
3-2、家斉、側用人の水野忠成を老中に登用賄賂政治に逆戻り
文化14年(1817年)松平信明が病死後、他の寛政の遺老たちも、老齢などで辞職を申し出たため、文政元年(1818年)、家斉は牧野忠精ら残った寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけ、側用人の水野忠成を勝手掛、老中首座に任命。
忠成は定信や信明が禁止していた贈賄を自ら公認、収賄を奨励するように。さらに家斉自身も、大奥の女中が3千人もいるなど、奢侈な生活を。異国船打払令発令など、外国船対策の海防費も増大する一方で、幕府財政の破綻がすすみ、おまけに幕政の腐敗、綱紀の乱れが横行したということ。水野忠成は財政再建のため、文政期から天保期に8回もの貨幣改鋳、大量発行を行ない、かえって物価の騰貴を招くことに。
そして天保5年(1834年)の忠成死去後、水野忠邦が後任老中となったが、実際の幕政は家斉の側近の林忠英らが主導、家斉の側近による腐敗政治が続き、飢饉への対処も怠ったため、地方では次第に幕府に対する不満が高まり、天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こり、大塩の乱は一日で平定されたが、大塩らは40日ほど潜伏後に爆死、事件関係者の処分が終わったのは、事件発生翌年で次の家慶の時代の天保9年8月、さらに生田万の乱をはじめとする反乱が相次ぐなど幕藩体制にゆらぎが見え、またモリソン号事件が起こるなどで海防への不安も高まったなどで、水野忠邦の天保の改革のきっかけになったというということ。
3-3、最晩年と最期
天保8年(1837年)4月、家斉は次男で45歳の家慶に将軍職を譲ったが、大御所として幕政の実権は握り続けたそう。最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の4男)を重用、天保12年(1841年)閏1月7日に誰にも気が付かれないうちに69歳で死去。死因は疝癪(内臓疾患)が元の急性の胃腸炎、腹膜炎だということ。
4-1、家斉の逸話
狩野養信か – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる
家斉の官位は従一位、太政大臣にまで昇りつめたが、徳川将軍として従一位を贈られたのは3代将軍家光以来、太政大臣への昇任は2代将軍秀忠以来で、一度も京都へ行かずに叙勲されたのは初ということなど、長生きしたので色々な逸話があります。
4-2、家斉の子供たち
家斉は、特定されただけで16人の正室、側室がいて、生まれた子供は男子が26人、女子が27人、しかし成人したのは28人ということ。当時は麻疹や天然痘などもあり、子供の生存率が低かったのですが、身分の高い人たちの場合、これに白粉毒が加わりました。当時の女性が化粧に用いた白粉は水銀、ヒ素など入りの猛毒で、しかし大奥に仕える乳母は張り切って乳房にも白粉を塗りたくったので、赤ちゃんは白粉が口に入ってたちまち水銀やヒ素の中毒に。また、お大事にお大事にと、日光や外の空気にも当てずに暗い室内で育てる傾向にあったことも、子供が健康に育たなかった原因であるそう。
側室が生んだ数多い家斉の子供は、すべて「御台所御養」として篤姫の子とされ、正室の権勢はゆるぎのないものだったということですが、幕府としては家斉の子供たちの養子や嫁入り先を探すのは一苦労で、養子先の大名には加増であるとか、拝借金という無利子のお金が貸与されたり、また将軍の子が養子として大名家を継いだり、将軍の姫が輿入れして娘婿になった大名は、本来の大名家の家格よりも上位の官位が授けられるなどの特典が設けられたということ。
しかし嫁入り先の大名家は、将軍の姫君を迎えるために新たに御殿を建築したり、多くの女中を抱えたりと大変な物入りに。現在の東京大学の赤門も、加賀藩の前田家が家斉娘の溶姫を迎えるために建造、そして大奥から大勢の女中が姫の輿入れと共にやってきて、溶姫付きの老女などは、加賀藩100万石の殿様を「加賀の守」と呼び捨てにしたという話は有名。
またせっかく成人した家斉の子のほとんどは不妊だったり、子供が夭折した人が多く、現代まで血筋を残したのは、津山藩主松平斉孝の養子となった15男の斉民、徳島藩主蜂須賀斉昌の養子となった13男の斉裕、そして家斉が最も寵愛したと言われる側室お美代の方(専行院)の娘で加賀藩主前田斉泰に嫁いだ21女の溶姫の3人だけということ。
そして家斉がこんなに多くの子を作った理由は、子女を多く儲けるように実家の一橋家の父治済に言われたということで、徳川宗家、御三家に御三卿の血筋を一橋家の系統で押さえるためであったということ。家斉の息子たちだけでなく弟や甥も実際、水戸徳川家を除いた御三家、御三卿に養子入りしたそう。
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