食べ物の味付けに必要な塩は生活必需品です。密売人と言えば聞こえが悪いが、高く塩を売りつけて税金の足しにしていた中央政府への、貧しい民衆の反乱が黄巣の乱です。黄巣の乱は、蝗(イナゴ)のように唐の全国各地を荒らし回り、唐の皇帝の支配力を弱めて群雄割拠の世を招き、唐滅亡の原因となった。

今回は黄巣の乱について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は唐帝国を実質的な滅亡に追い込んだ黄巣の乱をわかりやすくまとめた。

黄巣の乱の下地となった塩の専売制

古代の世界帝国・(西暦618年~907年)の中期に起こった大規模な反乱・安史の乱(西暦755年~763年)は、唐を直接的に滅亡に追い込むことは無かったものの、その影響は100年を越えて唐の基盤を再び揺るがし始めます。西暦874年から始まる黄巣の乱がそれに当たりますが、蜂起をしたのは生活必需品である塩に対する重税に喘ぐ民衆でした。

塩の密売人が生まれた下地とは

安史の乱の最中、第10代皇帝・粛宗(西暦756年~762年)の在位中に、戦費調達を目的として始められた塩の専売制度が、黄巣の乱の元凶になります。第五琦が献策して宰相・楊炎の下で劉晏により整備された塩の専売制度は、唐の朝廷により許可された塩田で産出された塩を、政府のルートで各地に卸していく制度でした。ところで、唐が塩の専売を行うことになった背景はどういう理由からだったのでしょうか。

塩は生命維持に必要な必需品

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現在でこそ、しょうゆや味噌などの塩辛い食品は減塩ものが人気です。塩は1日10グラム以下の摂取量にしておかないと、高血圧や肥満等の疾病リスクが増大するから、と言われます。
健康志向の現代人にとっては減塩に目が行きがちですが、塩は全く摂取しなくても良いかというと、それも出来ません。塩は代謝を行うために必要なミネラル類であり、これが無いと脱水症状、立ち眩み等、逆に体が不調になってくるからです。まして、当時の大多数を占めて農作業が中心の農民にとっては、労働を行う上でも必須でした。健康を維持するには適量ですが、生きていくためには必ず必要となる生活必需品になります。

代替品の無い独占市場はボロ儲け可能

商取引を国家が単独で行うことを専売制と言いますが、これには初めから競合相手が排除されています。競合相手が居ない独占市場では、供給する側(国家)が市場価格(値ごろ感)を無視して自由に値段を決められますよね。早い話が、ぼったくれる、わけです。
また、塩の代替品は存在しません。砂糖も白い粉ですが味は真逆ですし、山椒は辛くても塩の代わりになりません。
代替品が無く他に売り手が居ない。高くても買わざるを得ない。独占市場での取引は、自由な市場で競争相手が居て行う取引よりも、売り手は簡単に高い利益を得ることが出来るのです。

塩の密売人「塩賊」

このような不公平な市場には、必ず抜け道を探ろうとする者も現れます。唐が売る専売塩よりもいくらか安い塩があれば、たくさん売れて大儲け出来、消費者にも喜ばれますよね。これら密売人は「塩賊」と唐政府に呼ばれていましたが、安い塩を求める庶民からすると、義賊でもあります。
均田制に基づく租庸調制が崩壊した唐は、税収が減少。個人資産に応じた実質課税を行う両税法が制定された頃には、唐の朝廷における年間税収の半分近くを専売制による利益が占める状態でした。そのため、専売制の収入減の原因となる闇商人の存在は、唐朝廷からして撲滅すべき対象となっていました。

密売人の秘密結社

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唐政府は年々取り締まりを強化していきました。安い塩を大量に売られたら、政府公認の塩が売れなくなり、政府の収入は減っていく一方になるからです。
塩の密売は厳刑。刑を避けたい個々の密売人たちは、身を守るために相互に結束して組織化。行政の弾圧にも武力で対抗出来るような秘密結社が作られていきます。黄巣はその中の一人でした。

\次のページで「反乱のはじまり」を解説!/

反乱のはじまり

挙兵は河南の塩賊・王仙芝によるものが始まりとされています。しかし、この反乱の主役となったのは王仙芝と同業の黄巣(西暦835年~884年)でした。その経過はどのようなものだったのでしょうか。

