朝廷を牛耳る
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物部氏を倒すことで有力な政敵を消し去ることに成功した蘇我氏は、仏教への信仰に厚い聖徳太子や推古天皇と協力関係を築いて皇室と婚姻関係を深める一方で、意にそわない大王や皇族を暗殺するなど、自らの政治的な思惑でヤマト朝廷を動かしていきました。
西暦592年、蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺。
西暦624年、大王の直轄領の割譲を推古天皇に要求。
西暦629年、蘇我蝦夷が境部摩理勢を暗殺し、舒明天皇を擁立。
西暦643年、蘇我入鹿による山背大兄王の殺害。
驕れる者は
蘇我馬子の子であり大化の頃の蘇我氏当主である蘇我蝦夷は、自らの邸宅を大王の宮殿を見下ろす高台に建設し宮上の門(ミカド)と配下の者に呼ばせ、子の入鹿を朝廷に無断で大臣に任命し皇子(ミコ)と呼んでいました。大王の位を奪う考えがあったかはさておき、名実ともに大王が二人いるような状態であったのです。
蘇我氏の排除 乙巳の変
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仏教受容論争で蘇我氏と対立していた連であり、代々神官職であった中臣氏の出身であった中臣鎌足は、蘇我氏の横暴を憎み、その打倒を画策していました。同じ考えを持つ者として、当時の大王である女帝・皇極天皇の子である中大兄皇子に近づき、蘇我氏一族の蘇我倉山田石川麻呂、佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田などの豪族の同志を募り、蘇我氏の排除を計画。西暦645年、飛鳥の宮廷において、当時蘇我氏の権力者であった蘇我入鹿の暗殺するに至りました。入鹿の父親で当主であった蝦夷も、自らの配下である渡来人達に見限られ、入鹿暗殺の翌日に自らの屋敷に火を放ち自害し、蘇我氏は滅ぶことになります。
この出来事は、乙巳の変と呼ばれており、ヤマト朝廷の軍事・経済の両面を押さえていた蘇我氏が消え去ることにより、権力構造に大きな変革が起きた事件でした。
権力の空白が生んだチャンス
前代の舒明天皇の姪であり妻であった女帝・皇極天皇は、皇位を弟の軽皇子に譲り、軽皇子は孝徳天皇として即位しました。蘇我氏排除の功労者である中大兄皇子を皇太子、中臣鎌足を参謀の役割である内臣とし、権臣であった蘇我氏亡き後、彼ら大王家主導で様々な政治改革を進めていくことになります。
改新の詔
乙巳の変後、ヤマト朝廷における政治の実権を大王の元に取り戻した孝徳天皇は、群臣を集めて大化と号し、国博士・内臣・左右大臣の新設、難波宮への遷都の決定等の様々な改革を進め、新政権の方針をまとめた4か条の改新の詔を発布しました。その内容はおよそ以下の通りです。
・従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
・初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
・初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
・旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。
ここで述べられているのは、これまでの土地・人民の支配体制を廃止し、土地と人民を朝廷の公有財産とすること(公地公民)、全国を国や郡などの行政区分を定めて朝廷から官吏を派遣し、出先機関である役所等の行政組織を立ち上げること、戸籍を把握し土地を国から民衆に直接授与すること(班田収授)、田からの収穫を中心とした税制に革めること(租庸調の租)、になります。
大化の改新 律令国家の成立
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大化の年間に改新の詔をはじめとして進められた一連の改革を指して、大化の改新と呼んでいます。改新の詔の内容と大枠は同じですが、例えば以下のような政策が進められました。
・土地を公地、人民を公民として国有し(公地公民)、民衆を階層化して田畑(口分田など)を与えました(班田収授)。
・全国を七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分け、令制国(山城国・武蔵国など)や郡・里ごとに行政区分を設置し、朝廷から官吏(国司)を派遣し、現地豪族を役人(郡司など。後の国衙の役人たち)として組み入れました。
・戸籍を調査し、軍団や防人の選出、租税の課税対象を把握し、租(田の収穫物)・庸(都での労役もしくは布米塩で代替)・調(絹もしくは各地の特産品で代替)の税区分を設けて、地方の役人を介して都へ直接納付させました。
また、政治改革の根拠として、新しい朝廷の仕組みを文書として残した法律が制定されました。これらの法律は律令と呼ばれ、律令を前提とした国家体制は律令国家、と呼ばれます。
律は現在の刑法に、令は行政法(民法等含む)に該当するものです。手本となったのは隋唐の律令制度であり、これらを学んだ遣隋使・遣唐使達が律令体制の整備を進めました。
途中、唐との対外戦争や皇位継承を巡る内乱による中断はあったものの、中大兄皇子の弟である大海人皇子(後の天武天皇)や、その妻かつ中大兄皇子の娘である持統天皇に引き継がれ、西暦689年の飛鳥浄御原令(令部分のみ)、西暦701年の大宝律令(令を日本風に改良し、律を加えたもの)が公布されて根拠法が出来ることにより、改革は完遂されることとなりました。
ヤマト朝廷から日本国へ
ヤマト朝廷の改革は、聖徳太子の冠位十二階の制定から大宝律令の制定まで、およそ100年の長きにわたりました。
飛鳥浄御原令を制定した天武天皇の頃から、大王ではなく天皇、倭ではなく日本という呼称に正式に変わったと言われています。またこの頃に、日本の国としての歴史書である日本書紀・古事記の編纂も着手されました。有力な豪族の連合体であったヤマト朝廷は、天皇を中心とした日本という主権国家、律令を基盤とした法治国家である律令国家に変貌を遂げることになったのです。「大化」の意味に込められたのは、日本列島各地の主権者であった豪族たちを、天皇となった大王が導いていく、ということだったのではないか、と考えています。