今回は徳川家慶を取り上げるぞ。子沢山将軍の父の陰に隠れた将軍ですが、どんな人だったか一応知っておきたいよな。

その辺のところを幕末と徳川将軍家に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸幕府の将軍や殿様にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川家慶について、5分でわかるようにまとめた。

 

1-1、徳川家慶は、11代将軍家斉の次男

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徳川家慶(いえよし)は、寛政5年(1793年)、11代将軍家斉の次男として江戸城で誕生。母は小姓押田敏勝の娘で、側室のお楽の方。幼名は敏次郎、長男の竹千代が早世したために将軍継嗣となり、元服して家慶に。家慶の父家斉は55人の子持ちで、そのうち25人が成人した子沢山将軍。

1-2、家慶、17歳で有栖川宮喬子女王と結婚

喬子女王(たかこじょおう)は、寛政7年(1795年)生まれで有栖川宮織仁親王の6女、幼称は楽宮(さざのみや)、妹は吉子女王(貞芳院、水戸藩主斉昭御簾中で慶喜生母)。

享和3年(1803年)に家慶と婚約、翌文化元年(1804年)、喬子女王は10歳で江戸へ下向して5年間を江戸城西の丸で過ごし、文化6年(1810年)に17歳の家慶と正式に婚姻。長男竹千代、次女儔姫、3女最玄院が生まれたが夭折。天保8年(1837年)、家慶が将軍になると本丸大奥に移って、御台所に。天保11年(1840年)、46歳で死去。

尚、家慶は側室が8人、子女は家定、慶昌ら14男13女をもうけたが、成人したのは家定一人。

1-3、家慶、45歳で12代将軍に

天保8年(1837年)、家慶は45歳で父家斉から将軍職を譲られたが、家慶は本丸へ家斉は西の丸にと入れ替わっただけで、家斉は依然として大御所として強大な発言権を保持。そして天保12年(1841年)に 家斉が亡くなると、家慶は4男家定を将軍継嗣に決定、老中首座の水野忠邦を重用して家斉派前将軍の側近、水野忠篤、美濃部茂育(もちなる)、中野清茂を追放。老中水野忠邦に天保の改革を行わせることに。

2-1、天保の改革とは

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椿 椿山 - http://www.lib.metro-u.ac.jp/mizuno/mizuno.files/image/org/mi000004.jpg, Caption, パブリック・ドメイン, リンクによる

家慶の時代は、前任の父家斉の大御所政治の放漫経営で財政が圧迫されたこと、飢饉がたびたび起こって年貢米収入が激減、そして異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かすという、問題山積。

大御所家斉の在世中は、水野忠篤、林忠英、美濃部茂育(天保の三侫人)をはじめとする家斉側近が権力を握っていて、老中水野忠邦は改革を開始できなかったが、 天保8年(1837年)4月、やっと家慶が12代将軍に就任。天保12年(1841年)閏1月、大御所家斉死去で、家斉の側近たちを罷免、忠邦は、遠山景元(金さんでおなじみ)、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵(ようぞう)、渋川敬直、後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手。天保の改革は「享保、寛政の政治に復帰するよう努力せよ」という覚書を申し渡したうえに、「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めたという早急なもの。

まず、質素倹約はもちろんのこと、飢饉のため農村から多数農民が逃散し、江戸に流入している状況を改善し、農村を復興するために人返し令を発し、大御所時代の贅沢で俗っぽい風潮をただすために、奢侈禁止、風俗粛正令を、また、物価騰貴の原因が株仲間にあるとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施。その一方で低質な貨幣濫造で幕府財政の欠損を補う政策をとったのが災いして、物価引下げと相反する結果をもたらしたということ。

