今からおよそ1400年前、当時の日本列島に住んでいたオレらの祖先は、当時の世界で有数の文明を持っていた中国大陸の漢民族から、東の果てに住んでいる野蛮な民族・倭人であると見なされていた。野蛮とは、文明が遅れていて、教養なく粗野で乱暴、という意味です。大化の改新は、漢民族の先進的な国家制度を真似ながらも、自分たちの王である天皇を中心に、日本列島にはじめて野蛮とは無縁のいっぱしの法治国家を創造することになった、日本史の最初の重要なイベントです。

今回は大化の改新について、歴史オタクなライターkeiと一緒に考えていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は日本史の一大イベントである大化の改新をわかりやすくまとめた。

元号に込められた思い

西暦2019年5月。平成31年5月改め、令和元年5月。この月から始まった日本の新しい時代である「令和」。日本の古典である万葉集の一節から採られた元号は、英訳で「Beautiful Harmony(美しい調和)」を意味しています。安倍首相の談話では、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意図を込めた言葉、ということ。世界有数の経済・文化大国として成熟した日本が、さらに発展することを祈って名付けられたものと思います。

最初の元号である「大化」

日本の最初の元号は「大化」です。西暦645年から650年の間、孝徳天皇(軽皇子)の時代でした。「大化」の出典は、中国の古典である書経の一節「肆にわれ大いにわが友邦の君を化誘す」から採られたものと考えられ、「私は大いにわが友邦諸国の君主たちを教え導くのである」という意味とされています。その思いは何だったのでしょうか。

大化の日本は、有力者の連合政権だった

まずは当時のヤマト朝廷がどんなものだったのか、見てみましょう。

孝徳天皇は最初の天皇?

大化は最初の元号ではありますが、孝徳天皇は最初の天皇ではありません。日本の初代天皇とされる神武天皇から数えて、孝徳天皇は36代目の天皇となります。初代天皇である神武天皇が創始したとされるヤマト朝廷は、天皇家を元首である大王(オオキミ)として推戴しつつも、各地の有力者である豪族の独自性が強固に保たれた緩やかな連合政府でした。

この当時の組織・仕組みは?

各地の豪族は氏(ウジ)という同族集団を形成し、ヤマト朝廷内での序列を表す姓(カバネ)を官職として与えられていました。姓は上位から、臣・連・伴造・国造・県主、などが定められていました。しかし、官職を与えられていたからと言って豪族が大王の下に素直に従属する官僚であったかというとそうではなく、土地や民衆の支配権、財産も大王とは別に独立していました。例えば、人々については言えば、大王直属の人々(多くは技能民でしたが)は品部(シナベ)、豪族の人々・私有民は民部(カキベ)と分けられていました。

まだまだ力の弱かった大和朝廷

大王が宮殿を構えていた奈良や大阪周辺の近畿地方以外、日本各地の統治については、現地の有力者である豪族に姓である国造や県主などの官職を与え、支配権を追認するというものに過ぎませんでした。その地方の政治や行政はそれぞれの豪族に任されていたので、ヤマト朝廷の領域全体で統一された軍隊はおろか、警察のような治安組織・納税制度もなく、現代では当たり前となっている役所などの行政組織もない、という状態でした。例えば、他人の物を盗んだなどの犯罪が行われた際の処罰も、現代のように刑法や刑事訴訟法などの根拠法典が無い状態であるので、各地の集落の慣習(不文律)に依存していたのではないでしょうか。

領域・人民・主権の3つを主権者が完全に把握することが国家の成立要素とされます。しかし、この時代の日本の政治勢力であるヤマト朝廷は、いずれの点でも中途半端な状態でした。大王の支配権は、自らの直轄領や直属の民を除いて豪族を介してのものであり、限定されていました。

大化の東アジアは、分裂が収まり、強力な大帝国が出現していた

東西突厥帝国.png
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一方で、日本列島を取り巻く国際情勢は大きく変化していました。西暦316年に漢民族の統一王朝であった西晋が滅んで以来、南北に分裂状態にあった中国大陸では、西暦589年に北朝のが南朝のを滅ぼしておよそ300年ぶりに再統一。隋の政策を、内政と外征の両面から見ていきましょう。

