今日は、「織田信長」について一緒に勉強していこう。戦国時代に新しい風を吹き込み、天下統一目を目前に家臣の裏切りによって自刃してしまった織田信長について紹介していきます。織田信長が自刃するまでの戦や、人物像についてまとめてみた。

ここからは、日本史ライターのwhat_0831を招いて一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。今回は、日本人であれば知っているであろう織田信長の魅力ある人生について紹介する。

うつけ者と罵られていた幼少時代

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まずは信長の幼少期の様子を辿っていくこととします。またうつけ者と言われていた信長の教育係であった平手政秀についても一緒に見てみましょう。

信長の出生

天文3年5月12日に尾張(現愛知県西部)にて地方大名である、織田信秀の子として誕生しました。出生場所は定説では尾張領土にある那古野城といますが、尾州古城志には勝幡城で誕生したと記されており正確な出生地がどちらなのかはっきりしていませんが、ここでは定説の那古野城で進めてさせていただきます。次男として誕生しましたが長男信広は信秀の側室から生まれたため、この時代の跡継ぎは正室となっていたので信長が信秀の跡継ぎ候補でした。

幼少時代は吉法師と名付けられ育てられていきますが、素行の悪さが目立ち、周囲からはうつけ者と呼ばれていました。うつけ者と呼ばれ始めたのは素行の悪さだけでなく服の身なりからで、入浴時に着るゆかたびら(湯帷子)を日々体に括りつけていました。また、まげは結わずに派手な紐で髪を縛っていた様子を見て、村の人々から隣国まで知れ渡ってしまいました。

信長教育係の平手政秀

信長が吉法師と名乗っていた頃に信秀の重臣だった平手政秀が教育担当として、作法や剣術などを教えていました。

その後成長していく信長の次席家老を勤め、十三歳の時に初陣準備を計画して吉良吉浜の今川軍推定二千兵を手勢八百兵を引き連れ見事撃退します。主だった戦功は上げられませんでしたが、政秀の力もあり那古野城から約40kmも兵を率いて移動したのでこれだけでも見事なことでしょう。

さらに信秀が当主であった頃、駿河の今川義元と美濃の斎藤道三と争っていた時にこれ以上敵勢力を増やすわけにはいかない現状を打開するべく、清州織田氏の実権を握っていたとされる坂井大膳と交渉して美濃の斎藤道三と和睦を結ぶなど、政秀は特に外交面に長けていました。

平手政秀の死

斎藤道三と和睦を成立に尽力したことに加えて、和睦条件に信長と濃姫を結婚させることも入っていました。これにより織田家の未来まで考えていたことと、斎藤氏よりも織田家の立場が上であることを前提に交渉していたことが分かりますね。

織田家の外交の立場として、今後も織田家のために尽力する予定でしたが、1552年に信秀が死去して織田家中が混乱していた時に、自刃してしまいました。自刃した理由がはっきりしておらず、信長公記では信長の素行があまりにも悪く直らないかもしれないので、少しでも信長を改心させるためにと書かれています。

その他としては信長と不仲になったことや、平手家内部の者が自刃に追いやってしまったなどと考えられているようです。ただ政秀自刃後に、信長は政秀のために政秀寺を建ています。信長もただのうつけ者ではなく、優しい一面も持っていたことが分かりますね。

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うつけ者から戦国大名への躍進

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父の信秀と目付け役の政秀が亡くなってしまった後から、当主として成長していきました。美濃のマムシと恐れられていた斎藤道三との初対面や、家督争いについて見ていきましょう。

義理の父マムシと対面

家督を継いだ1553年の4月下旬に突然、義父にあたる斎藤道三が信長に対して面会を申し出てきました。この時代に、義父と顔を合わせることがほぼなかったので信長自身も驚いたでしょう。面会自体も、策略の可能性がありましたが、面会を引き受けることになりました。

その後、織田家は急いで面会の準備を行い正徳寺で開かれることが決まりました。道三が面会したいと言い出したのは、信長がうつけ者であるかどうかを見極めるためだったと言われています。面会当日に道三は、約七百人の上品な老君を御堂の縁堂に並ばせ信長を驚かせてやろうと思っていました。

少し後に、信長も約七百人を連れて正徳寺にやってきました。その700人の兵達の格好が、日本に出回り始めたばかりの火縄銃五百丁と、三間半の長槍を装備した兵達でした。これを見た道三は、度肝を抜かすどころか抜かされてしまいました。その様子から道三は、いずれ信長の軍門に降るだろうと言ったそうです。

