日本史

夢半ばで家臣に裏切らてしまった「織田信長」の生涯を戦国通のサラリーマンが5分で分かりやすく解説!

よぉ、桜木建二だ。今日は、「織田信長」について一緒に勉強していこう。戦国時代に新しい風を吹き込み、天下統一目を目前に家臣の裏切りによって自刃してしまった織田信長について紹介していくぞ。織田信長が自刃するまでの戦や、人物像についてまとめてみた。

ここからは、日本史ライターのwhat_0831を招いて一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。今回は、日本人であれば知っているであろう織田信長の魅力ある人生について紹介する。

うつけ者と罵られていた幼少時代

image by PIXTA / 9517470

まずは信長の幼少期の様子を辿っていくこととします。またうつけ者と言われていた信長の教育係であった平手政秀についても一緒に見てみましょう。

信長の出生

天文3年5月12日に尾張(現愛知県西部)にて地方大名である、織田信秀の子として誕生しました。出生場所は定説では尾張領土にある那古野城といますが、尾州古城志には勝幡城で誕生したと記されており正確な出生地がどちらなのかはっきりしていませんが、ここでは定説の那古野城で進めてさせていただきます。次男として誕生しましたが長男信広は信秀の側室から生まれたため、この時代の跡継ぎは正室となっていたので信長が信秀の跡継ぎ候補でした。

幼少時代は吉法師と名付けられ育てられていきますが、素行の悪さが目立ち、周囲からはうつけ者と呼ばれていました。うつけ者と呼ばれ始めたのは素行の悪さだけでなく服の身なりからで、入浴時に着るゆかたびら(湯帷子)を日々体に括りつけていました。また、まげは結わずに派手な紐で髪を縛っていた様子を見て、村の人々から隣国まで知れ渡ってしまいました。

信長教育係の平手政秀

信長が吉法師と名乗っていた頃に信秀の重臣だった平手政秀が教育担当として、作法や剣術などを教えていました。

その後成長していく信長の次席家老を勤め、十三歳の時に初陣準備を計画して吉良吉浜の今川軍推定二千兵を手勢八百兵を引き連れ見事撃退します。主だった戦功は上げられませんでしたが、政秀の力もあり那古野城から約40kmも兵を率いて移動したのでこれだけでも見事なことでしょう。

さらに信秀が当主であった頃、駿河の今川義元と美濃の斎藤道三と争っていた時にこれ以上敵勢力を増やすわけにはいかない現状を打開するべく、清州織田氏の実権を握っていたとされる坂井大膳と交渉して美濃の斎藤道三と和睦を結ぶなど、政秀は特に外交面に長けていました。

平手政秀の死

斎藤道三と和睦を成立に尽力したことに加えて、和睦条件に信長と濃姫を結婚させることも入っていました。これにより織田家の未来まで考えていたことと、斎藤氏よりも織田家の立場が上であることを前提に交渉していたことが分かりますね。

織田家の外交の立場として、今後も織田家のために尽力する予定でしたが、1552年に信秀が死去して織田家中が混乱していた時に、自刃してしまいました。自刃した理由がはっきりしておらず、信長公記では信長の素行があまりにも悪く直らないかもしれないので、少しでも信長を改心させるためにと書かれています。

その他としては信長と不仲になったことや、平手家内部の者が自刃に追いやってしまったなどと考えられているようです。ただ政秀自刃後に、信長は政秀のために政秀寺を建ています。信長もただのうつけ者ではなく、優しい一面も持っていたことが分かりますね。

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やはりみんな知っているとおりで、信長はうつけ者であったようだな。ただ、政秀が亡くなってしまった時にお寺を建ているところを見ると、優しい青年でもあったのだろう。うつけと言ってもこの時代の大名の子供は、貴族服が一般的だとも言われていたみたいだ。貴族服ではない姿を見て、当時の人々達は信長をうつけと呼んでいたのかも知れないな。

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