平安時代の日本において、天皇中心の律令国家体制の綻びを立て直し、有力貴族・藤原氏による朝廷の権力掌握の流れを断ち切ることに成功したのが後三条天皇です。

今回は後三条天皇が登場した背景と事績について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は平安時代の名君、後三条天皇をわかりやすくまとめた。

上皇と院政の由来

平成29年6月9日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立し、平成31年5月1日より明仁天皇が光格上皇以来およそ200年ぶりの上皇となられました。上皇は現在では政治に関与する権限はありませんが、皇位を譲位して上皇となり、新天皇に対する父権をもって天皇親政を継続し、政治を安定させることは平安時代の皇室における一つの知恵でした。

これを歴史用語では「院政」と呼んでいますが、その始まりとして有名なのは、西暦1073年に第72代天皇として即位し西暦1086年に譲位した白河上皇ですね。しかし、その白河上皇の父親で、院政への移行期を繋ぎ様々な改革を成し遂げたのが、第71代後三条天皇です。

平安時代の日本

後三条天皇の生まれた当時の日本。古代の大改革である大化の改新から300年の時が経過していましたが、どのような状況だったのでしょうか。

公地公民制の行き詰まり

大化の改新で一番重要だったのは、全ての土地と人民を国家のものとする「公地公民制」でしたね。国は全ての土地を国有化して、耕作地を民に貸し出すことを前提としていましたが、農業生産力の向上と人口の増加に伴い、改革からわずか100年足らずで、貸し出すことの出来る新規の耕作地が不足する事態に。

対策として、新規の開墾地を増やすインセンティブを与える施策である、三世一身の法(開墾者から3代は私有地として認める)や墾田永年私財法(開墾地は永久に私有地と出来る)が制定されたのですが、土地の私有を認めることは全ての土地の公有化を掲げた公地公民制の原則を真っ向から否定するものでした。

私有地「荘園」の始まり

image by iStockphoto

新規の開墾地で生産される農産物は国の税収に入ってきません。それどころか自分の財産となるのです。

そのため、有力貴族などは人を雇い、自分たちの財産として積極的に開墾を進めました。それだけならまだしも、平安時代中期以降では、地方の開墾者から有力貴族・有力寺社へ寄進されるケースも。

朝廷から各地の令制国に派遣された国司の不正や癒着などにより、以下のような特権が付けられた私有地も出てきました。

不輸の権  
    本来課されるべき租税が免除される権利

不入の権 
    不正が無いかどうか、役人が立ち入って調べることも出来なくする権利

これら有力貴族・有力寺社の私有財産である土地のことを「荘園」と呼びますが、これらの存在は有力貴族たちの経済力を高めたものの、逆に公地からの収入に依存する朝廷の財政を圧迫することになりました。

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権臣ふたたび

荘園の拡大により朝廷の経済力は抑えられていましたが、朝廷の中枢である宮廷においても主権者である天皇の政治力は抑えられていました。平安時代中期に、政治の実権を握っていたのは藤原氏でした。

中臣鎌足=藤原鎌足

中大兄皇子らを支えて権臣・蘇我氏を排除し、大化の改新を進めた功労者は、中臣鎌足ですね。中臣鎌足は死に臨んで中大兄皇子(天智天皇)からそれまでの功労に報いる意味で、新たに「藤原」の姓を与えられました。鎌足の子である藤原不比等も天皇家をよく支えたのですが、その子から4つの家系に分かれます。

藤原氏の栄達は藤原北家から

不比等から分かれた4つの家系のうちの1つ、藤原北家が平安時代を通して最も栄えることになります。9世紀に藤原北家より出た藤原良房が、西暦866年に第56代清和天皇の外祖父として、天皇家以外の臣下の中では初めて摂政に就任。以来、代々の天皇と婚姻関係を継続することにより、藤原氏が摂政・関白の地位や上位の高官職を独占していくこととなりました。

摂政・関白は天皇並みの権力を持っていた

ところで、聖徳太子は推古天皇の摂政でしたね。摂政・関白はもともと、天皇家出身の者しか任官されない、律令で定めていない官職でした。それが、平安時代中期には常時設置されるようになります。
摂政・関白の執り行う政務の範囲は広く、天皇の発する詔の代筆や諸行事の代行を行う他、朝廷内の人事権の掌握にまで至っていました。要は、天皇に代わって重要な政務を行う臨時官・代理人なのです。