塩賊・黄巣の人となり

黄巣は河南の曹州(現在の山東省)の出身で、官吏として登用されることを望んで何度も科挙を受けた受験生でした。しかし、当時の科挙は全国で数十人しか合格しない難関試験。合格は無理だと悟ったのでしょう。受験を諦める代わりに、塩の密売に携わっていきます。
塩賊として政府の取り締まりから逃れるために身に着けた武術と、科挙の勉強で身に着けた学問。黄巣は、義賊として鳴らしていたようです。

反乱の開始

唐の18代皇帝・僖宗(在位 西暦873年~888年)が即位した当初、黄河の氾濫による水害と雨不足による飢饉が全国に拡大。各地を流浪する流民の群れが散発的な暴動を繰り返していました。
西暦874年、社会不安が増す中、義賊と呼ばれた塩の密売人・王仙芝が、河南で秘密結社に属する数千人を集めて蜂起。同業の黄巣や流民の群れが合流して、周辺の都市を相次いで陥落させ、数万の大軍に達します。

義賊の意地が反乱を継続させる

既に各地の有力者・節度使による分権が進んでいた唐の朝廷は、王仙芝に官爵を与えて懐柔しようとします。これに応じようとした王仙芝でしたが、黄巣が殴って王仙芝を止めたため頓挫。反乱を行ったのは民衆への義のためであり、民衆を苦しめている唐の臣下に成り下がるためではない、というところでしょうか。
河南各地を暴れまわる中の西暦878年、王仙芝は長江の北部で戦死します。

飢軍の群れはイナゴのごとく各地を荒らす

唐末农民起义图.png
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王仙芝と軍を分けて別行動していた黄巣は、河南から長江中下流域にかけて転戦。対する唐軍は、東の副都である洛陽から開封周辺を堅守して黄巣軍の勢いを押し留めます。黄巣軍は元は流民の群れだったこともあり、節度使たちのように地方に自分たちの拠点である領国を作って、地道に領地拡大するという考えはあまり無かったようで、さながら蝗(いなご)のごとく兵糧や富を目当てに、唐軍を避けつつ福建・広東・桂林と、南へと転進していきました。

黄巣の欲と広州大虐殺

南へ進んだ黄巣軍は、西暦879年、唐の最大の貿易港であった広州に到達。この頃、反乱軍の規模は数十万に膨れ上がっていました。反乱を継続し大軍を維持する限界を感じていたのか、黄巣は自らの故郷もしくは広州の節度使を唐に要求。
義賊の意地は、戦場の狂気により忘れ去られていたのでしょうか。唐に節度使の位を要求するあたり、王仙芝を押し留めたのは何だったのか、と思ってしまいますね。
唐への要求がいずれも拒否された黄巣軍は広州へ総攻撃をかけ、わずか一日で陥落させます。この広州にはアラビア人やペルシア人など、貿易に従事する裕福な外国人がたくさん居留していたのですが、陥落の際に12万人の在留外国人が殺されたようです。

北上と長安の制圧

元々黄河流域出身の多い黄巣軍は、亜熱帯の華南の気候に耐えられず病人が続出。士気も落ちてきたため、故郷に向かって再度北上することになりました。
対する唐の朝廷は、北上してくる黄巣軍を迎え撃つため、長江中流域の江陵と長沙にて防御を固めます。しかし、数十万の兵を擁する黄巣の大軍の前にいずれの城もあっけなく陥落。江陵を出た黄巣軍は、唐軍の奇襲により一度敗北を喫するものの、態勢を立て直した上で再北上。淮水の北で唐の守備軍を撃破して1年も掛からず河南を制圧。西暦880年12月には、唐の都・長安の重要な防衛線である潼関を攻め落とします。
追い詰められた唐の皇帝・僖宗は、翌西暦881年1月にわずかな近臣を連れて成都に避難。主を失った長安へ黄巣軍が入城し、反乱は成功したかのように見えました。

\次のページで「皇帝・黄巣」を解説!/

皇帝・黄巣

長安を落として唐を四川に追いやった黄巣。ついに皇帝となります。

斉の建国

長安に入城した黄巣軍は、本当か嘘か、略奪を働かず軍律が厳しかったとされます。長安入城後、民心を掴むためか以下のような布告を出しました。

黄王(黄巣)が兵を起こしたのは、もともと庶民のためである。
唐の李一族のように、汝らを愛さないわけはない。安心して家におるがよい。

黄巣は即位し、を建国。金統と年号を改めました。上記の布告の通り、4品官以下の中下級役人は留任して唐の統治機構をそのまま受け継いだのですが、貴族たち高官は全て罷免して、旗揚げ以来の功臣をその座に据えています。

