それでは戦国武将好きのライター、すのうと一緒に弥助について勉強していこう。
ライター/すのう
大河ドラマ大好き!特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。今回の弥助みたいな例外武将はまさにストライクのすのうが、わかりやすく「弥助」について解説していく。
弥助は遠い異国からやって来た黒人武士
遠い異国の地、アフリカのモザンビーク。ポルトガルの植民地であったモザンビークで、奴隷としてインドに送られていた黒人がいました。その人物が後の弥助です。イタリア人宣教師ヴァリニャーノは、来日した際に連れてきた弥助を織田信長に引き合わせます。当時信長は、天下統一を果たそうと着々と力をつけていました。こうして信長に気に入られた弥助は、家臣として召し抱えられます。
当時の日本で黒人は珍しく、弥助を見ようと京の町はやじうまで行列ができるほどでした。奴隷から武士として異例な出世を果たした弥助。彼の人生はどのようなものだったのでしょうか。さっそく学習していきましょう。
京都に弥助がやって来た
By 不明 – English wikipedia, パブリック・ドメイン, Link
天正9年(1581年)イタリア人の宣教師ヴァリニャーノが来日しました。その時連れていたのが、アフリカモザンビーク出身の弥助です。モザンビークがポルトガルの植民地であったことから、おそらく弥助は奴隷だったのではないかと思われます。南蛮寺に預けられた弥助を一目見ようと、京の町は大騒ぎ。異人が珍しいこの時代に、「黒人の大男がやって来た」と南蛮寺に大勢の見物人が詰めかけました。
この騒動で寺が壊され、ケガ人が出たりなどの被害も相次ぎます。弥助の身長は6尺2分、現代の身長にすると182センチほどあり、年齢は26〜27歳くらい。当時の日本人男性の平均身長が160センチくらいと言われています。もちろん高身長な武将もいましたが、黒くて大きい弥助は、まさに巨人に見えたのかもしれませんね。
織田信長の家臣となった弥助
織田信長の耳にも当然弥助の噂は届いていたでしょう。信長と言えば高級茶器を集めるのが趣味であったり、新しい物や異国の文化に注目するなど好奇心旺盛な人物でした。どんな手を使ってでも欲しいものは手に入れる、まさにそんな感じですよね。ヴァリニャーノと謁見した信長は、連れていた黒人を見て興味津々。「その黒い肌は墨を塗っているのか?」そして弥助の肌を磨かせますが…地黒なので白くなるはずがありません。
それどころか逆にピカピカになり、黒い肌がますます目立ってしまいます。弥助の黒い肌が本物だと分かった信長は、ヴァリニャーノに交渉し弥助を譲り受けました。こうして信長より弥助と命名され、家臣に取り立てられます。弥助は片言の日本語を話すことができました。力持ちで真黒な肌、しかも話も出来るとあれば信長が欲しくなるのも分かる気がしますよね。
信長は弥助を城主にしようとしていた
信長の家臣となった弥助。名前の由来は弥助の本名が「ヤスフェ」だった事で、ニュアンス的に弥助になったのではないかと言われています。奴隷生活を送っていた弥助にとって、衣食住に困らない生活は、快適だったことでしょう。信長は弥助に腰刀を与え、住む場所も与えました。森蘭丸と同じ小性のような役割をさせていたようです。後々は、城主にしようとまで考えていたとか。武田家を滅ぼした甲州征伐での帰還途中、徳川家康の家臣である松平家忠日記に、「信長には弥助と言う黒人の家来がいる」と記されているそうです。大きくて肌の黒い弥助は、さぞかし目立つ存在だったでしょうね。当時の信長は「天下布武」を掲げ、天下統一まで後一歩のところまできていました。その夢を叶えるためには、多くの優秀な家臣が必要だったのでしょう。
弥助は、「十人力の剛力、牛のように黒き身体」と称されるほど怪力の持ち主だったそうですよ。信長が大好きな相撲の大会を開いていたことは有名です。身分を問わず、上位の者には褒美を取らせ家臣に取り立てたんだとか。もしかしたら弥助も参加していたかもしれませんね。
新しいものには目がない信長でしたから、それが人間であったなら、尚更惹かれたのかもしれません。
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