忠邦の腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し緩和したので、庶民の人気を得、後に「入れ墨奉行遠山の金さん」話の主人公に。また、忠邦は天保14年(1843年)9月、上知令(あげち、じょうち)を断行しようとして大名と旗本の反対に遭い、腹心の鳥居が上知令反対派の老中土井利位に寝返り機密文書を渡すなどで、閏9月13日に忠邦は老中を罷免されてわずか2年で失脚。忠邦の改革はかなり過激だったので、楽しみを奪われた庶民の怨みを買い、失脚時は暴徒化した江戸庶民が忠邦邸を襲撃したそう。

2-2、天保の改革、その後

尚、 翌年の弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災で焼失した際。水野の後任の老中首座土井利位(としつら)は、諸大名から再建費用の献金を充分に集めらず、家慶の不興を買い、また外国問題の紛糾なども理由にして忠邦を老中首座に再任したが、忠邦は重要な任務を与えられず、病気を理由に欠勤ばかり、しかしながら自分を裏切った土井、鳥居らに報復はしっかりと行い、土井は老中を辞任し、鳥居は罷免に。

また老中阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、天保改革時代の鳥居、後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚。弘化2年(1845年)9月、忠邦は合計2万石を没収となり、家督は長男水野忠精に継承して強制隠居謹慎、おまけに出羽国山形藩に懲罰的転封に。また転封に際して、忠邦らは領民の借金を返さないまま山形へ転封しようとしたため、領民の怒りが爆発して大規模な一揆になったが、新領主の井上正春が調停して鎮めたということ。尚、10月末、鳥居と渋川はお預け、後藤は斬首の刑。

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3-1、家慶の時代に起こった主な事件

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家慶の時代は、天保の飢饉で餓死者続出、大塩平八郎の乱などの大規模な一揆なども起き、外国船は頻繁にやって来るようになり、アヘン戦争は起こるなどで、新進の考えを持つ蘭学者が幕府の政策を批判するようになると弾圧し、そして真打のペリーの黒船来航と色々な事件が起こって、江戸幕府の終わりの始まりが開始された時代です。

3-2、モリソン号事件

天保8年(1837年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件。

鹿児島湾、ついで浦賀沖にあらわれたアメリカの商船モリソン号 に対して、薩摩藩や浦賀奉行太田資統が、異国船打払令に基づいた砲撃(江戸湾での砲撃は小田原藩と川越藩)を行い、日本領海から立ち退くよう警告したが、モリソン号にはマカオで保護された日本人漂流民、音吉、庄蔵、寿三郎ら7人が乗っていて、モリソン号としては日本人漂流民の送還と、通商、キリスト教の布教のために来航したということが1年後に判明して、国内では異国船打払令に対する強い批判が。

そして当時はイギリス軍艦と思われていたモリソン号が、非武装のアメリカ商船だということもあり、「慎機論」を著した渡辺崋山、「戊戌夢物語」を著した高野長英ら蘭学者が幕府の対外政策を批判したとして逮捕されるという事件(蛮社の獄)に発展。

3-3、モリソン号事件の影響

もともと19世紀初頭から、ロシア帝国のニコライ・レザノフをはじめ、外国船が日本に通商を求めて来航するように。しかし鎖国を貫く徳川家斉統治下の幕府は、文化3年(1806年)に「文化の薪水給与令」を出して、来航した外国船を穏便に出国させる方向性を打ち出したが、翌年の文化露寇でロシア船に樺太や択捉島など北方の日本側の拠点に武力攻撃を受けたので、ロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回。

文化5年(1808年)10月には長崎港でオランダ船のふりをしたイギリス軍艦フェートン号乱入事件が起き、文政7年(1824年)では水戸藩の大津浜にイギリス人船員が上陸した事件、薩摩藩の宝島にイギリスの捕鯨船員が上陸、牛を強奪しようとして島民と交戦状態になった事件や、同年、水戸の漁民が数年前から初夏の頃に沖合で操漁中の欧米の捕鯨船乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、300人余りが取り調べを受けた事件が起こったため、文政8年(1825年)に異国船打払令が発令。