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統一帝国 隋の内政

隋は科挙という新たな人材制度を作って家柄に関係なく有能な者を試験により登用する一方、民衆には同じ広さの田畑を与えて課税()する均田制と、さらに発展させて労役()や絹を納める(調)の税制を定め、税制を強化しました。更に、分裂していた南北の経済的な結びつきを強化するために、国土を貫く長大な人口運河を開削して、南の物資を船を使ってより早く都に送り込めるよう物流も強化。また、地方が軍事力をもって勝手に独立することを防ぐために、地方官僚の任命を地方長官ではなく都から派遣する形を取り、中央政府の政治権限を強化しました。

統一帝国 隋の外征

以上のような政策により国力を高めた隋は、隋に度々反抗していた朝鮮半島北部にあった高句麗王国への三度の遠征を重ねるなど、周辺国への侵略を進めました。隋は、大運河工事や度重なる遠征などの重い負担に耐えかねた民衆の反乱により40年足らずで滅亡することになりますが、隋末の混乱を短期間で鎮めて再統一を果たしたは、西暦626年に即位した第2代皇帝である太宗が、貞観の治と呼ばれる善政を敷いたことにより再度国力を高め、西暦630年に突厥(現在のモンゴル)、西暦640年に高昌国(現在のウイグル自治区)など、周辺諸国を武力により制圧し、隋以上の対外侵略を進めていました

 

師が伝えた隋の脅威

西暦595年に来日し聖徳太子の師となった高句麗の僧慧慈は、聖徳太子に「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と伝えていたそうです。隋の高句麗遠征は西暦598年から始まるのですが、当時、20歳越えた頃の青年皇族であった聖徳太子は、強大な隣国が出現したことに対して、危機感を持ったであろうと想像します。

大化の改新に至るまで 聖徳太子による改革の試み

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隋が大陸を再統一した頃、日本では第33代の女帝・推古天皇の時代でした。推古天皇は父である先代・欽明天皇の娘でありますが、欽明天皇の子であり異母兄である敏達天皇の妻(兄弟結婚)でもあります。欽明天皇の他の息子達が亡くなっていたため、有力者の蘇我馬子に請われて即位することになりました。

推古天皇の下で政治の実務を行っていたのが、先ほども少し出てきましたが、推古天皇の甥であり蘇我氏とも血縁の近い聖徳太子です。

聖徳太子の事績と理想 和の精神

聖徳太子は、慧慈の助言もあったのか、ヤマト朝廷の改革を積極的に行いました。

聖徳太子の時代の改革としては、西暦600年、隋の先進的な文化や制度を取り入れるための使節である遣隋使の派遣(小野妹子ら)、西暦603年に従来の氏姓制度によらない任官制度となる冠位十二階制の制定、西暦604年に日本で初めてとなる十七条憲法の制定、などの事績が挙げられます。特に十七条憲法は、最初の一文に「以和爲貴(和を以て尊しと為す)」と、朝廷を支える人々すべての和の大切さを謳うものでありました。

しかし聖徳太子の改革は、大王以上に権力を持ってしまった権臣の存在により有効に機能したとは言えませんでした。

権臣・蘇我氏の台頭と専横

ヤマト朝廷を支える豪族の中で最終的に、大きな権力を持つ権臣となったのは蘇我氏でした。蘇我氏が権力を握る流れを見てみましょう。

ヤマト朝廷の有力な3つの氏族

ヤマト朝廷では、有力な氏族は姓を与えられていたことは前に述べましたが、中でも、連(ムラジ)の大伴氏物部氏及び、臣(オミ)の蘇我氏、の3つの氏族が有力でした。

推古天皇・聖徳太子の時代までに、大伴氏はヤマト朝廷の領土で朝鮮半島南端にあった任那(ミマナ)の領土を、朝鮮半島の勢力に対して大王に無断で売り渡したことにより失脚していましたが、物部氏・蘇我氏はそれぞれ朝廷内の軍事・内政の権力を押さえていました。特に蘇我氏は、先進的な技術を持った中国や朝鮮などの大陸から日本にやってきた渡来人の技術集団である品部を統率しており、大王の臣下でありながら大王の経済力を押さえる立場にありました。

