

その辺のところを幕末と徳川将軍家に目のないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸幕府の将軍や殿様にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川家斉について5分でわかるようにまとめた。
1-1、徳川家斉は、一橋家の生まれ

徳川家斉(いえなり)は、安永2年(1773年)、御三卿のひとつである一橋家の当主治済(はるさだ、はるなり)の長男として誕生。母は側室のお富の方。幼名は豊千代。
安永8年(1779年)、10代将軍家治の世嗣でたった一人の息子の家基(いえもと)が18歳で急死。家治の弟の清水重好も病弱で子供がいなかったので、家斉の父治済と田沼意次の工作もあって、家斉は天明元年(1781年)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入ることに。 天明6年(1786年)家治が50歳で急死したため、天明7年(1787年)に15歳で11代将軍に。
1-2、家斉の子供時代
家斉は、子供の頃に家臣に蟹や鶏などを集めさせて片っ端から踏み潰したり、握り潰して遊び、笑い転げていたという逸話があるそう。動物虐待が発展するとアブナイ方へ行くのに、諫める家臣はいなかったのでしょうか。
1-3、家斉、松平定信を起用し、寛政の改革を実施

家斉は将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免。徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高い松平定信を老中首座に任命。これは15歳の将軍のため、田安家出身で8代将軍吉宗の孫で、父治済の従弟の定信が、家斉が成長するまで後見するためもあったそう。
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1-4、家斉、島津重豪の娘と結婚
不明 – 『島津重豪 薩摩を変えた博物大名』黎明館 個人蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる
家斉は将軍世子になる以前、一橋家長男の時代に3歳で婚約した薩摩藩主島津重豪の娘篤姫と一緒に養育されていました。
しかし将軍となった今、正室は、五摂家か宮家出身の姫が慣例とされていて、外様大名の姫というのは全く前例がなく問題視されたということ。そこで篤姫父の島津重豪は、この婚約は重豪の義理の祖母の浄岸院(徳川綱吉、吉宗の養女の竹姫)の遺言であると主張。幕府側もこの主張を無視できず、婚儀は予定通り、婚約から13年後の寛政元年(1789年)に行われたということ。篤姫は、近衛経熙(このえつねひろ)の養女となって近衛寔子(ただこ)と改名。
この結婚により、島津重豪は前代未聞の将軍の舅の外様大名となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢に。尚、篤姫は5男敦之助を産むが夭折、しかし広大院として大奥で権勢をふるうことに。
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