残虐な本性

ところで貴族たち高官は、仕事を無くすだけで平穏無事だったのでしょうか。もちろん、広州大虐殺同様に富裕層への恨みを持つ黄巣軍の統治の下では、安心して家にいることなど出来ませんでした。唐の高官らの官職を剥いだだけではなく、彼らの財産没収や私刑を進めます。
また、後に、唐の将軍の奇襲により長安が一時占領されて斉軍が奪い返した際、唐側に協力した市民たちを「洗城」として殺戮したこともあったようです。
黄巣軍は、敵対した勢力への復讐は徹底していたと言えるでしょうね。

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唐の反攻と反乱の終結

成都に逃れていた僖宗ですが、西暦882年から反攻を開始します。その成功のカギとなったのは、朱温李克用の2人です。

部下・朱温の投降

僖宗の反攻当時、河南で斉の一軍を率いていた将軍・朱温は、唐側に付く節度使の軍との戦況が不利なことから、唐軍に投降。朱温の投降を喜んだ僖宗は、忠誠心溢れる名前である「全忠」の名を朱温に贈り、官爵を与えます。

黒騎士・李克用に完膚なきまでに粉砕される

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朱温あらため朱全忠の投降と時を同じくして、突厥系沙陀族の李克用が北方から数万の兵を率いて南下。
李克用は、軍功により李姓を賜った父の代から仕えていた唐に反乱を起こした経歴があったものの、糸に吊るした針を矢で射抜く凄腕を見せて在地の遊牧民を心服させたという生粋の武人でした(後に唐に帰順しています)。
李克用の率いる、その名を冠するカラスのように全身黒ずくめの装備で固めたブラックナイツ・鴉軍(あぐん)は、長安近郊で黄巣軍を粉砕。迫りくる李克用から逃れるべく、黄巣は長安からの退避を迫られます。

長安退去と黄巣の最期

Sunrise viewed from Mount Tai.jpg
AlexHe34 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

西暦883年、黄巣軍は長安を退去し東へ向かいます。
東進の過程で、義賊として、やはり寝返者は許せなかったのでしょうか。河南に居た朱全忠を攻撃します。対する朱全忠は、長安の李克用に援軍を要請。挟撃された黄巣軍は敗北して更に東に逃れるも、追撃してきた李克用によって壊滅。
西暦884年、黄巣は故郷に程近い泰山において部下の介錯により自殺し、10年に及ぶ黄巣の乱は終結します。

乱の終結後

朱梁の位置
Ian Kiu - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

安史の乱の7年を超えた10年間、華北から華南までの広い範囲にわたって唐の各地を殺戮・破壊した黄巣の乱は終結したものの、唐の皇帝の権威は失墜。反乱終結の立役者となった朱全忠や李克用ら、節度使たちが各地でなかば独立します。
中でも黄巣軍にありながら黄巣を裏切って唐に寝返った朱全忠は、黄巣を裏切った際に発揮した知略を武器にのし上がり、西暦907年に唐の最後の皇帝・哀宗を退位させて唐を滅ぼし、後梁を建国。黄巣の乱の最終目的であった圧政者・唐の打倒は、皮肉にも黄巣の元部下により達成されることとなります。しかし後梁も全国を制圧する力はなく、中国は華北を制しつつも短命な王朝5代と、その他周辺10か国が相争う五代十国時代の乱世に突入していくことになりました。

黄巣の評価

西暦755年の安史の乱がきっかけとなって始まった唐王朝の塩の専売制は、庶民を100年苦しめた結果、西暦874年に黄巣の乱となって唐を揺るがしました。安史の乱の時から既に、唐が滅ぶ遠因が出来ていたとも言えるかもしれませんね。
100年の庶民の恨みを起爆させた黄巣。農民反乱の指導者でもあるため、現代中国では高い評価がされているようです。しかし、広州大虐殺や長安の洗城、唐高官への私刑など、逆らう者は武力制圧して死を与え、貴族ら富裕層(現代風に言うならブルジョワジーでしょうか)からは富を剥奪。後者の富裕層への仕打ちに至っては、黄巣一派の流れをくむ朱全忠軍においても、白馬の禍で高官一族を皆殺しにしていたりもします。
黄巣の本質は、五代十国の乱世を引き起こした暴力革命者に過ぎないのではないでしょうか。