織田家内乱

信秀の死去後、織田家の家督が正式に引き継がれていない中で信長に不満を持っていた者がいました。それは、実兄である信行でした。信行と信秀時代の家臣達が信長のうつけぶりを見て、信長を排除しようとする不穏な動きをしていました。

その動きを察知して、稲生原(現名古屋西区)に砦を築き戦の準備を行いました。1556年に9月27日に信長と信行は、正面きって激突します。兵力は信長方人と七百人、信行方千七百と大きな兵力差がありました。兵力差で苦戦を強いられていましたが、織田信房・森可成らが奮闘したおかげで巻き返しすることができ見事、信行軍を敗走させました。

その後、信行の家臣であった林秀貞と柴田勝家などは信長に謝罪して忠誠を誓いました。信行も、信長の母である土田御膳によって助けられたものの再び謀反を企みましたが、河尻秀隆によって暗殺されてしまいました。

織田勢力拡大

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信行との家督争いに決着がつき一段落したいところでしたが、群雄割拠の時代なのでそうは行きませんでした。それでは、桶狭間の戦いを機に勢力を拡大していく信長を見ていきましょう。

桶狭間の戦い

小さな小競り合いはありましたが1560年に、義元が自ら約二万の大軍を率いて織田家を滅ぼすべく尾張領に攻め入ってきました。織田軍の兵力は、三千から五千と圧倒的不利な状況のため清州城で籠城して向かい撃つ予定でした。

しかし早朝三時頃に丸根砦と鷲津砦が、今川軍の先鋒隊である松平元康に攻め込まれたことを知った信長は、飛び起き熱田神宮に先勝祈願を行ったようです。丸根砦と鷲津砦は、守備で五百兵程度で松平隊の猛攻を凌いでいましたが十時頃に両砦は陥落してしまいました。

そして正午頃に中嶋砦で織田軍と今川軍が衝突しており、佐々政次と千秋四郎が前線で戦うも今川軍の猛攻に耐えられず討死にしてしまいます。義元は中嶋砦を落とした後、おけはざまと呼ばれる山で休息を取っている十三時頃に突然、空から雹若しくは霰が激しく降り注いできました。

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駿河の一大勢力の義元が討死

天候が急変したことにより兵を、休ませていた今川軍。時は同じ頃に信長は、中嶋砦へ救援するべく兵を向けていましたが既に陥落しており近くで今川軍が休息している情報が入っていました。天候が、回復したと同時に今川軍に急襲をかけます。戦況を有利に進めていた今川軍の兵は油断していたため想定外の奇襲に混乱していました。

混乱してしまった兵の収拾が、できなくなっている今川軍の陣営になだれ込むように攻め込む織田軍。今川軍親衛隊三百騎が義元を守るため、織田軍の攻撃を防ぐも勢いには、勝てず五十騎まで減らされ追い込まれます。親衛隊が戦っている間に逃げようとする義元も、信長の馬廻衆に追いつかれ服部一忠と一戦交えていた義元。

服部一忠に負傷させたが、服部一忠の助太刀に入り毛利良勝が義元の胴に一太刀入れられてしまい義元はそのまま組み伏せられてしまいました。為す術ない義元は、毛利良勝によって首を刎ねられてしまいました。

信長包囲網

義元を打ち破ったことで勢いに乗った信長は、隣国の諸大名を次々と打ち破っていき織田家の領土を瞬く間に拡大させていきました。強大な勢力を前に隣国の大名は、他国と同盟を結び信長を追い込んでいきます。その結果、信長は隣国に囲まれてしまいました。

信長包囲網

まず自身に従わない朝倉義景を討ち取るために信長は、挙兵し朝倉領土へ侵略していきました。徐々に朝倉方の城を落としていくと、信長に従軍していた浅井長政がいきなり朝倉方へ寝返ってしました。挟撃されてしまいますが、明智光秀を殿として命からがら信長は京へ帰還します。

1570年6月に朝倉・浅井連合を撃つべく、近江国姉川まで進軍し河川沿いで戦いました。姉川の戦いで勝利を収めた信長は、摂津国で挙兵した三好三人衆を討ち取ろうと挙兵するも石山本願寺も挙兵します。さらに同時期に朝倉・浅井連合が、近江国坂本まで侵攻してきました。