有力なライバル 物部氏を滅ぼす

物部氏・蘇我氏は、渡来人や朝鮮半島を通して伝えられた大陸の先進的な文化である仏教の受容を巡り、対立をするようになりました。物部氏は仏教を否定し、それまでの古来から続く神道を大切にする考えで、一方の蘇我氏は仏教を受容する考えにありました。

物部氏と蘇我氏の対立は、欽明天皇の子である用明天皇の崩御後の後継争いに際して軍事衝突となり、物部氏の当主であった物部守屋が戦死して蘇我氏が勝利する結果に終わりました。蘇我氏が経済も軍事も権力を掌握することになったのです。

\次のページで「朝廷を牛耳る」を解説!/

朝廷を牛耳る

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物部氏を倒すことで有力な政敵を消し去ることに成功した蘇我氏は、仏教への信仰に厚い聖徳太子や推古天皇と協力関係を築いて皇室と婚姻関係を深める一方で、意にそわない大王や皇族を暗殺するなど、自らの政治的な思惑でヤマト朝廷を動かしていきました。

 西暦592年、蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺。
 西暦624年、大王の直轄領の割譲を推古天皇に要求。
 西暦629年、蘇我蝦夷が境部摩理勢を暗殺し、舒明天皇を擁立。
 西暦643年、蘇我入鹿による山背大兄王の殺害。

驕れる者は

蘇我馬子の子であり大化の頃の蘇我氏当主である蘇我蝦夷は、自らの邸宅を大王の宮殿を見下ろす高台に建設し宮上の門(ミカド)と配下の者に呼ばせ、子の入鹿を朝廷に無断で大臣に任命し皇子(ミコ)と呼んでいました。大王の位を奪う考えがあったかはさておき、名実ともに大王が二人いるような状態であったのです。

蘇我氏の排除 乙巳の変

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仏教受容論争で蘇我氏と対立していた連であり、代々神官職であった中臣氏の出身であった中臣鎌足は、蘇我氏の横暴を憎み、その打倒を画策していました。同じ考えを持つ者として、当時の大王である女帝・皇極天皇の子である中大兄皇子に近づき、蘇我氏一族の蘇我倉山田石川麻呂、佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田などの豪族の同志を募り、蘇我氏の排除を計画。西暦645年、飛鳥の宮廷において、当時蘇我氏の権力者であった蘇我入鹿の暗殺するに至りました。入鹿の父親で当主であった蝦夷も、自らの配下である渡来人達に見限られ、入鹿暗殺の翌日に自らの屋敷に火を放ち自害し、蘇我氏は滅ぶことになります。

この出来事は、乙巳の変と呼ばれており、ヤマト朝廷の軍事・経済の両面を押さえていた蘇我氏が消え去ることにより、権力構造に大きな変革が起きた事件でした。

権力の空白が生んだチャンス

前代の舒明天皇の姪であり妻であった女帝・皇極天皇は、皇位を弟の軽皇子に譲り、軽皇子は孝徳天皇として即位しました。蘇我氏排除の功労者である中大兄皇子を皇太子、中臣鎌足を参謀の役割である内臣とし、権臣であった蘇我氏亡き後、彼ら大王家主導で様々な政治改革を進めていくことになります。

改新の詔

乙巳の変後、ヤマト朝廷における政治の実権を大王の元に取り戻した孝徳天皇は、群臣を集めて大化と号し、国博士・内臣・左右大臣の新設、難波宮への遷都の決定等の様々な改革を進め、新政権の方針をまとめた4か条の改新の詔を発布しました。その内容はおよそ以下の通りです。

・従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
・初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
・初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
・旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。

ここで述べられているのは、これまでの土地・人民の支配体制を廃止し、土地と人民を朝廷の公有財産とすること(公地公民)、全国を国や郡などの行政区分を定めて朝廷から官吏を派遣し、出先機関である役所等の行政組織を立ち上げること、戸籍を把握し土地を国から民衆に直接授与すること(班田収授)、田からの収穫を中心とした税制に革めること(租庸調の租)、になります。

