
部下はしっかりと評価する上司でもあった
1575年には朝廷から権大納言に任命されたうえに同じ年に右近衛大将も兼任しました。公家と親交をしていたので一般の戦国大名以上に、その時代に則った行動をしていたことでしょう。こうした地位に就いたおかげで自身の地位を盤石にしました。このあたりから信長は上様と呼ばれるようになっていたようです。残虐といえども家臣達にもそういった行動を取っているように思えますが、一部外様を除いてはしっかりとした地位に就かせました。特に尾張出身者は重用していました。誰でも構わずという短気な性格ではなく、しっかりと部下を評価することができる人だったでしょう。
また優しい一面もあったようで、何度か京に行き来したある日同じ場所を通ると乞食がいて不憫に思ったのか、木綿を村人全員に配り村人が感動したエピソードも残っています。
信長の最後

次々と対抗勢力を討ち取り、従軍させてきた信長は天下統一目前まできていました。しかし、光秀の裏切りにより目前に迫っていた天下統一ができずに討ち取られてしまいます。それでは、自刃してしまった信長の最後を見ていきましょう。
全国平定まであとわずか
1582年2月に娘婿である木曾義昌が織田方に寝返ったことをきっかけに、武田領へ侵攻を始めます。甲州征伐をする前に重臣達は、各方面の敵国へ進軍していました。
この時には、関東の北條までも信長に従軍しており武田領を囲むようにして軍を配置していました。武田軍は、連合軍の前では力の差で敗れ多数の城を失ってしまいます。こうした状況を打開する術がない勝頼は、滝川一益の下で自刃しました。武田氏を滅ぼしたことによって甲州一帯を支配下として、勢力をさらに広げることができました。
また武田氏討伐の際に奥羽の伊達氏と佐竹氏は、従軍する内容の書状を信長と交わしたとされています。これにより残す敵勢力は、上杉氏・毛利氏・長宗我部氏・島津氏だけとなっていました。状況として上杉氏には柴田勝家が向かい、毛利氏に羽柴秀吉が織田信孝と丹羽長秀は長宗我部領土に向け戦支度をしていました。
こちらの記事もおすすめ

戦乱の世を平定した「豊臣秀吉」を元塾講師がわかりやすく解説!大出世人生を5分で総まとめ
本能寺の変
信長は九州平定まで視野に入れていたので、毛利氏をまず攻めたてる準備をしておりました。秀吉といえども、智謀高き毛利氏の高松城を落とすことができず信長に援軍を依頼してきました。援軍要請にまず、光秀に一万三千の兵を預け秀吉を救援するように命じられます。1582年6月1日に、軍勢一万三千を率いて丹羽亀山城を出発しました。
その頃、信長は百人余りの兵と共に本能寺に滞在していました。明智軍の飛脚で、中国への出陣準備が出来たので陣容などを信長に検分してもらいとの連絡が入りました。そして本能寺に到着後、御殿に鉄砲が撃ち込まれ瞬く間に本能寺内に侵入されてしまいました。敵は、誰であるかと森蘭丸に尋ねたところ明智光秀であると伝えると是非も及ばずと言い槍を手に取り戦いました。応戦するも虚しく、圧倒的兵力の前に信長は自刃してしまいました。
こちらの記事もおすすめ

本能寺の変だけじゃない「明智光秀」の一生を元塾講師がわかりやすく解説!
時代にとらわれることのない織田信長
幼少期のうつけぶりを見た限りだと誰もが先がない跡継ぎだと思われていましたが、今川義元を破ったことで大きく彼を成長させたのだと思いました。また戦国時代では主君が居城を変えることは、あまり無かったのに信長は三度お城を移っています。
居城から遠くなれば兵力が揃わず影響力が弱まってしまいがちですが、拠点を移動することにより自身の影響力を残しつつ勢力が拡大できたのでしょう。そして政策として楽市楽座を発し、自由に村人達が商いすることが可能になり様々な情報を手に入れたのでしょう。謀反によって討ち取られていなかったら、戦国時代は、大きく変化していたのかもしれませんね。