唐の反攻と反乱の終結
成都に逃れていた僖宗ですが、西暦882年から反攻を開始します。その成功のカギとなったのは、朱温と李克用の2人です。
部下・朱温の投降
僖宗の反攻当時、河南で斉の一軍を率いていた将軍・朱温は、唐側に付く節度使の軍との戦況が不利なことから、唐軍に投降。朱温の投降を喜んだ僖宗は、忠誠心溢れる名前である「全忠」の名を朱温に贈り、官爵を与えます。
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黒騎士・李克用に完膚なきまでに粉砕される
朱温あらため朱全忠の投降と時を同じくして、突厥系沙陀族の李克用が北方から数万の兵を率いて南下。
李克用は、軍功により李姓を賜った父の代から仕えていた唐に反乱を起こした経歴があったものの、糸に吊るした針を矢で射抜く凄腕を見せて在地の遊牧民を心服させたという生粋の武人でした(後に唐に帰順しています)。
李克用の率いる、その名を冠するカラスのように全身黒ずくめの装備で固めたブラックナイツ・鴉軍(あぐん)は、長安近郊で黄巣軍を粉砕。迫りくる李克用から逃れるべく、黄巣は長安からの退避を迫られます。
長安退去と黄巣の最期
AlexHe34 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
西暦883年、黄巣軍は長安を退去し東へ向かいます。
東進の過程で、義賊として、やはり寝返者は許せなかったのでしょうか。河南に居た朱全忠を攻撃します。対する朱全忠は、長安の李克用に援軍を要請。挟撃された黄巣軍は敗北して更に東に逃れるも、追撃してきた李克用によって壊滅。
西暦884年、黄巣は故郷に程近い泰山において部下の介錯により自殺し、10年に及ぶ黄巣の乱は終結します。
乱の終結後
Ian Kiu – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
安史の乱の7年を超えた10年間、華北から華南までの広い範囲にわたって唐の各地を殺戮・破壊した黄巣の乱は終結したものの、唐の皇帝の権威は失墜。反乱終結の立役者となった朱全忠や李克用ら、節度使たちが各地でなかば独立します。
中でも黄巣軍にありながら黄巣を裏切って唐に寝返った朱全忠は、黄巣を裏切った際に発揮した知略を武器にのし上がり、西暦907年に唐の最後の皇帝・哀宗を退位させて唐を滅ぼし、後梁を建国。黄巣の乱の最終目的であった圧政者・唐の打倒は、皮肉にも黄巣の元部下により達成されることとなります。しかし後梁も全国を制圧する力はなく、中国は華北を制しつつも短命な王朝5代と、その他周辺10か国が相争う五代十国時代の乱世に突入していくことになりました。
黄巣の評価
西暦755年の安史の乱がきっかけとなって始まった唐王朝の塩の専売制は、庶民を100年苦しめた結果、西暦874年に黄巣の乱となって唐を揺るがしました。安史の乱の時から既に、唐が滅ぶ遠因が出来ていたとも言えるかもしれませんね。
100年の庶民の恨みを起爆させた黄巣。農民反乱の指導者でもあるため、現代中国では高い評価がされているようです。しかし、広州大虐殺や長安の洗城、唐高官への私刑など、逆らう者は武力制圧して死を与え、貴族ら富裕層(現代風に言うならブルジョワジーでしょうか)からは富を剥奪。後者の富裕層への仕打ちに至っては、黄巣一派の流れをくむ朱全忠軍においても、白馬の禍で高官一族を皆殺しにしていたりもします。
黄巣の本質は、五代十国の乱世を引き起こした暴力革命者に過ぎないのではないでしょうか。