日本史

夢半ばで家臣に裏切らてしまった「織田信長」の生涯を戦国通のサラリーマンが5分で分かりやすく解説!

駿河の一大勢力の義元が討死

天候が急変したことにより兵を、休ませていた今川軍。時は同じ頃に信長は、中嶋砦へ救援するべく兵を向けていましたが既に陥落しており近くで今川軍が休息している情報が入っていました。天候が、回復したと同時に今川軍に急襲をかけます。戦況を有利に進めていた今川軍の兵は油断していたため想定外の奇襲に混乱していました。

混乱してしまった兵の収拾が、できなくなっている今川軍の陣営になだれ込むように攻め込む織田軍。今川軍親衛隊三百騎が義元を守るため、織田軍の攻撃を防ぐも勢いには、勝てず五十騎まで減らされ追い込まれます。親衛隊が戦っている間に逃げようとする義元も、信長の馬廻衆に追いつかれ服部一忠と一戦交えていた義元。

服部一忠に負傷させたが、服部一忠の助太刀に入り毛利良勝が義元の胴に一太刀入れられてしまい義元はそのまま組み伏せられてしまいました。為す術ない義元は、毛利良勝によって首を刎ねられてしまいました。

信長包囲網

義元を打ち破ったことで勢いに乗った信長は、隣国の諸大名を次々と打ち破っていき織田家の領土を瞬く間に拡大させていきました。強大な勢力を前に隣国の大名は、他国と同盟を結び信長を追い込んでいきます。その結果、信長は隣国に囲まれてしまいました。

信長包囲網

まず自身に従わない朝倉義景を討ち取るために信長は、挙兵し朝倉領土へ侵略していきました。徐々に朝倉方の城を落としていくと、信長に従軍していた浅井長政がいきなり朝倉方へ寝返ってしました。挟撃されてしまいますが、明智光秀を殿として命からがら信長は京へ帰還します。

1570年6月に朝倉・浅井連合を撃つべく、近江国姉川まで進軍し河川沿いで戦いました。姉川の戦いで勝利を収めた信長は、摂津国で挙兵した三好三人衆を討ち取ろうと挙兵するも石山本願寺も挙兵します。さらに同時期に朝倉・浅井連合が、近江国坂本まで侵攻してきました。

急に各隣国から包囲されてしまい、窮地に陥りますが六角氏経由で関白の足利義昭によって、朝倉・浅井家と織田家で和睦を結ぶこととなりました。窮地を脱することができましたが、度重なる攻撃を受けた織田家は、重臣である森可成と信長の実弟である信治と信与を失ってしまいました。

長篠の戦い

信長の力を脅威と感じ何度か隣国同士で同盟を結び、信長を討ち取ろうと大名達が連携するも、重臣のおかげで危機を回避してきました。

度重なる戦をへて朝倉・浅井両軍を滅ぼし、武田信玄と武田勝頼と戦を繰り返していました。信玄が急死して後を継いだ勝頼が、信長を撃つために再び織田領へ侵攻してきます。

1575年5月21日に長篠城を主軸に戦が、始まりました。兵力は織田軍が上回っていましたが、当時は最強と名高い武田騎馬隊が負けるとは、思われておりませんでした。ところが信長は、最新兵器である火縄銃を用いて武田軍を圧倒します。

火縄銃は、火薬を込めるのに時間がかかるため一発放つだけの武器でしたが3列に隊列を組み、放ち終わった人を入替えして火縄銃の隙をなくしました。近代武器を前に、為す術なく武田軍の有力武将達が討ち取られていき武田軍を敗走させることができました。

信長の人物像

image by PIXTA / 14882895

圧倒的な力を持っていた信長ではありましたが、人間性は極めて残虐的でした。しかしその反面デキる上司としての姿もあったようです。その様子が分かるエピソードをいくつか紹介しましょう。

信長っぽい?残虐非道な行為のあれこれ

信長の残虐性が分かる戦があります。憂さ晴らしという理由だけで、男女問わず約二万人を焼殺した長島一向一揆です。自分に敵対するものには必要以上に殺害していたことがわかりますね。また朝倉・浅井を討ち取った首を薄濃にしてお酒をついてで飲んでいたともされる逸話も残されています。

そんな残虐で幼少期にうつけ者と呼ばれていた信長ですが、成人してからは世間の評価を気にしていたようです。

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