しかしモリソン号事件を契機に国内で批判が高まったうえに、天保11年(1840年)のアヘン戦争で清国の敗北での南京条約締結に驚いた江戸幕府は政策を転換、天保13年(1842年)に、遭難した船に限って給与を認める「天保の薪水給与令」を発令。

3-4、大塩平八郎の乱

天保8年(1837年)に、大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱。旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱以来200年ぶりだが、わずか一日で鎮圧。

この頃、6年以上続いた天保の飢饉(全国で20万人から30万人が餓死)で、農村の被害は深刻だったが、本来は米をはじめとして各地から産物が集まってくる天下の台所の大坂でさえも食糧不足が深刻で、毎日100人以上の餓死者が出たそう。町奉行所は有効な対策を立てないうえに、町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の弟)は、豪商から買った米を江戸の新将軍就任のために送るという暴挙に出る始末。そして米価が高騰すると、豪商が米を買い占め、売り惜しみをしてさらに値を釣り上げていったので、怒った庶民たちは豪商などを襲撃する打ちこわしを。

元与力で私塾洗心洞を経営していた陽明学者の大塩平八郎は、自分の考えた「飢饉救済策」を何度も町奉行跡部に訴えたが、意見を聞いてもらえず、ついに蔵書を売却して困った人々に食料を与え、近隣の農民には「豪商に天誅を加えるべし」と乱への参加を促し、また大坂市中に「火災が起きたときは天満に駆け付けよ」と檄文を配布、乱の準備を整えて門弟たちと決起。

二人の大坂町奉行が顔を合わせる日に会合場所を襲撃し爆破するという計画だったが、決起の直前に参加者の一人が裏切って町奉行に通報し、計画が漏れたのを知った大塩平八郎は予定変更で豪商の屋敷を襲撃したが、待ち受けていた奉行所側は大塩平八郎の手勢を打ち破って、その結果、大塩平八郎は逃亡。首謀者たちは自害したり、拘留中に死亡し、大塩平八郎も1か月後に潜伏先を突き止められて爆死。遺体は塩漬けにされ磔に。しかし大塩平八郎の乱は幕府に危機感を持たせ、天保の改革のきっかけになったということ。

\次のページで「3-5、蛮社の獄」を解説!/

3-5、蛮社の獄

蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年)5月に起きた蘭学者への言論弾圧事件のことで高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、幕府によって投獄されることに。

3-6、お由羅騒動

薩摩藩の島津家のお家騒動、別名は高崎崩れ、嘉永朋党事件。藩主島津斉興の後継者として側室お由羅の子久光を藩主にしようとする一派と嫡子島津斉彬を藩主に推す一派との争い。

斉興には、すでに40代で名君との誉れ高い長男斉彬がいたが、斉興は自分の父で蘭癖大名だった重豪の影響が強い斉彬を嫌い、側室お由羅の息子久光を藩主にと画策、それが家臣を二分しての争いに。斉興は斉彬を廃嫡したいと思ったが、斉彬はすでに将軍へのお目見えも終了して後継ぎと決定し、しかも将軍家斉の弟で御三卿の一橋家当主斉敦の娘の英姫を正室に迎えていたので廃嫡は不可能。しかしどうしても斉彬に跡を継がせたくない斉興は、藩主に居座り続けたそう。

斉彬は、自分を支持し、藩主斉興と藩政担当の調所広郷の倹約政策に反発する若手藩士たちと結束し、嘉永元年(1848年)、琉球での密貿易を老中阿部正弘に密告、阿部の事情聴取を受けた調所は服毒自殺に追い込まれたが、斉興は隠居せず。嘉永2年(1849年)には、に血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えず、同年12月には斉彬派の重鎮たちが久光、お由羅、取り巻きの重臣らの暗殺謀議で切腹、他の約50名が蟄居、遠島などの処分を受けたが、この処分を逃れて脱藩した一部の斉彬派の藩士が、前藩主重豪の息子で斉彬の年下の大叔父の福岡藩主黒田長溥(ながひろ)に駆け込んだということ。

