信長のデスマスクが存在していた
本能寺で焼死したと言われている織田信長。光秀が信長の遺体をさがしますが、見つかりませんでした。そして、信長の首を弥助が持ち出しデスマスクを作らせたと言う衝撃的なニュースがあるようです。そもそもデスマスクとはどのようなものなのでしょうか。
デスマスクは死者の顔を石膏や蝋(ろう)で形どったもの。日本ではあまり知られていませんが、西洋では主流だったとか。故人を偲び作ることが多かったようです。
そもそも戦国の世に、デスマスクを作れた人物がいたのでしょうか。そして、このデスマスクを作るように命令したのが信長本人だったと言われているのです。確かに西洋技術などの異国文化に興味があった信長ですから、デスマスクの存在を知っていたのかもしれませんが、謎が多いのも事実ですね。
織田信成さんの顔と一致したデスマスク
気になる信長のデスマスクを持っていると言う方が存在していました。愛知県に在住している西山さんは、信長の孫である織田秀信の直系で43代目にあたり、信長のデスマスクは、先祖から代々受け継がれたものだそうです。秀信と聞いてもあまりピンとこないかもしれませんが、秀信の幼名は「三法師」。三法師と言えば、清洲会議で羽柴秀吉が信長の後見人に推薦したあの三法師です。
その西山さんが持っているデスマスクと、プロフィギュアスケーターの織田信成さんの顔の位置が全て一致したんだとか。織田さんと言えば、信長の子孫として有名ですし、中々興味深い話しですよね。このデスマスク、愛知県の「西山自然歴史博物館」に保管されているそうですよ。
奴隷人性から織田信長に救われた弥助
モザンビークから奴隷として遠い日本にやってきた弥助。当時の日本人から見れば黒くて大きな弥助は、まさに怪物のようにうつったのかもしれません。好奇心旺盛な信長に見染められ、差別なく家臣にまで出世したのですから、奴隷として生きてきた弥助にとって信長は「神」のような存在だったのでしょうか。
冷酷なイメージがある信長ですが、家臣思いだったとも言われています。信長を失った弥助の悲しみはきっと計り知れないものだったでしょう。逃げる事もできた弥助が、信忠の援護に向かい最後まで戦ったことは、信長に対する忠義の心だったのかもしれません。
弥助は海外でも人気があり、日本の黒人武士として注目されているようです。ラストサムライのような戦国時代の映画を是非もう一度観たいものですね。
そして弥助が作ったとされる信長のデスマスク。ミステリーな部分も多いですが、中々興味深い話しでありました。信長が本能寺の変で討たれていなかったら、弥助が信長とどんな風に関わっていくのか、その先をもう少し見てみたかったです。