本能寺の変で弥助の運命が変わる
天正10年(1582年)明智光秀が織田信長に謀反を起こしました。これが有名な本能寺の変です。信長の家臣たちは、色々な場所で戦いの真っ最中。そして「信長死す」の一報を聞き、光秀討伐のため京に向け進軍します。この時、弥助は信長と本能寺に滞在中でした。信長が討たれたことにより、弥助の運命も大きく変わってしまいます。
主君・織田信長が討死
本能寺の変と言えば、明智光秀vs織田信長。歴史に興味がなくても必ず聞いた事があるでしょう。本能寺の変が起きた背景には、色々な説が存在しており、長年の信長からの罵倒に対する恨み、黒幕説、信長の敵である大名に協力を要請していた等々。信長は羽柴秀吉の毛利攻めの援軍に向かうため、京都の本能寺に宿を取っていました。この時の供の家臣は少数。その中の一人として弥助も帯同しています。
光秀は信長により、秀吉の援軍を下知(げち)されますが、その下知に従わず「敵は本能寺にあり」と信長討伐に向かいました。こうして、光秀により本能寺を襲撃された信長は自刃。信長が舞った人間50年…の敦盛。50年には届かず、享年49歳でありました。
そして、本能寺の変の前に詠まれた、愛宕百韻(あたごひゃくいん)と呼ばれる光秀の連歌。「ときは今 あめが下しる 五月かな」この連歌が、信長の暗殺を願うものだと言われています。
織田信長の家臣として勇敢に戦う
本能寺の変で信長を始め、嫡男の織田信忠・森蘭丸兄弟・村井貞勝・斎藤利治など優秀な家臣が討死してしまいます。弥助も大きくて力持ちだったことから、信長のボディガード的な役割をしていたのかもしれませんね。多勢に無勢で応戦も虚しく、寺に火を放ち自害した信長。弥助は信忠を援護するため、二条城に向かいます。
しかし信忠は父、信長の死を知ると自らも自害。弥助も刀で応戦しますが、戦い及ばず降伏します。主君を失った弥助は、光秀の家臣に捕らえられてしまいました。弥助の処罰を問われた光秀は、「動物で何も知らず、日本人ではないので殺さなくてよい」と弥助を南蛮寺に送ります。これは個人的な憶測ではありますが、信長の家臣同士であった二人ですので、光秀が弥助を殺さなかったとは考えられないでしょうか。ともあれ、命は助かった弥助でしたが奴隷だった自分を差別することなく、家臣として取り立ててくれた信長の死をどう受け止めていたのでしょうね。
沖田畷の戦いに参加?それとも故郷に帰国した説
By 不明 – 台雲寺所蔵, CC 表示-継承 4.0, Link
南蛮寺に送られた後の弥助の消息は分かっていません。容姿からして、どこにいても目立つ存在であったと思われますが、いくつかの諸説はあるようです。来日したヴァリニャーノは信長に謁見する前、肥前(佐賀県)の日野江藩主でキリシタン大名でもあった、有馬晴信にも謁見していました。
そして面識のあった晴信を頼り、家臣になったのではないかと言われています。晴信と肥前の熊こと、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が争った、沖田畷(おきたなわて)の戦い。この戦いで、ルイス・フロイスの「日本史」の中に、有馬軍の兵士で大砲を使って活躍した黒人がいたと記載されているそうです。
当時は弥助以外にも多くの黒人がいたので、この人物を弥助と断定することは難しいですが、何らかの形でどこかの戦いに加わっていたのかもしれませんんね。
もう一つは、弥助がモザンビークに帰国したのでは?と言う説です。弥助の出身地であるモザンビークには、日本の着物に似た「キマウ」と言う衣装があり、もしかすると弥助が帰国して、日本の着物を持ち帰り広めていたなんて可能性も否定できません。どちらの説も根拠はありませんが、何処かの地で元気に活躍していたことを願いたいものです。
織田信長のデスマスクに弥助が関与していた
本能寺の変で明智光秀に討たれた織田信長。しかし信長の亡骸は見つかっていません。そして信長のデスマスクが存在していると言う話しを耳にしました。しかもそのデスマスクを作らせたのが弥助だったと言うから驚きです。そこで、弥助とデスマスクの関係について調べてみました。
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