黒田長溥は実家の騒動に介入、斉興の藩士引き渡し要求も拒絶して、実弟の八戸藩主南部信順、世話好きの宇和島藩主伊達宗城(むねなり)と福井藩主松平慶永らにも事態の収拾を求めて、老中阿部正弘に事態の収拾を訴えたということ。老中阿部も以前から斉彬を買っていたので、将軍家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請。

家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促したということ(「隠居して茶などたしなむがよい」という意向によるものとみなされ、茶器や十徳を賜るのは隠退勧告とされた)。将軍命令には斉興も拒絶できずに、嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、ついに斉興は42年勤めた藩主を心ならずも隠居、家督を斉彬に譲ったそう。

ちなみに騒動の首謀者とされていたお由羅の方はその後特に大きな処分はなく、慶応2年(1866年)に鹿児島で死去、斉彬も弟久光とは普通に行き来をして、久光の息子を自分の娘と婚約させるなど、家をまとめたということ。

3-7、アヘン戦争の情報が入る

アヘン戦争とは、天保12年(1840年)に起きた清国とイギリスの戦争。

清に対してアヘンの密輸販売で大儲けしていたイギリスと、アヘンを禁止していた清国との間で2年間行われてイギリスが勝利し、清国に不平等な南京条約を結び、公行という特定の商人しか貿易できない制度を廃止、自由貿易に転換しこれまで開かれていた広州、厦門、寧波の3港に加え福州、上海を加えた5港が自由貿易港となり、清国は2180万ドルの莫大な賠償金と、香港のイギリス割譲も受け入れ、アヘン戦争によって清国の権威は地に堕ちて欧米諸国の言いなりに、清国内は、増税の影響で太平天国の乱という大反乱が起きて国内情勢も不安定になったということ。

このアヘン戦争の情報は、かなり早く日本に伝わり、インテリ層は驚愕して攘夷運動に走ることになり、雄藩は藩政改革を行い海防や近代化に励んで幕末に突入。

3-8、ペリーの黒船来航

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マシュー・ブレイディ - metmuseum.org, パブリック・ドメイン, リンクによる

じつは嘉永5年(1852年)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが長崎奉行に、アメリカ合衆国が日本との条約締結を求めて艦隊を派遣することが記載された「別段風説書」を提出。中国周辺のアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名、司令官がペリーであること、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載の噂があり、出航は4月下旬以降になるだろうことまで伝えたそう。さらに、オランダ領東インド総督バン・トゥイストからは、長崎奉行宛の親書として、「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許可。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎の5か所の商人に限る」など10項目にわたって、アメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案が書かれていたということ。

また天保15年(1844年)にオランダ政府は、江戸幕府に鎖国を解くようにというオランダ国王の親書を軍艦で届けたのですが、この後も開国されなかったので国王は失望しているが、もし戦争になればオランダ人にも影響が及びかねないなどの懸念を表していたそう。

老中首座阿部正弘は、この親書を溜間詰の譜代大名に回覧し、海岸防禦御用掛(海防掛)にも意見を聞いたが、通商条約は結ぶべきではないと意見が一致、でも三浦半島の防備を強化するために川越藩と彦根藩の兵を増やした程度。

アメリカ政府はペリーの日本派遣を決めるや、オランダ駐在アメリカ代理公使を通じて、通商交渉使節の派遣と、平和的な目的をオランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼。

ということで、前もってペリーの来航は、オランダを通じて予告されていたのですが、嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航。ペリー艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年、日米和親条約締結に。

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3-9、家慶、ペリーショックで急死

その後、家慶は土井利位、阿部正弘、筒井政憲らに政治を任せ、弘化元年(1844年)、水戸藩主徳川斉昭を鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などの罪で、家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分に。

また、斉昭の7男で家慶の正室の妹の息子で幼いときから秀才の呼び声高かった七郎磨(慶喜)に一橋家を相続させ、将軍継嗣にするつもりもあったが、はっきりと決断する前に、嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に享年61歳で死去。暑気当たりで倒れた、つまり熱中症による心不全が死因だということ。病弱で障害のあった、たった一人成人した4男の家定が後を継いで12代将軍に。

