
義理の父マムシと対面
家督を継いだ1553年の4月下旬に突然、義父にあたる斎藤道三が信長に対して面会を申し出てきました。この時代に、義父と顔を合わせることがほぼなかったので信長自身も驚いたでしょう。面会自体も、策略の可能性がありましたが、面会を引き受けることになりました。
その後、織田家は急いで面会の準備を行い正徳寺で開かれることが決まりました。道三が面会したいと言い出したのは、信長がうつけ者であるかどうかを見極めるためだったと言われています。面会当日に道三は、約七百人の上品な老君を御堂の縁堂に並ばせ信長を驚かせてやろうと思っていました。
少し後に、信長も約七百人を連れて正徳寺にやってきました。その700人の兵達の格好が、日本に出回り始めたばかりの火縄銃五百丁と、三間半の長槍を装備した兵達でした。これを見た道三は、度肝を抜かすどころか抜かされてしまいました。その様子から道三は、いずれ信長の軍門に降るだろうと言ったそうです。
織田家内乱
信秀の死去後、織田家の家督が正式に引き継がれていない中で信長に不満を持っていた者がいました。それは、実兄である信行でした。信行と信秀時代の家臣達が信長のうつけぶりを見て、信長を排除しようとする不穏な動きをしていました。
その動きを察知して、稲生原(現名古屋西区)に砦を築き戦の準備を行いました。1556年に9月27日に信長と信行は、正面きって激突します。兵力は信長方人と七百人、信行方千七百と大きな兵力差がありました。兵力差で苦戦を強いられていましたが、織田信房・森可成らが奮闘したおかげで巻き返しすることができ見事、信行軍を敗走させました。
その後、信行の家臣であった林秀貞と柴田勝家などは信長に謝罪して忠誠を誓いました。信行も、信長の母である土田御膳によって助けられたものの再び謀反を企みましたが、河尻秀隆によって暗殺されてしまいました。
桶狭間の戦い
小さな小競り合いはありましたが1560年に、義元が自ら約二万の大軍を率いて織田家を滅ぼすべく尾張領に攻め入ってきました。織田軍の兵力は、三千から五千と圧倒的不利な状況のため清州城で籠城して向かい撃つ予定でした。
しかし早朝三時頃に丸根砦と鷲津砦が、今川軍の先鋒隊である松平元康に攻め込まれたことを知った信長は、飛び起き熱田神宮に先勝祈願を行ったようです。丸根砦と鷲津砦は、守備で五百兵程度で松平隊の猛攻を凌いでいましたが十時頃に両砦は陥落してしまいました。
そして正午頃に中嶋砦で織田軍と今川軍が衝突しており、佐々政次と千秋四郎が前線で戦うも今川軍の猛攻に耐えられず討死にしてしまいます。義元は中嶋砦を落とした後、おけはざまと呼ばれる山で休息を取っている十三時頃に突然、空から雹若しくは霰が激しく降り注いできました。
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