この長州征伐は幕末の歴史を学ぶことにおいて大変重要で、倒幕に至った流れの中でも欠かせない事件なのです。そこで、今回は第二次長州征伐について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から第二次長州征伐をわかりやすくまとめた。
過激な攘夷思想を掲げる長州藩
長州征伐では幕府が長州藩を処分するため兵を送っていますが、ここで重要なのは「処分」のキーワードであり、つまり長州藩はそれだけ大きな問題を起こしたことが推測できますね。それはなぜなのか?……そこで、ひとまず幕府が長州征伐に至った経緯を考えていきましょう。
当時日本では尊王攘夷の思想が広まっており、外国を打ち払おうとする攘夷運動が活発になっていました。そこまで外国が嫌われた最大の要因は1858年の日米修好通商条約の締結で、不平等条約を結ばせた外国に対して日本は嫌悪感を抱いていたのです。
ただ、思想や運動は広まってもそこまで攘夷に積極的な藩は少なく、それは幕府も含めて日本は外国の軍事力の高さを知っていたからでしょう。しかしそれを全く怖れなかったのが長州藩、勢力の強い雄藩でもある長州藩は攘夷に積極的で、同じ攘夷論を思想とする孝明天皇も手を焼くほどでした。
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八月十八日の政変による長州藩の京都追放
幕府の将軍・徳川家茂が攘夷決行を約束したその日、参加したのは長州藩のみであり、他の藩や幕府は不参加でした。一方、攘夷決行の時を待ち望んだ長州藩はアメリカ商船を砲撃するなど、恐れることなく次々と外国船を砲撃して攘夷を行います。
さらに長州藩はクーデターとして孝明天皇による攘夷親征の大和行幸を計画しますが、これを阻止するための公武合体派によるカウンタークーデターを逆に受けてしまったのです。これが1863年の八月十八日の政変であり、この事件によって長州藩は京都を追い出されてしまいました。
京都を追放されたことで長州藩は政治的主導権を失います。そこで、一部の過激な長州藩の尊王攘夷派は京都に潜伏、孝明天皇の誘拐計画など、今一度長州藩に輝きを取り戻すための策を企てていました。1864年、長州藩の尊王攘夷派は計画を相談するため旅館・池田屋にて密会、それを発見して討伐したのが新選組であり、これを池田屋事件と呼びます。
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禁門の変で朝敵となった長州藩
京都を追い出された長州藩では、無実を訴えるため武力行使すべきという意見が挙がっていました。一方で、ここで武力行使すれば朝敵(天皇の敵)となってしまう恐れがあるため、慎重に行動すべきという意見もあったのです。そんな時に起こったのが池田屋事件であり、藩の仲間の尊王攘夷派が殺害されたことに長州藩は怒ります。
池田屋事件を知って怒った長州藩は武力行使を決意、京都追放の処分に対する無実を訴えるために京都へと挙兵しました。これに対して朝廷は退去を命じるものの長州藩は一歩も退かず、緊迫した状況の中、ついには挙兵した長州藩と京都を守る会津藩との間で戦闘が起こったのです。これが1864年の禁門の変の始まりでした。
戦いの中、薩摩藩も会津藩らに加勢、追い込まれた長州藩は敗北しますが、ここで長州藩にとって最大の失敗だったのは京都御所を砲撃してしまったことでしょう。戦いに敗北しただけでなく、朝廷を攻撃した理由から長州藩は天皇の敵……すなわち朝敵とみなされてしまったのです。
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幕府による第一次長州征伐
同年……つまり1864年のこと、朝敵となった長州藩に対して朝廷の孝明天皇は長州伐令の公布を命令、国民に長州藩討伐を指示したこの時が長州征伐の始まりとなりました。さて、長州征伐の命令に対して真っ先に手を挙げたのが幕府です。これは幕府にとって願ってもないチャンスだったに違いありません。
何しろ幕府は1858年の日米修好通商条約の締結によって信頼を失っており、また天皇による政治を意味する尊王攘夷を思想とする長州藩は幕府にとって邪魔な存在だったのです。ボロボロの状態の今の長州藩なら確実に潰せる上、天皇の命令に従うことで信頼を取り戻せると考えたのでしょう。
そのため幕府は第一次長州征伐を行いますが、ここで全権を任されたのが前尾張藩主・徳川義勝であり、参謀へと指名したのが薩摩藩の西郷隆盛です。この時、西郷隆盛が第一次長州征伐に参加したことが、滅亡寸前の状態にある長州藩の未来を変えることになるのでした。
滅亡の危機を逃れた長州藩
長州征伐を行う前、西郷隆盛は安政の改革で地位を高めた勝海舟に会って長州征伐についての相談をしました。西郷隆盛の薩摩藩は朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体を思想としていましたが、相談の席では公武合体の思想は不可能に近く、新政権の樹立が必要とされていることを説かれます。
その点、長州藩は思想は過激ながらも天皇を中心とした政治を行う尊王攘夷を思想としており、新政権の樹立を支持する考えでした。そこで西郷隆盛は考えを改め、すぐに長州征伐を行うことなく長州藩との交渉の機会を設けたのです。そして、西郷隆盛は長州藩に対してある提案をしました。
それは「藩主の謝罪文の要求」、「禁門の変で上京した三家老に切腹を命じる」、「三条実美ら五卿を追放する」、「山口城を破却する」……これらの条件を受け入れるのであれば、長州征伐は行わないとの提案です。そして、長州藩は西郷隆盛の提案を受け入れて滅亡の危機から逃れることができました。
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長州藩の復活と第二次長州征伐の始まり
滅亡の危機を回避した長州藩でしたが、それは西郷隆盛……すなわち幕府の提案した条件を全て受け入れたためであり、勝ち負けで示すとすれば第一次長州征伐は戦わずして敗北しました。そんな長州藩の低姿勢で情けない姿に失望したのが、長州藩の尊王攘夷運動を中心に立っていた高杉晋作です。
明らかな武闘派である長州藩が低姿勢に成り下がったことに我慢できず、高杉晋作は伊藤博文らと共に奇兵隊を結成します。そして、武力によって長州藩の実権を握り、以前のように尊王攘夷派が中心に立つ武闘派の長州藩の姿が今ここに蘇ったのです。
さて、これを良しとしないのが幕府、今度こそ長州藩を潰してしまおうと総勢15万人の兵を挙げて本気で長州征伐に乗り出します。一方の長州藩も幕府の軍勢に怯むことなく戦いを決意しました。それは1866年のこと、これが第二次長州征伐の始まりとなるのでした。
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薩長同盟の効果
これが二度目となる幕府の長州征伐……すなわち第二次長州征伐では、長州藩の状況は前回と全く違っていました。第一次長州征伐では長州藩は朝敵となったことで武器の購入が禁じられており、また外国から攘夷による報復を受けていたため、装備においても兵においても万全とは程遠い状態だったでしょう。
しかし今回はその時と全く違い、第二次長州征伐の直前には薩摩藩と同盟を結び、薩長同盟を締結させていました。この同盟によって薩摩藩は第二次長州征伐が行われた際は幕府に加勢しないと約束、また長州藩は外国の最新武器を装備して戦える状況だったのです。
薩摩藩は1863年にイギリスとの間に薩英戦争を起こしており、その後はイギリスと交友関係を結んでいました。そのためイギリスの最新武器を購入できる立場にあり、薩長同盟の締結によってその最新武器が長州藩にも渡っています。つまり、長州藩は前回の違って万全の状態で幕府の長州征伐に対抗することができたのです。
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