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世界史中国史歴史

唐の支配をガタガタにした大反乱「黄巣の乱」を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!その経緯についてまとめてみる

食べ物の味付けに必要な塩は生活必需品です。密売人と言えば聞こえが悪いが、高く塩を売りつけて税金の足しにしていた中央政府への、貧しい民衆の反乱が黄巣の乱です。黄巣の乱は、蝗(イナゴ)のように唐の全国各地を荒らし回り、唐の皇帝の支配力を弱めて群雄割拠の世を招き、唐滅亡の原因となった。

今回は黄巣の乱について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は唐帝国を実質的な滅亡に追い込んだ黄巣の乱をわかりやすくまとめた。

黄巣の乱の下地となった塩の専売制

古代の世界帝国・(西暦618年~907年)の中期に起こった大規模な反乱・安史の乱(西暦755年~763年)は、唐を直接的に滅亡に追い込むことは無かったものの、その影響は100年を越えて唐の基盤を再び揺るがし始めます。西暦874年から始まる黄巣の乱がそれに当たりますが、蜂起をしたのは生活必需品である塩に対する重税に喘ぐ民衆でした。

塩の密売人が生まれた下地とは

安史の乱の最中、第10代皇帝・粛宗(西暦756年~762年)の在位中に、戦費調達を目的として始められた塩の専売制度が、黄巣の乱の元凶になります。第五琦が献策して宰相・楊炎の下で劉晏により整備された塩の専売制度は、唐の朝廷により許可された塩田で産出された塩を、政府のルートで各地に卸していく制度でした。ところで、唐が塩の専売を行うことになった背景はどういう理由からだったのでしょうか。

塩は生命維持に必要な必需品

image by PIXTA / 49897132

現在でこそ、しょうゆや味噌などの塩辛い食品は減塩ものが人気です。塩は1日10グラム以下の摂取量にしておかないと、高血圧や肥満等の疾病リスクが増大するから、と言われます。
健康志向の現代人にとっては減塩に目が行きがちですが、塩は全く摂取しなくても良いかというと、それも出来ません。塩は代謝を行うために必要なミネラル類であり、これが無いと脱水症状、立ち眩み等、逆に体が不調になってくるからです。まして、当時の大多数を占めて農作業が中心の農民にとっては、労働を行う上でも必須でした。健康を維持するには適量ですが、生きていくためには必ず必要となる生活必需品になります。

代替品の無い独占市場はボロ儲け可能

商取引を国家が単独で行うことを専売制と言いますが、これには初めから競合相手が排除されています。競合相手が居ない独占市場では、供給する側(国家)が市場価格(値ごろ感)を無視して自由に値段を決められますよね。早い話が、ぼったくれる、わけです。
また、塩の代替品は存在しません。砂糖も白い粉ですが味は真逆ですし、山椒は辛くても塩の代わりになりません。
代替品が無く他に売り手が居ない。高くても買わざるを得ない。独占市場での取引は、自由な市場で競争相手が居て行う取引よりも、売り手は簡単に高い利益を得ることが出来るのです。

塩の密売人「塩賊」

このような不公平な市場には、必ず抜け道を探ろうとする者も現れます。唐が売る専売塩よりもいくらか安い塩があれば、たくさん売れて大儲け出来、消費者にも喜ばれますよね。これら密売人は「塩賊」と唐政府に呼ばれていましたが、安い塩を求める庶民からすると、義賊でもあります。
均田制に基づく租庸調制が崩壊した唐は、税収が減少。個人資産に応じた実質課税を行う両税法が制定された頃には、唐の朝廷における年間税収の半分近くを専売制による利益が占める状態でした。そのため、専売制の収入減の原因となる闇商人の存在は、唐朝廷からして撲滅すべき対象となっていました。

密売人の秘密結社

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唐政府は年々取り締まりを強化していきました。安い塩を大量に売られたら、政府公認の塩が売れなくなり、政府の収入は減っていく一方になるからです。
塩の密売は厳刑。刑を避けたい個々の密売人たちは、身を守るために相互に結束して組織化。行政の弾圧にも武力で対抗出来るような秘密結社が作られていきます。黄巣はその中の一人でした。

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