
2-1、家斉の時代に起こった主な出来事
色々な出来事、事件が起こっています。
2-2、天明の大飢饉
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは江戸時代中期の天明2年(1782年)から天明8年(1788年)にかけて発生した飢饉、江戸四大飢饉の1つで、日本近世最大の飢饉。
東北地方は1770年代からすでに悪天候や冷害で農作物の収穫が激減している状況であったが、天明3年(1783年)3月に岩木山が、7月に浅間山が噴火して、各地に火山灰が。この火山の噴火で直接的な被害と日射量低下による冷害となり、農作物に壊滅的な被害が生じ、翌年から深刻な飢饉に。天明2年(1782年)から翌年は冬とは思えない異様に暖かい日が続いて乾燥が続くという異常気象になり農作物のダメージが多大に。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」とあるそう。特に東北地方がひどく、弘前藩などは死者が10数万人に達し、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くが失われたということ。また疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減というすさまじさ。
また、農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入したので治安が悪化し、天明7年(1787年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こって、江戸の千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われるという無法状態が3日間続き、その後は全国各地へ打ちこわしが波及。幕府はこのために、7月に寛政の改革を始めたということ。
2-3、寛政の改革
松平定信の行った改革で、緊縮財政、風紀取締りで幕府財政の安定化を目指し、6年余りに及んだということ。
借金がかさみ困っている旗本に対して、天明4年(1784年)以前の借金の帳消しと、翌年以降の借金の利率を下げるように札差に命令した法律で札差には幕府が援助するという棄捐令(きえんれい)。
幕府の収入源の年貢米の安定供給をはかるために逃散して江戸に出稼ぎにきた大量の農民を援助し故郷の農村に帰れと勧めた旧里帰農令。
江戸に多くいた無宿人の犯罪を防ぎ、江戸の治安の安定のために、石川島に人足寄場を設置し、無宿人に仕事を与えて職業訓練を。
大飢饉に備えて諸大名に社倉や義倉に米や雑穀を備蓄させた囲米の制。江戸の町では、町費の7割を積み立てて、貧民救済や飢饉の食糧確保のために貯蓄しておく七分金積立法などを実施。
また、寛政異学の禁で、上下関係に厳しい朱子学以外の儒学を禁止し、学者の政治批判も禁止するなどの言論統制も。
しかしこの改革は、役人だけでなく庶民にまで倹約を強要、そして極端な思想統制令で、経済や文化は停滞。さらに神経質で疑り深い定信の性格が技話したせいもあり、財政の安定化や独占市場の解消などについてもさほどの成果をあげられずに松平定信は失脚。定信失脚後も、後任の老中首座の松平信明、戸田氏教、本多忠籌寛政の遺老たちにより改革の方針は引き継がれ、文化14年(1817年)に信明が病没、水野忠成が老中首座として幕政の方針を転換させるまで続いたそう。
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2-4、化政文化
化政文化(かせい ぶんか)とは、江戸時代後期の文化文政時代(1804年から-1830年)を最盛期とする、江戸を中心とした町人文化のこと。浮世絵、滑稽本、歌舞伎、川柳などとともに、国学や蘭学の大成した時期。
同じ町人文化でも、江戸前期の元禄文化と較べると、元禄文化は京都、大阪の上方が中心に起こったのにくらべ、化政文化は江戸が中心でしかも享楽的な色が濃いと言われるそう。とにかく絵画では葛飾北斎、歌川広重、文学では、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」小林一茶などの歌人、狂歌の大田南畝、そして儒学、国学、蘭学の学者も輩出。
2-5、感応寺スキャンダル、大奥の醜聞事件
家斉が最も寵愛したお美代の方は、溶姫と末姫を産み、溶姫は加賀藩主前田斉泰(なりやす)へ、末姫は広島藩主浅野斉粛(なりたか)へ嫁入り。
そのお美代の方の実父は日啓という智泉院の僧で、養父は御小納戸頭取の中野清武、幕府では御小納戸頭取、新番頭格を勤め、家斉の側近中の側近、隠居、剃髪したのちは碩翁(せきおう)と称し、隠居後も大御所家斉の話し相手として、随時江戸城に登城する資格を有していたお気に入りの寵臣。
清茂のところには、諸大名や幕臣、商人からも莫大な賄賂が集まってきて、家斉へのとりなしを頼まれ、清茂の周旋で嘆願はほぼ叶ったも同然といわれたほど。当時から悪評高く私利私欲にまみれた人物であったようで、本所向島に豪華な屋敷を構えて贅沢な生活をしたということ。
そしてこの事件は、お美代の方が、天保7年(1836年)、家斉にねだって感応寺を建ててもらって将軍家の御祈祷所にし、実父日啓を住職にしたのが発端。感応寺には、本堂をはじめ五重塔、経堂、鐘楼、庫裡僧坊、書院、釈迦堂、鎮守堂、宝蔵、惣門、山門、中門など20を超す建築物が林立、惣門前には腰掛茶屋、酒屋、飯屋、蕎麦屋、料理茶屋などの門前町が形成されたそう(現、目白庭園から西武池袋線あたり)。この感応寺には、将軍家をはじめとして、御三家、三卿や各大名が参詣するようになり、特に普段は外出を許されない大奥女中たちがお参りするように。
感応寺では訪れる大奥女中たちに若い美僧を接待役に付けるサービスぶりで、感応寺での大奥の女性たちの若い僧との密会、風紀の乱れがエスカレートしていったということ。
また、お美代の方は家斉に、加賀前田藩主前田斉泰に嫁いだ溶姫が産んだ慶寧を、12代将軍家慶の継嗣にするよう頼み、家斉の遺言書を偽造までしたそう。しかしこの陰謀は、家斉の死後、家斉の正室広大院や老中水野忠邦らによって阻止され、老中首座の水野忠邦は天保の改革開始の手始めとして、大御所時代に頽廃した綱紀の粛正を断行、寺社奉行阿部正弘に命じ、感応寺、智泉院の摘発を行って、住職のお美代の方実父の日啓は遠島の刑になったが獄死。
これに連座し、天保12年(1841年)お美代の方の養父中野碩翁(清茂)も、登城禁止、加増地没収、別邸取り壊しの処分を受けて向島に逼塞、その翌年に死去。お美代の方(専行院)は、西の丸大奥筆頭御年寄の花園とともに押込に。
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3-1、家斉、父治済の大御所待遇が得られず
不明 – 『改訂版 一橋徳川家名品図録』,茨城県立歴史館,2011, パブリック・ドメイン, リンクによる
天明8年(1788年)、家斉は父治済の存命中は言いなりであったということで、父治済を大御所待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、将軍になっていない治済を大御所とするのは問題が。
当時朝廷では同じように、閑院宮家出身の光格天皇が、実父の天皇を経験していない閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、老中松平定信が反対、光格天皇ら朝廷と対立する尊号事件が起こっていたので、天皇の実父の太上天皇が認められないのに、将軍の実父が大御所待遇できるわけがなく、老中松平定信は治済、家斉父子の怒りを買って失脚。
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