血縁関係による権力掌握の仕組み「摂関政治」

藤原氏は、天皇家との姻戚関係を継続することで権力の維持を行いました。すなわち、自分の娘を天皇家に嫁がせ、男の子が生まれれば皇太子・ゆくゆくは天皇とし、自分は新天皇の祖父・外戚として、母系の親権を通して権力を持つ、というもの。

対外的な役職の呼称は、天皇が未成年もしくは女性の時には摂政青年してからは関白でした。このような藤原氏の権力掌握のスタイルを、摂政・関白から1文字ずつ取って「摂関政治」と呼びます。

藤原氏の思惑通りとするための権力闘争

藤原氏により擁立される天皇は、自分たちと血の繋がりの近い・未成年の皇子が好まれました。そのために、そうではない他の皇位継承者やその後ろ盾となる他の貴族たちを、謀略でもって追い落としていきます。

10世紀の藤原北家当主・藤原兼家の時代までにほぼ権力掌握は完了していました。しかし今となっては正確には分からないかもしれませんが、果たして藤原氏は権力確保のためだけに動いていたのでしょうか。

藤原兼家の子・道長が藤原氏の全盛期を作り出す

Fujiwara Michinaga.jpg
By Kikuchi Yōsai (1781 - 1878) - Wise Personages Past and Present containing portraits of more than five hundred loyalists, royal retainers and heroic women in history. (1868). [1] This image can also be found in The Japan Times article "The long road to identity" by Michael Hoffman, Sunday, Oct. 11, 2009., パブリック・ドメイン, Link

藤原家の摂関政治において最も栄えたのは、藤原兼家の子である五男・藤原道長の時代です。権力闘争に成功した父や兄の後を継ぎ、藤原北家の権力を一手に引き継ぐことになります。

道長は、長女・彰子を一条天皇の后、次女・妍子を第67代三条天皇の后、三女・威子を第68代後一条天皇の后として嫁がせ、一条天皇が即位した西暦986年から自らが病死する西暦1028年までのおよそ40年間にわたり、外戚として権力を保持し続けました。

変化の兆し

後に後三条天皇となる尊仁親王。藤原道長の死の6年後の西暦1034年、摂関政治全盛期のさなか、第69代後朱雀天皇と、藤原氏との血縁関係の薄い・三条天皇第三皇女・禎子内親王との間に生まれました。父の即位に伴い西暦1036年に2歳で親王に、兄である第70代後冷泉天皇の即位により12歳で皇太弟となり、34歳で天皇に即位することになります。

藤原氏を母として持たない後三条天皇(尊仁親王)が即位に至れたのはなぜなのでしょうか。

\次のページで「即位に至るまで」を解説!/

即位に至るまで

後朱雀天皇には2人の皇子がいました。

・親仁親王 (第一皇子・後の後冷泉天皇) 母は藤原道長の娘・嬉子

・尊仁親王 (第二皇子・後の後三条天皇) 母は三条天皇の娘・禎子内親王。

禎子内親王の母は、藤原道長の長女・妍子。つまり、尊仁親王の祖母は、道長の娘でありました。しかし、藤原氏からしてみれば遠い存在。一方の親仁親王の母・藤原嬉子は、道長の嫡男で当時の関白・藤原頼通の養子として入内しており、安和の変でも述べたように、血縁の近さからも親仁親王の血筋が次代の天皇家となることが既定路線でした。

ところが、この流れを変えようとした変わり者が、藤原摂関家の中から現れます。藤原道長の四男であり、時の関白・頼通の異母弟である藤原能信です。

藤原摂関家の異端児・藤原能信

藤原能信は、頼通やその弟・教通とは異母兄弟の間柄でした。能信の母は、藤原氏の権力闘争の過程・安和の変で宮廷から追われた源高明の娘だったのです。

頼通や教通とは官位の昇進で明確に差を付けられていた能信。血筋によりすべてが決まる世の中、同じ異母弟の立場にあった尊仁親王の境遇に共感を覚えていたのでしょう。親仁親王に肩入れする頼通らとは一線を引き、尊仁親王へオールインすることになります。

異母弟の尽力 その1 皇位継承権を得る

その手始めは、尊仁親王に皇位継承資格を与えたことでした。

後朱雀天皇は臨終に際して、尊仁親王を兄・親仁親王(後冷泉天皇)の皇太弟にと考えたものの、摂関家と関係の深くない天皇が出現することを恐れた頼通らの反対にあって非常に悩んでいました。しかし、その弟の能信が天皇の考えを押し通すよう強力に直訴したことにより、その意見が容れられて、西暦1045年、12歳で晴れて東宮・皇太弟となります。