急に各隣国から包囲されてしまい、窮地に陥りますが六角氏経由で関白の足利義昭によって、朝倉・浅井家と織田家で和睦を結ぶこととなりました。窮地を脱することができましたが、度重なる攻撃を受けた織田家は、重臣である森可成と信長の実弟である信治と信与を失ってしまいました。

長篠の戦い

信長の力を脅威と感じ何度か隣国同士で同盟を結び、信長を討ち取ろうと大名達が連携するも、重臣のおかげで危機を回避してきました。

度重なる戦をへて朝倉・浅井両軍を滅ぼし、武田信玄と武田勝頼と戦を繰り返していました。信玄が急死して後を継いだ勝頼が、信長を撃つために再び織田領へ侵攻してきます。

1575年5月21日に長篠城を主軸に戦が、始まりました。兵力は織田軍が上回っていましたが、当時は最強と名高い武田騎馬隊が負けるとは、思われておりませんでした。ところが信長は、最新兵器である火縄銃を用いて武田軍を圧倒します。

火縄銃は、火薬を込めるのに時間がかかるため一発放つだけの武器でしたが3列に隊列を組み、放ち終わった人を入替えして火縄銃の隙をなくしました。近代武器を前に、為す術なく武田軍の有力武将達が討ち取られていき武田軍を敗走させることができました。

信長の人物像

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圧倒的な力を持っていた信長ではありましたが、人間性は極めて残虐的でした。しかしその反面デキる上司としての姿もあったようです。その様子が分かるエピソードをいくつか紹介しましょう。

信長っぽい?残虐非道な行為のあれこれ

信長の残虐性が分かる戦があります。憂さ晴らしという理由だけで、男女問わず約二万人を焼殺した長島一向一揆です。自分に敵対するものには必要以上に殺害していたことがわかりますね。また朝倉・浅井を討ち取った首を薄濃にしてお酒をついてで飲んでいたともされる逸話も残されています。

そんな残虐で幼少期にうつけ者と呼ばれていた信長ですが、成人してからは世間の評価を気にしていたようです。

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部下はしっかりと評価する上司でもあった

1575年には朝廷から権大納言に任命されたうえに同じ年に右近衛大将も兼任しました。公家と親交をしていたので一般の戦国大名以上に、その時代に則った行動をしていたことでしょう。こうした地位に就いたおかげで自身の地位を盤石にしました。このあたりから信長は上様と呼ばれるようになっていたようです。残虐といえども家臣達にもそういった行動を取っているように思えますが、一部外様を除いてはしっかりとした地位に就かせました。特に尾張出身者は重用していました。誰でも構わずという短気な性格ではなく、しっかりと部下を評価することができる人だったでしょう。

また優しい一面もあったようで、何度か京に行き来したある日同じ場所を通ると乞食がいて不憫に思ったのか、木綿を村人全員に配り村人が感動したエピソードも残っています。

信長の最後

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次々と対抗勢力を討ち取り、従軍させてきた信長は天下統一目前まできていました。しかし、光秀の裏切りにより目前に迫っていた天下統一ができずに討ち取られてしまいます。それでは、自刃してしまった信長の最後を見ていきましょう。

全国平定まであとわずか

1582年2月に娘婿である木曾義昌が織田方に寝返ったことをきっかけに、武田領へ侵攻を始めます。甲州征伐をする前に重臣達は、各方面の敵国へ進軍していました。

この時には、関東の北條までも信長に従軍しており武田領を囲むようにして軍を配置していました。武田軍は、連合軍の前では力の差で敗れ多数の城を失ってしまいます。こうした状況を打開する術がない勝頼は、滝川一益の下で自刃しました。武田氏を滅ぼしたことによって甲州一帯を支配下として、勢力をさらに広げることができました。

また武田氏討伐の際に奥羽の伊達氏と佐竹氏は、従軍する内容の書状を信長と交わしたとされています。これにより残す敵勢力は、上杉氏・毛利氏・長宗我部氏・島津氏だけとなっていました。状況として上杉氏には柴田勝家が向かい、毛利氏に羽柴秀吉が織田信孝と丹羽長秀は長宗我部領土に向け戦支度をしていました。

本能寺の変

信長は九州平定まで視野に入れていたので、毛利氏をまず攻めたてる準備をしておりました。秀吉といえども、智謀高き毛利氏の高松城を落とすことができず信長に援軍を依頼してきました。援軍要請にまず、光秀に一万三千の兵を預け秀吉を救援するように命じられます。1582年6月1日に、軍勢一万三千を率いて丹羽亀山城を出発しました。