4-1、家慶の逸話

家慶は、絵を描く趣味があった、父家斉と同じく焼き魚の添え物になる生姜が大好物だったが、天保の改革で倹約のために食膳に生姜が消えたことに憤慨したなど、色々な逸話があります。

4-2、凡庸と言われつつ、人を見る目はあった

田安家の出身で家慶の従弟にあたる松平春嶽(慶永)は、家慶を「逸事史補」で「凡庸の人」と評しているということ。内憂外患の時勢に将軍になったのに、趣味に没頭し幕政に疎い家臣が意見を聞いても「そうせい」と言うだけなので、「そうせい様」と渾名された家慶は、父家斉の世子時代が長く、将軍になっても家斉が大御所時代として実権を握っていたため、そう答えるしかなかったという見方も。

しかし家慶は人材を見る眼と登用時期を見極める判断は持っていたようで、家斉の50年にわたる治世で幕政が腐敗したが、家斉の死後その腹心たちを一掃し、水野忠邦に天保の改革を行わせ、改革の失敗後は後任に24歳だった阿部正弘を老中に大抜擢したことは評価に値するということ。

また天保11年(1840年)に、将軍家斉の実子斉省を養子にとった川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福な庄内藩領地への転封を幕閣に働きかけたことで、武蔵国川越藩主松平斉典を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封という三方領知替えとなったが、庄内藩の士民の猛烈な抵抗にあったうえ、翌年、家斉が死亡すると諸大名の間でも不満が高まったので、同年7月に家慶の「天意人望に従う」とする判断で中止にしたのは、家慶の将軍としての決断力を物語るのでは。

また、水戸斉昭と正室の妹の息子である慶喜を一橋家の養子にしたのち、将軍継嗣にと考えていたのに阿部に反対され、実現するまえに急死したが、もし決断していれば安政の大獄がなかったかもと考えると、暗君と言い切れない気が。「続徳川実紀」には「性質沈静謹粛にして、才良にましまし」と評が。

4-3、実物もほぼ肖像画の通り

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不明(狩野派の絵師) - The Japanese book "Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household", パブリック・ドメイン, リンクによる

戦後に発掘調査された「増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体」によれば、家慶は歴代将軍の中でも推定身長は154.4センチと小柄で、頭が大変大きく、六頭身で顎が長かったそう。現存する肖像画は家慶の生前の特徴をかなり忠実に描写したものだそうで、毛髪等の調査の結果、血液型はB型だということ。

そうせい様と言われ老中に任せていたようでも、意外な決断が的を射ていた

12代将軍家慶は、元気で長生きした父家斉のおかげで46歳になるまで将軍を譲ってもらえず、やっと将軍になっても大御所として父とその一派が権勢をふるうのを横で見ているだけ。

しかしその間、きっとあれをやろうこれをと考えていたのでしょう、父家斉の没後は、水野忠邦とタッグを組んで贅沢三昧の財政を引き締め、あれもこれもと急に詰め込みどれもこれも早急過ぎて天保の改革は庶民の怒りを買って失敗。しかし水野で失敗後、後任の老中阿部正弘の抜擢は評価されているということ。

このように国内だけでも大変なのに、外国船が開国せよと近代化した蒸気船を乗り付けて要求して来るなんて、家慶もたった一人の障害のある跡取り息子家定がこの内憂外患の危機に対応できるとは思っていなかったはず、慶喜を一橋家にまで迎えていたのに、その後将軍継嗣に決断していればと考えてしまいますね。

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幕末日本史歴史江戸時代

天保の改革を行わせた幕末12代将軍「徳川家慶」について歴女がわかりやすく解説

3-9、家慶、ペリーショックで急死

その後、家慶は土井利位、阿部正弘、筒井政憲らに政治を任せ、弘化元年(1844年)、水戸藩主徳川斉昭を鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などの罪で、家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分に。