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異母弟の尽力 その2 自分の娘を嫁がせる

東宮となった尊仁親王ですが、先のない東宮と見えていたのか、誰も娘を嫁がせようとしませんでした。しかし、やはり能信は変わっていました。
能信は、自らの養女である藤原茂子を尊仁親王に嫁がせました。尊仁親王と茂子の間には、貞仁親王(後の白河天皇)など次々と子が生まれます。

尊仁親王の東宮立太子を阻止できなかった藤原頼通は、逆に、その兄である後冷泉天皇に次々と自分の娘たちを送り込みました。後冷泉天皇と自分の娘の間に皇子が出来れば、尊仁親王から東宮位を取り上げることが出来るという計算です。

藤原頼通は政治的に敗北

しかし、運は頼通に味方しませんでした。後冷泉天皇は皇子をなすことなく崩御します。崩御に際して、それ以降に朝廷内で外戚としての権力を維持することが難しいと悟った藤原頼通は、老齢を理由に隠居。

西暦1068年、尊仁親王は第71代後三条天皇として即位。藤原摂関家に気兼ねすることなく、様々な改革を進めていくことになります。

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後三条天皇の即位

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By Published by 三英舎 (San'ei-sha) - "御歴代百廿一天皇御尊影", パブリック・ドメイン, Link

西暦1068年、尊仁親王は第71代後三条天皇として即位。藤原摂関家を外戚に持たない久しぶりの天皇でした。後三条天皇は、平安時代初期に天皇がリーダーシップをもって政治を行った桓武天皇を意識して、様々な政治改革を進めました。

有能な人材の登用

藤原頼通の弟である教通を関白として、それまでの権力者であった藤原摂関家に配慮しつつも、即位の功労者である能信の子・能長、源師房や大江匡房らの摂関家以外の有能な人材を登用。特に大江匡房は、天皇の学問の師匠となる侍読として仕えた学者で、後三条天皇の子である白河天皇の時代まで、院政に対して様々な政策助言を行うブレーンとして活躍しました。この大江匡房、どのくらい優秀だったのでしょうか。

文章得業生。藤原氏などの貴族子弟が学ぶ教育機関・大学寮の中で、中国の詩文や歴史を専攻する学部・紀伝道の中でも特に成績優秀な者2名を選抜し、最難関の官吏登用試験の受験資格を与えたものです。これに16歳で推薦されています。また、3年に1名の割合でしか合格者を出さない官僚登用試験・方略試にも18歳で合格したのでした。

物価安定策

経済政策としては、物価安定のために以下の2つの政策を行いました。

一つは估価法(こかほう)の制定であり、貨幣やモノ同士(米や絹など)の交換の際の、公的な交換レートを制定したものになります。現在で言うと、為替レートに近いかもしれません。

また、農産物や商品の多さを計るための枡の大きさで公的な基準を定めました。これにより、地方ごとに異なっていた枡の大きさに一つの統一された国内基準が出来ることになりました。特に後三条天皇が定めた、この公的な枡のことを延久の宣旨枡、と呼んでいます。

延久蝦夷合戦

外征も行いました。

桓武天皇の時代に行われつつも未完であった蝦夷制圧の完遂を目指し、西暦1070年に陸奥守源頼俊及び清原貞衡に蝦夷平定を命じました。この結果、本州北端の津軽地方及び下北半島まで、本州全土が日本の領域に加わります。

延久の荘園整理令

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律令制度における根幹である公地公民制を蝕んでいた私有地・荘園に対しても規制を掛けます。

違法荘園が多くて政務が滞っているという地方からの告発を受け、西暦1069年に延久の荘園整理令を公布。成立の由来が明確で、行政上有害でない荘園は整理の対象外としつつも、新規で荘園を作ることや寄進を禁止しました。

また違法な荘園かどうかを審査・監督する実務を行う行政機関として、記録荘園券契所を京都に設置。地方の国司が荘園領主と癒着・結託して本来規制されるべき荘園を見逃すことがないよう、中央政府の専門機関で公正に判断することとしました。