大化の改新 律令国家の成立

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大化の年間に改新の詔をはじめとして進められた一連の改革を指して、大化の改新と呼んでいます。改新の詔の内容と大枠は同じですが、例えば以下のような政策が進められました。

・土地を公地、人民を公民として国有し(公地公民)、民衆を階層化して田畑(口分田など)を与えました(班田収授)。
・全国を七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分け、令制国(山城国・武蔵国など)や郡・里ごとに行政区分を設置し、朝廷から官吏(国司)を派遣し、現地豪族を役人(郡司など。後の国衙の役人たち)として組み入れました。
・戸籍を調査し、軍団や防人の選出、租税の課税対象を把握し、(田の収穫物)・(都での労役もしくは布米塩で代替)・調(絹もしくは各地の特産品で代替)の税区分を設けて、地方の役人を介して都へ直接納付させました。

また、政治改革の根拠として、新しい朝廷の仕組みを文書として残した法律が制定されました。これらの法律は律令と呼ばれ、律令を前提とした国家体制は律令国家、と呼ばれます。

は現在の刑法に、は行政法(民法等含む)に該当するものです。手本となったのは隋唐の律令制度であり、これらを学んだ遣隋使・遣唐使達が律令体制の整備を進めました。

途中、唐との対外戦争や皇位継承を巡る内乱による中断はあったものの、中大兄皇子の弟である大海人皇子(後の天武天皇)や、その妻かつ中大兄皇子の娘である持統天皇に引き継がれ、西暦689年の飛鳥浄御原令(令部分のみ)、西暦701年の大宝律令(令を日本風に改良し、律を加えたもの)が公布されて根拠法が出来ることにより、改革は完遂されることとなりました。

ヤマト朝廷から日本国へ

ヤマト朝廷の改革は、聖徳太子の冠位十二階の制定から大宝律令の制定まで、およそ100年の長きにわたりました。

飛鳥浄御原令を制定した天武天皇の頃から、大王ではなく天皇、倭ではなく日本という呼称に正式に変わったと言われています。またこの頃に、日本の国としての歴史書である日本書紀古事記の編纂も着手されました。有力な豪族の連合体であったヤマト朝廷は、天皇を中心とした日本という主権国家、律令を基盤とした法治国家である律令国家に変貌を遂げることになったのです。「大化」の意味に込められたのは、日本列島各地の主権者であった豪族たちを、天皇となった大王が導いていく、ということだったのではないか、と考えています。

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日本史歴史飛鳥時代

日本最初の重要イベント「大化の改新」を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!背景と歴史に与えた影響を考えてみる

朝廷を牛耳る

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物部氏を倒すことで有力な政敵を消し去ることに成功した蘇我氏は、仏教への信仰に厚い聖徳太子や推古天皇と協力関係を築いて皇室と婚姻関係を深める一方で、意にそわない大王や皇族を暗殺するなど、自らの政治的な思惑でヤマト朝廷を動かしていきました。

 西暦592年、蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺。
 西暦624年、大王の直轄領の割譲を推古天皇に要求。
 西暦629年、蘇我蝦夷が境部摩理勢を暗殺し、舒明天皇を擁立。
 西暦643年、蘇我入鹿による山背大兄王の殺害。

驕れる者は

蘇我馬子の子であり大化の頃の蘇我氏当主である蘇我蝦夷は、自らの邸宅を大王の宮殿を見下ろす高台に建設し宮上の門(ミカド)と配下の者に呼ばせ、子の入鹿を朝廷に無断で大臣に任命し皇子(ミコ)と呼んでいました。大王の位を奪う考えがあったかはさておき、名実ともに大王が二人いるような状態であったのです。

蘇我氏の排除 乙巳の変

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仏教受容論争で蘇我氏と対立していた連であり、代々神官職であった中臣氏の出身であった中臣鎌足は、蘇我氏の横暴を憎み、その打倒を画策していました。同じ考えを持つ者として、当時の大王である女帝・皇極天皇の子である中大兄皇子に近づき、蘇我氏一族の蘇我倉山田石川麻呂、佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田などの豪族の同志を募り、蘇我氏の排除を計画。西暦645年、飛鳥の宮廷において、当時蘇我氏の権力者であった蘇我入鹿の暗殺するに至りました。入鹿の父親で当主であった蝦夷も、自らの配下である渡来人達に見限られ、入鹿暗殺の翌日に自らの屋敷に火を放ち自害し、蘇我氏は滅ぶことになります。

