3-1、家慶の時代に起こった主な事件
家慶の時代は、天保の飢饉で餓死者続出、大塩平八郎の乱などの大規模な一揆なども起き、外国船は頻繁にやって来るようになり、アヘン戦争は起こるなどで、新進の考えを持つ蘭学者が幕府の政策を批判するようになると弾圧し、そして真打のペリーの黒船来航と色々な事件が起こって、江戸幕府の終わりの始まりが開始された時代です。
3-2、モリソン号事件
天保8年(1837年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件。
鹿児島湾、ついで浦賀沖にあらわれたアメリカの商船モリソン号 に対して、薩摩藩や浦賀奉行太田資統が、異国船打払令に基づいた砲撃(江戸湾での砲撃は小田原藩と川越藩)を行い、日本領海から立ち退くよう警告したが、モリソン号にはマカオで保護された日本人漂流民、音吉、庄蔵、寿三郎ら7人が乗っていて、モリソン号としては日本人漂流民の送還と、通商、キリスト教の布教のために来航したということが1年後に判明して、国内では異国船打払令に対する強い批判が。
そして当時はイギリス軍艦と思われていたモリソン号が、非武装のアメリカ商船だということもあり、「慎機論」を著した渡辺崋山、「戊戌夢物語」を著した高野長英ら蘭学者が幕府の対外政策を批判したとして逮捕されるという事件(蛮社の獄)に発展。
3-3、モリソン号事件の影響
もともと19世紀初頭から、ロシア帝国のニコライ・レザノフをはじめ、外国船が日本に通商を求めて来航するように。しかし鎖国を貫く徳川家斉統治下の幕府は、文化3年(1806年)に「文化の薪水給与令」を出して、来航した外国船を穏便に出国させる方向性を打ち出したが、翌年の文化露寇でロシア船に樺太や択捉島など北方の日本側の拠点に武力攻撃を受けたので、ロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回。
文化5年(1808年)10月には長崎港でオランダ船のふりをしたイギリス軍艦フェートン号乱入事件が起き、文政7年(1824年)では水戸藩の大津浜にイギリス人船員が上陸した事件、薩摩藩の宝島にイギリスの捕鯨船員が上陸、牛を強奪しようとして島民と交戦状態になった事件や、同年、水戸の漁民が数年前から初夏の頃に沖合で操漁中の欧米の捕鯨船乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、300人余りが取り調べを受けた事件が起こったため、文政8年(1825年)に異国船打払令が発令。
しかしモリソン号事件を契機に国内で批判が高まったうえに、天保11年(1840年)のアヘン戦争で清国の敗北での南京条約締結に驚いた江戸幕府は政策を転換、天保13年(1842年)に、遭難した船に限って給与を認める「天保の薪水給与令」を発令。
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3-4、大塩平八郎の乱
天保8年(1837年)に、大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱。旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱以来200年ぶりだが、わずか一日で鎮圧。
この頃、6年以上続いた天保の飢饉(全国で20万人から30万人が餓死)で、農村の被害は深刻だったが、本来は米をはじめとして各地から産物が集まってくる天下の台所の大坂でさえも食糧不足が深刻で、毎日100人以上の餓死者が出たそう。町奉行所は有効な対策を立てないうえに、町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の弟)は、豪商から買った米を江戸の新将軍就任のために送るという暴挙に出る始末。そして米価が高騰すると、豪商が米を買い占め、売り惜しみをしてさらに値を釣り上げていったので、怒った庶民たちは豪商などを襲撃する打ちこわしを。
元与力で私塾洗心洞を経営していた陽明学者の大塩平八郎は、自分の考えた「飢饉救済策」を何度も町奉行跡部に訴えたが、意見を聞いてもらえず、ついに蔵書を売却して困った人々に食料を与え、近隣の農民には「豪商に天誅を加えるべし」と乱への参加を促し、また大坂市中に「火災が起きたときは天満に駆け付けよ」と檄文を配布、乱の準備を整えて門弟たちと決起。
二人の大坂町奉行が顔を合わせる日に会合場所を襲撃し爆破するという計画だったが、決起の直前に参加者の一人が裏切って町奉行に通報し、計画が漏れたのを知った大塩平八郎は予定変更で豪商の屋敷を襲撃したが、待ち受けていた奉行所側は大塩平八郎の手勢を打ち破って、その結果、大塩平八郎は逃亡。首謀者たちは自害したり、拘留中に死亡し、大塩平八郎も1か月後に潜伏先を突き止められて爆死。遺体は塩漬けにされ磔に。しかし大塩平八郎の乱は幕府に危機感を持たせ、天保の改革のきっかけになったということ。
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