました。大日本帝国憲法の制定に期待する岩倉具視でしたが、自身の目でその制定を見ることはできなかったのです。また、記録に残るものに限定すれば岩倉具視は日本で初めてガンの告知をされました。

次々とかわる役職に注意しよう

岩倉具視を勉強するには政治政策や関係した人物を覚える必要がありますが、少々難しいのが役職でしょう。と言うのも、岩倉具視は人生の中で様々な役職の就任と辞任を何度か繰り返しているからです。

このため、例えば「外務卿」とだけ覚えてしまうと、時代やタイミングによってはその答えが間違いになってしまいます。岩倉具視の役職を覚える時には、それがいつの時代でどのタイミングなのかもあわせて覚えてくださいね。

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維新の十傑「岩倉具視」を元塾講師が分かりやすくわかりやすく解説!「岩倉具視」の政治人生が5分で分かる

今日は岩倉具視(いわくらともみ)について勉強していきます。維新の十傑の一人だけあって、岩倉具視は幕末から明治維新にかけて活躍した人物であり、様々な場面で名前が登場する。

そして岩倉具視は日本の公家(日本において朝廷に仕えている貴族や上級官人の総称)であり政治家です。このため、当時の政治政策を知ることが岩倉具視を知ることになるでしょう。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から岩倉具視をわかりやすくまとめた。

岩倉具視の出生から廷臣八十八卿列参事件まで

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公家らしさがなく「岩吉」と呼ばれていた幼年期

岩倉具視は堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として京都に誕生しました。ちなみに堀川康親は公卿であり、公卿とは公家の中でも国政を担うだけの上級の職位です。ただ、幼い頃の岩倉具視には公家の高貴な面影が一切なく、容姿や言動から公家らしさを感じさせませんでした。

そのためか、幼名は「周丸」だったものの公家の子女達からは「岩吉」と呼ばれていたそうです。しかし、そんな岩倉具視を「大器の人物」と見抜いた者がいました。それが朝廷儒学者の伏原宣明(ふせはらのぶはる)で、彼は岩倉家への養子縁組を推薦したほどです。

さて、1838年に岩倉具慶(いわくらともやす)の養子となった岩倉具視は、伏原宣明によってこの時「具視」の名を選定されます。さらに同年の12月に元服すると昇殿を許され、翌年からは朝廷に出仕するようになったのです。

存在感を示した廷臣八十八卿列参事件

岩倉具視が最初にその存在感を示したのは、1858年に発生した公家による抗議運動の廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)です。1858年、老中の堀田正睦(ほったまさよし)は日米修好通商条約の勅許を得るため上京していました。

関白の九条尚忠(くじょうひさただ)はこれに対して勅許を与えるべきと主張、しかし多くの公卿と公家は九条尚忠の意見に反対します。岩倉具視もまた条例の調印には反対しており、 大原重徳(おおはらしげとみ)と共に九条尚忠に反対する公家達を集めました。

抗議に集結したその数は88人、九条尚忠は病を理由に参内を辞退しましたが、岩倉具視は面会できるまで動こうとしなかったのです。結局、岩倉具視が退去したのは夜遅くになってからで、九条尚忠は明日返答する旨を伝えて岩倉具視を納得させました。結局勅許は与えられず、これが岩倉具視にとって初めての政治活動かつ初めての勝利となったのです。

安政の大獄から失脚まで

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