反乱のはじまり
挙兵は河南の塩賊・王仙芝によるものが始まりとされています。しかし、この反乱の主役となったのは王仙芝と同業の黄巣(西暦835年~884年)でした。その経過はどのようなものだったのでしょうか。
塩賊・黄巣の人となり
黄巣は河南の曹州(現在の山東省)の出身で、官吏として登用されることを望んで何度も科挙を受けた受験生でした。しかし、当時の科挙は全国で数十人しか合格しない難関試験。合格は無理だと悟ったのでしょう。受験を諦める代わりに、塩の密売に携わっていきます。
塩賊として政府の取り締まりから逃れるために身に着けた武術と、科挙の勉強で身に着けた学問。黄巣は、義賊として鳴らしていたようです。
反乱の開始
唐の18代皇帝・僖宗(在位 西暦873年~888年)が即位した当初、黄河の氾濫による水害と雨不足による飢饉が全国に拡大。各地を流浪する流民の群れが散発的な暴動を繰り返していました。
西暦874年、社会不安が増す中、義賊と呼ばれた塩の密売人・王仙芝が、河南で秘密結社に属する数千人を集めて蜂起。同業の黄巣や流民の群れが合流して、周辺の都市を相次いで陥落させ、数万の大軍に達します。
義賊の意地が反乱を継続させる
既に各地の有力者・節度使による分権が進んでいた唐の朝廷は、王仙芝に官爵を与えて懐柔しようとします。これに応じようとした王仙芝でしたが、黄巣が殴って王仙芝を止めたため頓挫。反乱を行ったのは民衆への義のためであり、民衆を苦しめている唐の臣下に成り下がるためではない、というところでしょうか。
河南各地を暴れまわる中の西暦878年、王仙芝は長江の北部で戦死します。
飢軍の群れはイナゴのごとく各地を荒らす
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王仙芝と軍を分けて別行動していた黄巣は、河南から長江中下流域にかけて転戦。対する唐軍は、東の副都である洛陽から開封周辺を堅守して黄巣軍の勢いを押し留めます。黄巣軍は元は流民の群れだったこともあり、節度使たちのように地方に自分たちの拠点である領国を作って、地道に領地拡大するという考えはあまり無かったようで、さながら蝗(いなご)のごとく兵糧や富を目当てに、唐軍を避けつつ福建・広東・桂林と、南へと転進していきました。
黄巣の欲と広州大虐殺
南へ進んだ黄巣軍は、西暦879年、唐の最大の貿易港であった広州に到達。この頃、反乱軍の規模は数十万に膨れ上がっていました。反乱を継続し大軍を維持する限界を感じていたのか、黄巣は自らの故郷もしくは広州の節度使を唐に要求。
義賊の意地は、戦場の狂気により忘れ去られていたのでしょうか。唐に節度使の位を要求するあたり、王仙芝を押し留めたのは何だったのか、と思ってしまいますね。
唐への要求がいずれも拒否された黄巣軍は広州へ総攻撃をかけ、わずか一日で陥落させます。この広州にはアラビア人やペルシア人など、貿易に従事する裕福な外国人がたくさん居留していたのですが、陥落の際に12万人の在留外国人が殺されたようです。
北上と長安の制圧
元々黄河流域出身の多い黄巣軍は、亜熱帯の華南の気候に耐えられず病人が続出。士気も落ちてきたため、故郷に向かって再度北上することになりました。
対する唐の朝廷は、北上してくる黄巣軍を迎え撃つため、長江中流域の江陵と長沙にて防御を固めます。しかし、数十万の兵を擁する黄巣の大軍の前にいずれの城もあっけなく陥落。江陵を出た黄巣軍は、唐軍の奇襲により一度敗北を喫するものの、態勢を立て直した上で再北上。淮水の北で唐の守備軍を撃破して1年も掛からず河南を制圧。西暦880年12月には、唐の都・長安の重要な防衛線である潼関を攻め落とします。
追い詰められた唐の皇帝・僖宗は、翌西暦881年1月にわずかな近臣を連れて成都に避難。主を失った長安へ黄巣軍が入城し、反乱は成功したかのように見えました。
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