小倉口の戦い
こうして第二次長州征伐が開始、幕府は関門海峡の近くとなる小倉口、瀬戸内海にある大島口、広島と接する芸州口、島根と接する石州口の4つの場所から攻め入る作戦をとりました。第二次長州征伐は四境戦争とも呼ばれていますが、それはこうして4つの場所から攻めて戦いになったことが理由になっています。
小倉口の戦いで戦ったのは、長州藩が誇る高杉晋作率いる奇兵隊です。最も、奇兵隊は長州藩の精鋭部隊のイメージですが、実際には農民や商人などもメンバーに含まれています。ただ団結力が非常に強く、そのため戦いで大きな力を発揮する強力な部隊でした。
一方の幕府も強力な海軍力を持っていましたが指揮官の能力は決して高くなく、渡海侵攻を躊躇している間にたちまち長州藩に戦いの主導権を握られて敗北してしまいます。それどころか、幕府の拠点である小倉城まで奪われるという失態をおかす有様でした。
石州口の戦い、大島口の戦い、芸州口の戦い
石州口の戦いでは長州藩・大村益次郎の軍が幕府軍を迎え撃ちます。この戦いの勝敗を決めたのは武器の性能の差でしょう。最新武器を手にする長州藩に対して幕府軍の武器は性能が低く、鉄砲の射程距離の差に気づいた大村益次郎の軍が終始戦況を有利に展開して勝利、ここでも幕府は敗北しました。
一方、大島口の戦いでは幕府軍が優勢となります。奇襲を仕掛けた幕府軍に対応できなかった長州藩は陣地を奪い取られてしまったのです。しかしここで高杉晋作が活躍、当時所持していた長州藩の軍艦・丙寅丸で夜襲を仕掛けると、幕府軍は一気に混乱に陥ってここでも敗北、長州藩は形勢逆転の勝利をおさめました。
最後に芸州口の戦いですが、これはもう幕府にとって勝負にならない戦いでした。元々ここは広島藩などの大名が担当する場所でしたが、当の広島藩は軍を出そうとせず、そのため幕府軍は長州藩に一網打尽にされてしまったのです。こうして四境戦争で完敗した幕府……すなわちそれは第二次長州征伐の完敗を意味するのでした。
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終戦、そして流れは倒幕へ
第二次長州征伐で戦況が思わしくない幕府にとって最大の痛手となったのは、将軍・徳川家茂が病気によって死去してしまったことでしょう。敗北濃厚の戦況の中での将軍の死去、当然幕府は大混乱となって長州藩に対して終戦を申し出ました。
こうして第二次長州征伐は講和という形で戦いが終わるものの、あくまでそれは形式的なものであり、武力の差で幕府が圧倒されたことは誰の目から見ても明らかです。雄藩とは言え、一藩に幕府が敗北した事実はたちまち日本中に広まり、既に幕府が張り子の虎状態であることを示す結果となりました。
倒幕ムードが漂うとは言え、倒幕派からすれば相手は幕府、例え信頼は失っても武力においては幕府の力は脅威に思っていたかもしれません。しかし第二次長州征伐によって幕府は武力の低下も示してしまい、そのためこれをきっかけとして日本では倒幕ムードが一気に加速していったのでした。
八月十八日の政変、禁門の変、薩長同盟を覚えて完璧!
第二次長州征伐はそれ自体覚えるのは難しくありませんが、そこに関連した出来事は覚えることが多くあります。そこでまとめると、まず長州藩が処分されるきっかけとなった八月十八日の政変と禁門の変を覚えましょう。
そして長州征伐が始まるのですが、第二次長州征伐での長州藩の勝因である薩長同盟も覚えておいてください。つまり八月十八日の政変、禁門の変、薩長同盟、これらを覚えれば第二次長州征伐を含めた長州征伐を確実に把握できます。