その頃、信長は百人余りの兵と共に本能寺に滞在していました。明智軍の飛脚で、中国への出陣準備が出来たので陣容などを信長に検分してもらいとの連絡が入りました。そして本能寺に到着後、御殿に鉄砲が撃ち込まれ瞬く間に本能寺内に侵入されてしまいました。敵は、誰であるかと森蘭丸に尋ねたところ明智光秀であると伝えると是非も及ばずと言い槍を手に取り戦いました。応戦するも虚しく、圧倒的兵力の前に信長は自刃してしまいました。

時代にとらわれることのない織田信長

幼少期のうつけぶりを見た限りだと誰もが先がない跡継ぎだと思われていましたが、今川義元を破ったことで大きく彼を成長させたのだと思いました。また戦国時代では主君が居城を変えることは、あまり無かったのに信長は三度お城を移っています。

居城から遠くなれば兵力が揃わず影響力が弱まってしまいがちですが、拠点を移動することにより自身の影響力を残しつつ勢力が拡大できたのでしょう。そして政策として楽市楽座を発し、自由に村人達が商いすることが可能になり様々な情報を手に入れたのでしょう。謀反によって討ち取られていなかったら、戦国時代は、大きく変化していたのかもしれませんね。

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今日は、「織田信長」について一緒に勉強していこう。戦国時代に新しい風を吹き込み、天下統一目を目前に家臣の裏切りによって自刃してしまった織田信長について紹介していきます。織田信長が自刃するまでの戦や、人物像についてまとめてみた。

ここからは、日本史ライターのwhat_0831を招いて一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。今回は、日本人であれば知っているであろう織田信長の魅力ある人生について紹介する。

うつけ者と罵られていた幼少時代

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まずは信長の幼少期の様子を辿っていくこととします。またうつけ者と言われていた信長の教育係であった平手政秀についても一緒に見てみましょう。

信長の出生

天文3年5月12日に尾張(現愛知県西部)にて地方大名である、織田信秀の子として誕生しました。出生場所は定説では尾張領土にある那古野城といますが、尾州古城志には勝幡城で誕生したと記されており正確な出生地がどちらなのかはっきりしていませんが、ここでは定説の那古野城で進めてさせていただきます。次男として誕生しましたが長男信広は信秀の側室から生まれたため、この時代の跡継ぎは正室となっていたので信長が信秀の跡継ぎ候補でした。

幼少時代は吉法師と名付けられ育てられていきますが、素行の悪さが目立ち、周囲からはうつけ者と呼ばれていました。うつけ者と呼ばれ始めたのは素行の悪さだけでなく服の身なりからで、入浴時に着るゆかたびら(湯帷子)を日々体に括りつけていました。また、まげは結わずに派手な紐で髪を縛っていた様子を見て、村の人々から隣国まで知れ渡ってしまいました。

信長教育係の平手政秀

信長が吉法師と名乗っていた頃に信秀の重臣だった平手政秀が教育担当として、作法や剣術などを教えていました。

その後成長していく信長の次席家老を勤め、十三歳の時に初陣準備を計画して吉良吉浜の今川軍推定二千兵を手勢八百兵を引き連れ見事撃退します。主だった戦功は上げられませんでしたが、政秀の力もあり那古野城から約40kmも兵を率いて移動したのでこれだけでも見事なことでしょう。

さらに信秀が当主であった頃、駿河の今川義元と美濃の斎藤道三と争っていた時にこれ以上敵勢力を増やすわけにはいかない現状を打開するべく、清州織田氏の実権を握っていたとされる坂井大膳と交渉して美濃の斎藤道三と和睦を結ぶなど、政秀は特に外交面に長けていました。

平手政秀の死

斎藤道三と和睦を成立に尽力したことに加えて、和睦条件に信長と濃姫を結婚させることも入っていました。これにより織田家の未来まで考えていたことと、斎藤氏よりも織田家の立場が上であることを前提に交渉していたことが分かりますね。

織田家の外交の立場として、今後も織田家のために尽力する予定でしたが、1552年に信秀が死去して織田家中が混乱していた時に、自刃してしまいました。自刃した理由がはっきりしておらず、信長公記では信長の素行があまりにも悪く直らないかもしれないので、少しでも信長を改心させるためにと書かれています。

その他としては信長と不仲になったことや、平手家内部の者が自刃に追いやってしまったなどと考えられているようです。ただ政秀自刃後に、信長は政秀のために政秀寺を建ています。信長もただのうつけ者ではなく、優しい一面も持っていたことが分かりますね。

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