3-9、家慶、ペリーショックで急死
その後、家慶は土井利位、阿部正弘、筒井政憲らに政治を任せ、弘化元年(1844年)、水戸藩主徳川斉昭を鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などの罪で、家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分に。
また、斉昭の7男で家慶の正室の妹の息子で幼いときから秀才の呼び声高かった七郎磨(慶喜)に一橋家を相続させ、将軍継嗣にするつもりもあったが、はっきりと決断する前に、嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に享年61歳で死去。暑気当たりで倒れた、つまり熱中症による心不全が死因だということ。病弱で障害のあった、たった一人成人した4男の家定が後を継いで12代将軍に。
4-1、家慶の逸話
家慶は、絵を描く趣味があった、父家斉と同じく焼き魚の添え物になる生姜が大好物だったが、天保の改革で倹約のために食膳に生姜が消えたことに憤慨したなど、色々な逸話があります。
4-2、凡庸と言われつつ、人を見る目はあった
田安家の出身で家慶の従弟にあたる松平春嶽(慶永)は、家慶を「逸事史補」で「凡庸の人」と評しているということ。内憂外患の時勢に将軍になったのに、趣味に没頭し幕政に疎い家臣が意見を聞いても「そうせい」と言うだけなので、「そうせい様」と渾名された家慶は、父家斉の世子時代が長く、将軍になっても家斉が大御所時代として実権を握っていたため、そう答えるしかなかったという見方も。
しかし家慶は人材を見る眼と登用時期を見極める判断は持っていたようで、家斉の50年にわたる治世で幕政が腐敗したが、家斉の死後その腹心たちを一掃し、水野忠邦に天保の改革を行わせ、改革の失敗後は後任に24歳だった阿部正弘を老中に大抜擢したことは評価に値するということ。
また天保11年(1840年)に、将軍家斉の実子斉省を養子にとった川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福な庄内藩領地への転封を幕閣に働きかけたことで、武蔵国川越藩主松平斉典を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封という三方領知替えとなったが、庄内藩の士民の猛烈な抵抗にあったうえ、翌年、家斉が死亡すると諸大名の間でも不満が高まったので、同年7月に家慶の「天意人望に従う」とする判断で中止にしたのは、家慶の将軍としての決断力を物語るのでは。
また、水戸斉昭と正室の妹の息子である慶喜を一橋家の養子にしたのち、将軍継嗣にと考えていたのに阿部に反対され、実現するまえに急死したが、もし決断していれば安政の大獄がなかったかもと考えると、暗君と言い切れない気が。「続徳川実紀」には「性質沈静謹粛にして、才良にましまし」と評が。
4-3、実物もほぼ肖像画の通り
不明(狩野派の絵師) – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる
戦後に発掘調査された「増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体」によれば、家慶は歴代将軍の中でも推定身長は154.4センチと小柄で、頭が大変大きく、六頭身で顎が長かったそう。現存する肖像画は家慶の生前の特徴をかなり忠実に描写したものだそうで、毛髪等の調査の結果、血液型はB型だということ。
そうせい様と言われ老中に任せていたようでも、意外な決断が的を射ていた
12代将軍家慶は、元気で長生きした父家斉のおかげで46歳になるまで将軍を譲ってもらえず、やっと将軍になっても大御所として父とその一派が権勢をふるうのを横で見ているだけ。
しかしその間、きっとあれをやろうこれをと考えていたのでしょう、父家斉の没後は、水野忠邦とタッグを組んで贅沢三昧の財政を引き締め、あれもこれもと急に詰め込みどれもこれも早急過ぎて天保の改革は庶民の怒りを買って失敗。しかし水野で失敗後、後任の老中阿部正弘の抜擢は評価されているということ。
このように国内だけでも大変なのに、外国船が開国せよと近代化した蒸気船を乗り付けて要求して来るなんて、家慶もたった一人の障害のある跡取り息子家定がこの内憂外患の危機に対応できるとは思っていなかったはず、慶喜を一橋家にまで迎えていたのに、その後将軍継嗣に決断していればと考えてしまいますね。