
4-3、亡き家基に敬意を払った
家斉は、前将軍家治の息子で16歳で夭折した家基の命日には、必ず自らが参詣するか、若年寄を代参させていたということ。家斉は、50年も将軍に在職していながら、代々の将軍が必ず一度は行く家康を祀った日光東照宮へは一度も参拝しなかったのに、家基がなるはずだった11代将軍の座を自分が継いだからと、ここまで敬意を払うのは異例と言われています。
家基は、聡明で期待された後継ぎで、急死だったのは馬から落ちたという説もありますが、家斉は、自分を将軍の座に就けようとしていた父治済の暗殺を疑っていたのではということ。また、家斉はほとんど病気1つしなかったものの、生涯頭痛に悩まされていたということで、家基の祟りを恐れていたそう。
4-4、家斉の好物
家斉は、ほとんど風邪ひとつひかず69歳まで元気でしたが、何を食べていたかと言えば「白牛酪(はくぎゅうらく)」という、チーズのような高タンパク乳製品が大好きで、医者に命じて「白牛酪考」という本まで書かせたということ。
そして生姜も大好物で、一年中毎日欠かさず食べていたそうで、たしかに体をあたためて自己免疫力アップに役立つ食品であるので、風邪予防にも並外れた精力増強にも効いたかも。また、精力増強のためオットセイの陰茎の粉末を飲んでいたので「オットセイ将軍」と。お酒が好きで毎晩晩酌をしていて、浴びるように飲んでも酒乱にはならなかったが、晩年には3杯程度の節酒に
俗物将軍と言われ、寛政の改革も失敗に終わったが爛熟文化は栄えた
徳川家斉は、生まれながらの将軍ではなく一橋家から養子として入った人、でも将軍になったのは15歳なので将軍としての責任感とかプレッシャーなどを感じる前だったかもしれません。
実際、家斉の就任すぐに田沼意次を罷免させた後、自ら重要な政治判断をしたわけではないが、父治済が将軍実父として権勢をほしいままにしていたということで、家斉は50年も将軍だったのに、政治向きのことは自分のしたいように出来るわけではなかったよう。
それにしても大奥に入りびたりで子供ばかり作っていたのもすごいけど、寛政の改革で引き締めが失敗した後は、緩め切った賄賂政治に戻ってしまったのはどうでしょう。そのせいで町人文化が花開いたというのも、家斉の功績と言えるかどうか。