また、斉昭の7男で家慶の正室の妹の息子で幼いときから秀才の呼び声高かった七郎磨(慶喜)に一橋家を相続させ、将軍継嗣にするつもりもあったが、はっきりと決断する前に、嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に享年61歳で死去。暑気当たりで倒れた、つまり熱中症による心不全が死因だということ。病弱で障害のあった、たった一人成人した4男の家定が後を継いで12代将軍に。

4-1、家慶の逸話

家慶は、絵を描く趣味があった、父家斉と同じく焼き魚の添え物になる生姜が大好物だったが、天保の改革で倹約のために食膳に生姜が消えたことに憤慨したなど、色々な逸話があります。

4-2、凡庸と言われつつ、人を見る目はあった

田安家の出身で家慶の従弟にあたる松平春嶽(慶永)は、家慶を「逸事史補」で「凡庸の人」と評しているということ。内憂外患の時勢に将軍になったのに、趣味に没頭し幕政に疎い家臣が意見を聞いても「そうせい」と言うだけなので、「そうせい様」と渾名された家慶は、父家斉の世子時代が長く、将軍になっても家斉が大御所時代として実権を握っていたため、そう答えるしかなかったという見方も。

しかし家慶は人材を見る眼と登用時期を見極める判断は持っていたようで、家斉の50年にわたる治世で幕政が腐敗したが、家斉の死後その腹心たちを一掃し、水野忠邦に天保の改革を行わせ、改革の失敗後は後任に24歳だった阿部正弘を老中に大抜擢したことは評価に値するということ。

また天保11年(1840年)に、将軍家斉の実子斉省を養子にとった川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福な庄内藩領地への転封を幕閣に働きかけたことで、武蔵国川越藩主松平斉典を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封という三方領知替えとなったが、庄内藩の士民の猛烈な抵抗にあったうえ、翌年、家斉が死亡すると諸大名の間でも不満が高まったので、同年7月に家慶の「天意人望に従う」とする判断で中止にしたのは、家慶の将軍としての決断力を物語るのでは。

また、水戸斉昭と正室の妹の息子である慶喜を一橋家の養子にしたのち、将軍継嗣にと考えていたのに阿部に反対され、実現するまえに急死したが、もし決断していれば安政の大獄がなかったかもと考えると、暗君と言い切れない気が。「続徳川実紀」には「性質沈静謹粛にして、才良にましまし」と評が。

4-3、実物もほぼ肖像画の通り

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不明(狩野派の絵師) – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる

戦後に発掘調査された「増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体」によれば、家慶は歴代将軍の中でも推定身長は154.4センチと小柄で、頭が大変大きく、六頭身で顎が長かったそう。現存する肖像画は家慶の生前の特徴をかなり忠実に描写したものだそうで、毛髪等の調査の結果、血液型はB型だということ。

そうせい様と言われ老中に任せていたようでも、意外な決断が的を射ていた

12代将軍家慶は、元気で長生きした父家斉のおかげで46歳になるまで将軍を譲ってもらえず、やっと将軍になっても大御所として父とその一派が権勢をふるうのを横で見ているだけ。

しかしその間、きっとあれをやろうこれをと考えていたのでしょう、父家斉の没後は、水野忠邦とタッグを組んで贅沢三昧の財政を引き締め、あれもこれもと急に詰め込みどれもこれも早急過ぎて天保の改革は庶民の怒りを買って失敗。しかし水野で失敗後、後任の老中阿部正弘の抜擢は評価されているということ。

このように国内だけでも大変なのに、外国船が開国せよと近代化した蒸気船を乗り付けて要求して来るなんて、家慶もたった一人の障害のある跡取り息子家定がこの内憂外患の危機に対応できるとは思っていなかったはず、慶喜を一橋家にまで迎えていたのに、その後将軍継嗣に決断していればと考えてしまいますね。

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