この出来事は、乙巳の変と呼ばれており、ヤマト朝廷の軍事・経済の両面を押さえていた蘇我氏が消え去ることにより、権力構造に大きな変革が起きた事件でした。

権力の空白が生んだチャンス

前代の舒明天皇の姪であり妻であった女帝・皇極天皇は、皇位を弟の軽皇子に譲り、軽皇子は孝徳天皇として即位しました。蘇我氏排除の功労者である中大兄皇子を皇太子、中臣鎌足を参謀の役割である内臣とし、権臣であった蘇我氏亡き後、彼ら大王家主導で様々な政治改革を進めていくことになります。

改新の詔

乙巳の変後、ヤマト朝廷における政治の実権を大王の元に取り戻した孝徳天皇は、群臣を集めて大化と号し、国博士・内臣・左右大臣の新設、難波宮への遷都の決定等の様々な改革を進め、新政権の方針をまとめた4か条の改新の詔を発布しました。その内容はおよそ以下の通りです。

・従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
・初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
・初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
・旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。

ここで述べられているのは、これまでの土地・人民の支配体制を廃止し、土地と人民を朝廷の公有財産とすること(公地公民)、全国を国や郡などの行政区分を定めて朝廷から官吏を派遣し、出先機関である役所等の行政組織を立ち上げること、戸籍を把握し土地を国から民衆に直接授与すること(班田収授)、田からの収穫を中心とした税制に革めること(租庸調の租)、になります。

大化の改新 律令国家の成立

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大化の年間に改新の詔をはじめとして進められた一連の改革を指して、大化の改新と呼んでいます。改新の詔の内容と大枠は同じですが、例えば以下のような政策が進められました。

・土地を公地、人民を公民として国有し(公地公民)、民衆を階層化して田畑(口分田など)を与えました(班田収授)。
・全国を七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分け、令制国(山城国・武蔵国など)や郡・里ごとに行政区分を設置し、朝廷から官吏(国司)を派遣し、現地豪族を役人(郡司など。後の国衙の役人たち)として組み入れました。
・戸籍を調査し、軍団や防人の選出、租税の課税対象を把握し、(田の収穫物)・(都での労役もしくは布米塩で代替)・調(絹もしくは各地の特産品で代替)の税区分を設けて、地方の役人を介して都へ直接納付させました。

また、政治改革の根拠として、新しい朝廷の仕組みを文書として残した法律が制定されました。これらの法律は律令と呼ばれ、律令を前提とした国家体制は律令国家、と呼ばれます。

は現在の刑法に、は行政法(民法等含む)に該当するものです。手本となったのは隋唐の律令制度であり、これらを学んだ遣隋使・遣唐使達が律令体制の整備を進めました。

途中、唐との対外戦争や皇位継承を巡る内乱による中断はあったものの、中大兄皇子の弟である大海人皇子(後の天武天皇)や、その妻かつ中大兄皇子の娘である持統天皇に引き継がれ、西暦689年の飛鳥浄御原令(令部分のみ)、西暦701年の大宝律令(令を日本風に改良し、律を加えたもの)が公布されて根拠法が出来ることにより、改革は完遂されることとなりました。

ヤマト朝廷から日本国へ

ヤマト朝廷の改革は、聖徳太子の冠位十二階の制定から大宝律令の制定まで、およそ100年の長きにわたりました。

飛鳥浄御原令を制定した天武天皇の頃から、大王ではなく天皇、倭ではなく日本という呼称に正式に変わったと言われています。またこの頃に、日本の国としての歴史書である日本書紀古事記の編纂も着手されました。有力な豪族の連合体であったヤマト朝廷は、天皇を中心とした日本という主権国家、律令を基盤とした法治国家である律令国家に変貌を遂げることになったのです。「大化」の意味に込められたのは、日本列島各地の主権者であった豪族たちを、天皇となった大王が導いていく、ということだったのではないか、と考えています。

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