皇位継承

藤原摂関家の影響力排除を、自らの一代限りとしないよう、皇位継承についても対策を立てました。

後三条天皇は即位後4年目に、藤原能信の養女を母に持つ第一皇子貞仁親王(後の白河天皇)に譲位。その譲位の際、自らは上皇として新天皇を後見しつつ政務をとり、貞仁天皇の異母弟であり貞仁親王よりさらに藤原氏との血縁関係の薄い実仁親王を皇太弟として、皇位を継がせる考えを持っていたと言われています。

ただし、譲位の翌年に病気のため崩御してしまったため、後三条上皇による院政の実現は幻となりました。院政は、子の貞仁親王が白河上皇として本格的に開始し、藤原氏による摂関政治の終焉をもたらすことになります。

後三条天皇は平安時代中興の名君

長い不遇な東宮時代を過ごした後、働き盛りで天皇となった後三条天皇。即位から崩御までのわずか5年の間に、辣腕をふるい、様々な改革を立て続けに行いました。藤原摂関家の摂政・関白は、あくまで天皇の代理人。律令政治の歪み・緩みを快刀乱麻に糺すのは、代理人ではリーダーシップを発揮しにくかったのではないでしょうか。だから、擁立する天皇を自らの意のままにしやすい、血縁の近い未成年の天皇を望んだのでしょうね。

後三条天皇が次代の白河天皇に繋げた天皇復権の流れは院政へと繋がります。藤原氏のような外戚が母系の親権をもって政治を主導するのとは違い、皇族の成人した家長である前天皇が、父系の親権をもって年若い新天皇を補佐する流れ。これが院政です。院政への移行は、母系の親権を軸とした摂関政治のさらなる退潮をもたらすこととなりました。院政は父系による復権の過程で生まれたもの、と言えるのではないでしょうか。

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平安時代の名君「後三条天皇」を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!背景と事績を考えてみる

平安時代の日本において、天皇中心の律令国家体制の綻びを立て直し、有力貴族・藤原氏による朝廷の権力掌握の流れを断ち切ることに成功したのが後三条天皇です。

今回は後三条天皇が登場した背景と事績について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は平安時代の名君、後三条天皇をわかりやすくまとめた。

上皇と院政の由来

平成29年6月9日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立し、平成31年5月1日より明仁天皇が光格上皇以来およそ200年ぶりの上皇となられました。上皇は現在では政治に関与する権限はありませんが、皇位を譲位して上皇となり、新天皇に対する父権をもって天皇親政を継続し、政治を安定させることは平安時代の皇室における一つの知恵でした。

これを歴史用語では「院政」と呼んでいますが、その始まりとして有名なのは、西暦1073年に第72代天皇として即位し西暦1086年に譲位した白河上皇ですね。しかし、その白河上皇の父親で、院政への移行期を繋ぎ様々な改革を成し遂げたのが、第71代後三条天皇です。

平安時代の日本

後三条天皇の生まれた当時の日本。古代の大改革である大化の改新から300年の時が経過していましたが、どのような状況だったのでしょうか。

公地公民制の行き詰まり

大化の改新で一番重要だったのは、全ての土地と人民を国家のものとする「公地公民制」でしたね。国は全ての土地を国有化して、耕作地を民に貸し出すことを前提としていましたが、農業生産力の向上と人口の増加に伴い、改革からわずか100年足らずで、貸し出すことの出来る新規の耕作地が不足する事態に。

対策として、新規の開墾地を増やすインセンティブを与える施策である、三世一身の法(開墾者から3代は私有地として認める)や墾田永年私財法(開墾地は永久に私有地と出来る)が制定されたのですが、土地の私有を認めることは全ての土地の公有化を掲げた公地公民制の原則を真っ向から否定するものでした。

私有地「荘園」の始まり

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新規の開墾地で生産される農産物は国の税収に入ってきません。それどころか自分の財産となるのです。

そのため、有力貴族などは人を雇い、自分たちの財産として積極的に開墾を進めました。それだけならまだしも、平安時代中期以降では、地方の開墾者から有力貴族・有力寺社へ寄進されるケースも。

朝廷から各地の令制国に派遣された国司の不正や癒着などにより、以下のような特権が付けられた私有地も出てきました。

不輸の権  
    本来課されるべき租税が免除される権利

不入の権 
    不正が無いかどうか、役人が立ち入って調べることも出来なくする権利

これら有力貴族・有力寺社の私有財産である土地のことを「荘園」と呼びますが、これらの存在は有力貴族たちの経済力を高めたものの、逆に公地からの収入に依存する朝廷の財政を圧迫することになりました。

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