
2-4 当初は高い死亡率だった
実はナイチンゲールが評価されたのは、献身的な看護ではなく野戦病院での衛生環境の改善した点でした。ナイチンゲールの功績によって野戦病院内の死亡率が激的に下がったことはよく知られていることですが、意外なことに当初の死亡率は約43%とかなり高いものでした。そしてナイチンゲールらがトイレ掃除など、病院内の環境の改善を行うと、半年ほどで死亡率はわずか約2パーセントにまで減少。
これまでと変わらない薬品、医療品なのになぜでしょうか。ここに目を突けたナイチンゲール。彼女は統計学を用いて、野戦病院内の劣悪な環境の中で合併症を起こし亡くなった兵士が多いことを客観的に示し、政府を説得することに。ここで治療には病院内の環境を整えることも大切ということが証明されることに。こうして病院内での環境を改善させることに成功し、劇的に死亡率を下げたのでした。
3 統計によって近代看護の概念を変えた
白衣の天使やクリミアの天使と呼ばれたナイチンゲール。しかし彼女の最も大きな功績はクリミア戦争での献身的な看護ではありません。ここではクリミア戦争後の彼女の動きを見ていきましょう。
3-1 ヴィクトリア女王に謁見
ジョージ・ハイター – Royal Collection RCIN 401213; image; previous upload was here, パブリック・ドメイン, リンクによる
クリミア戦争から帰国した彼女は、従軍経験から陸軍全体の衛生改革が重要と考えるように。ところが改革という変化を役人や政治家は嫌うことに。そこで彼女は、統計学を武器にします。1856年にナイチンゲールはヴィクトリア女王に謁見。その際に、彼女は統計資料を持参し女王に改革の重要性について訴えることに。こうしてナイチンゲールは女王を味方につけて、勅撰改革委員会を設置することに働きかけることに成功しました。
ちなみにナイチンゲールは看護のイメージが強いですが、統計学の権威としても有名な人物。クリミア戦争から帰国した後に近代統計学の父とされるケトレー博士とも交流していました。そして国際統計会議で衛生統計の国際基準を採択することに尽力することに。このほかにも、アメリカの統計学会では名誉会員に、イギリスでは女性として初の王立統計協会会員に選ばれています。
3-2 戦略家としても長けていた
統計学によって客観的に衛生改革の重要性を示したナイチンゲール。しかし彼女のすごさはこれだけではありませんでした。当時勅撰改革委員会を立ち上げるには、陸軍大臣の命令がなければなりませんでした。しかし時の大臣、パンミュアは変化を嫌ったため設置案を放置。するとナイチンゲールは、3月以内に委員会を設置しないと自身のクリミア戦争での体験と改革試案を公表するとしたのです。
クリミア戦争では彼女が従軍したスクタリ以外にもいくつか野戦病院がありました。ところがナイチンゲールの活躍に嫉妬した軍医らが彼女の権限を制約したため、他の野戦病院の環境が改善されないまま多くの死者を出すことに。この件をパンミュアは黙認していました。つまり、ナイチンゲールの要求に従わないと、公表され自身の政治生命に影響が出ることを懸念したパンミュア。こうして彼はしぶしぶ設置に動くことになったのです。
3-3 ナイチンゲールが登場するまでの当時の看護の概念
ところで、ナイチンゲールが活躍するよりも以前の当時の看護はどういったものだったのでしょうか。
かつての病院の起源は中世のヨーロッパまで遡ります。当時はカトリック教会の修道院のシスターが病気になった人々の世話をしていました。ところが16世紀の宗教改革によってプロテスタントが誕生すると、状況は変わることに。プロテスタントたちは、教会や修道院を否定。もちろんカトリック教会も残っていたため全ての病人ではないにしろ、病人は看病されぬまま死ぬことに。そして修道院での看病も今とはかなり違ったもの。単に病気になった人々を入れておくだけだったのです。
しかしナイチンゲールは自身の経験から、衛生に関する知識を持つ看護師の育成が大事だと考えるように。こうして彼女は看護学校を造ることに。クリミア戦争での高い名声のお陰で、彼女の元には多くの寄付金が寄せられることに。こうして次々に看護学校は造られ、優秀な看護師が誕生していきました。
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