幕末日本史歴史江戸時代

天保の改革を行わせた幕末12代将軍「徳川家慶」について歴女がわかりやすく解説

今回は徳川家慶を取り上げるぞ。子沢山将軍の父の陰に隠れた将軍ですが、どんな人だったか一応知っておきたいよな。

その辺のところを幕末と徳川将軍家に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸幕府の将軍や殿様にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川家慶について、5分でわかるようにまとめた。

 

1-1、徳川家慶は、11代将軍家斉の次男

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徳川家慶(いえよし)は、寛政5年(1793年)、11代将軍家斉の次男として江戸城で誕生。母は小姓押田敏勝の娘で、側室のお楽の方。幼名は敏次郎、長男の竹千代が早世したために将軍継嗣となり、元服して家慶に。家慶の父家斉は55人の子持ちで、そのうち25人が成人した子沢山将軍。

1-2、家慶、17歳で有栖川宮喬子女王と結婚

喬子女王(たかこじょおう)は、寛政7年(1795年)生まれで有栖川宮織仁親王の6女、幼称は楽宮(さざのみや)、妹は吉子女王(貞芳院、水戸藩主斉昭御簾中で慶喜生母)。

享和3年(1803年)に家慶と婚約、翌文化元年(1804年)、喬子女王は10歳で江戸へ下向して5年間を江戸城西の丸で過ごし、文化6年(1810年)に17歳の家慶と正式に婚姻。長男竹千代、次女儔姫、3女最玄院が生まれたが夭折。天保8年(1837年)、家慶が将軍になると本丸大奥に移って、御台所に。天保11年(1840年)、46歳で死去。

尚、家慶は側室が8人、子女は家定、慶昌ら14男13女をもうけたが、成人したのは家定一人。

1-3、家慶、45歳で12代将軍に

天保8年(1837年)、家慶は45歳で父家斉から将軍職を譲られたが、家慶は本丸へ家斉は西の丸にと入れ替わっただけで、家斉は依然として大御所として強大な発言権を保持。そして天保12年(1841年)に 家斉が亡くなると、家慶は4男家定を将軍継嗣に決定、老中首座の水野忠邦を重用して家斉派前将軍の側近、水野忠篤、美濃部茂育(もちなる)、中野清茂を追放。老中水野忠邦に天保の改革を行わせることに。

2-1、天保の改革とは

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椿 椿山 – http://www.lib.metro-u.ac.jp/mizuno/mizuno.files/image/org/mi000004.jpg, Caption, パブリック・ドメイン, リンクによる

家慶の時代は、前任の父家斉の大御所政治の放漫経営で財政が圧迫されたこと、飢饉がたびたび起こって年貢米収入が激減、そして異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かすという、問題山積。

大御所家斉の在世中は、水野忠篤、林忠英、美濃部茂育(天保の三侫人)をはじめとする家斉側近が権力を握っていて、老中水野忠邦は改革を開始できなかったが、 天保8年(1837年)4月、やっと家慶が12代将軍に就任。天保12年(1841年)閏1月、大御所家斉死去で、家斉の側近たちを罷免、忠邦は、遠山景元(金さんでおなじみ)、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵(ようぞう)、渋川敬直、後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手。天保の改革は「享保、寛政の政治に復帰するよう努力せよ」という覚書を申し渡したうえに、「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めたという早急なもの。

まず、質素倹約はもちろんのこと、飢饉のため農村から多数農民が逃散し、江戸に流入している状況を改善し、農村を復興するために人返し令を発し、大御所時代の贅沢で俗っぽい風潮をただすために、奢侈禁止、風俗粛正令を、また、物価騰貴の原因が株仲間にあるとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施。その一方で低質な貨幣濫造で幕府財政の欠損を補う政策をとったのが災いして、物価引下げと相反する結果をもたらしたということ。

忠邦の腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し緩和したので、庶民の人気を得、後に「入れ墨奉行遠山の金さん」話の主人公に。また、忠邦は天保14年(1843年)9月、上知令(あげち、じょうち)を断行しようとして大名と旗本の反対に遭い、腹心の鳥居が上知令反対派の老中土井利位に寝返り機密文書を渡すなどで、閏9月13日に忠邦は老中を罷免されてわずか2年で失脚。忠邦の改革はかなり過激だったので、楽しみを奪われた庶民の怨みを買い、失脚時は暴徒化した江戸庶民が忠邦邸を襲撃したそう。

2-2、天保の改革、その後

尚、 翌年の弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災で焼失した際。水野の後任の老中首座土井利位(としつら)は、諸大名から再建費用の献金を充分に集めらず、家慶の不興を買い、また外国問題の紛糾なども理由にして忠邦を老中首座に再任したが、忠邦は重要な任務を与えられず、病気を理由に欠勤ばかり、しかしながら自分を裏切った土井、鳥居らに報復はしっかりと行い、土井は老中を辞任し、鳥居は罷免に。

また老中阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、天保改革時代の鳥居、後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚。弘化2年(1845年)9月、忠邦は合計2万石を没収となり、家督は長男水野忠精に継承して強制隠居謹慎、おまけに出羽国山形藩に懲罰的転封に。また転封に際して、忠邦らは領民の借金を返さないまま山形へ転封しようとしたため、領民の怒りが爆発して大規模な一揆になったが、新領主の井上正春が調停して鎮めたということ。尚、10月末、鳥居と渋川はお預け、後藤は斬首の刑。

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