今回はランプの貴婦人と呼ばれた、ナイチンゲールについてです。

彼女はイギリス人で、陸軍大臣から任命されてクリミア戦争へ従軍することに。そして病院内で懸命に看護したことで知られ、その後看護学校を設立し近代看護の道を拓いた女性です。

そんなナイチンゲールの生涯をイギリスの歴史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパの歴史に関心があり、特にロシアとイギリス、フランス、オスマン帝国が戦ったクリミア戦争からナイチンゲールを知り興味を持った歴女。今回はそんな歴女のまぁこがナイチンゲールの生い立ちや彼女の偉業を解説していく。

1 ナイチンゲールの生い立ち

image by iStockphoto

ナイチンゲールは19世紀に登場した人物。ナイチンゲールといえば、戦場の病院で献身的な看護をし、ランプの貴婦人と呼ばれた女性ですよね。彼女はイギリスの陸軍大臣から任命され、クリミア戦争に赴くことに。そしてこれまでの看護の常識を覆し、近代看護を確立することになりました。ところでナイチンゲールはどんな女性だったのでしょうか。ここでは、フローレンス・ナイチンゲールの生い立ちについて詳しく見ていきます。

1-1 誕生

ナイチンゲールは裕福な両親の元に次女として生まれました。当時のヨーロッパ社会ではお金持ちの家の若い人々は教養を付けるため、ヨーロッパ中をグランドツアーとして周ることが当たり前。ちなみに彼女の両親はそのグランドツアーとして3年間余りヨーロッパ各国を周っていたそう。その際に、2人の女の子を授かることに。ナイチンゲールの正式名は、フローレンス・ナイチンゲールこのフローレンスという名は、生まれた時にフィレンツェにいたため。ナイチンゲールの姉も同様に生まれた土地の名から名前を取っています。

1-2 父からの英才教育を受ける姉妹

ナイチンゲールと彼女の姉は父から英才教育を受けることに。ちなみにどんな教育を受けたのかというと、言語ではドイツ語、フランス語、イタリア語、ギリシャ語、そしてラテン語までも。言語だけではなく、ナイチンゲールの父はイタリア語で16世紀の詩(タッソー)を朗読し、数学や歴史、哲学までも彼女たちにレクチャーしたそう。これほどまでに知識のある父はそうそういないですよね。ちなみにナイチンゲールはこれらの教育の中で数学や統計学に興味を持ったそう。これが後に大きな成果を遂げることに。

1-3 ある時神の声を聞くことに

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ナイチンゲールに転機が訪れたのは16歳の時。神から「私に仕えなさい」という声を聞いたのです。神の声が聞けたのは、彼女が敬虔なカトリック信者だったからかもしれません。そして裕福な家庭だったため、気持ちにゆとりがあったから聞けたのかもしれませんね。ちなみにマザー・テレサも同様に神の声を聞いたそう

ナイチンゲールは通っていた教会で行っていた慈善活動の一つだった病院での病人の看護をしていく内に、病気で苦しんでいる人々を助けることが自分のやるべきことだと悟ることに。こうしてナイチンゲールは両親に隠れてこっそりと医学や看護の勉強をするようになりました。

1-4 生涯独身を貫く

ナイチンゲールは生涯を通して結婚しなかった人物でした。彼女の両親は素敵な男性と結婚をしてほしいと考えていたようで、ナイチンゲールは17歳でヨーロッパ旅行へ。そしてパリの社交界にデビューすることに。しかしナイチンゲールはちやほやされればされるほど、ここは自分の居場所ではないと考えるように。

ちなみに26歳の時に彼女はある男性からプロポーズをされることに。ところが彼女は、「私にはやるべきことがある。神の道に進まなければならない」と言って断ります。ところが男性も諦められず、その2年後に再度プロポーズ。これもまた断ったナイチンゲールでしたが、彼女の本心は彼のことが好きだったそう。しかし神が命じた道に進むことが第一と考えた彼女は断ったのでした。ちなみにその後別の男性からもプロポーズされましたが、また断ると、その男性はなんとナイチンゲールの姉と結婚したそう。

\次のページで「2 クリミア戦争へ」を解説!/

2 クリミア戦争へ

Nightingale-illustrated-london-news-feb-24-1855.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

病人たちを救うことが神から命じられたことと信じたナイチンゲール。こうして彼女は医学と看護の勉強に励むことに。彼女に転機が訪れたのは、1854年に起こったクリミア戦争。この戦争でナイチンゲールは従軍して負傷した兵を看護することに。それでは詳しい経緯について見ていきましょう。

2-1 クリミア戦争とは?

ところでクリミア戦争とはどんな戦争だったのでしょうか。この戦争は不凍港を求めて南下政策を進めたアレクサンドル2世率いるロシアと、オスマン帝国とイギリス、フランスの戦いのこと。なぜイギリスはこの戦争に参戦することになったのでしょうか。

ロシアは南下政策でオスマン帝国に勝利してボスポラス海峡を抜けて地中海へ進出することを狙っていたのです。一方イギリスはインドを押さえ北に向かって領土を拡大しようとしていました。こうして両者が領土の奪い合いをしたため、互いに戦うことに。ちなみにこの様子を揶揄して、「グレート・チェスゲーム」と呼ばれるように。

2-2 ナイチンゲール、任命される

ナイチンゲールは当時の陸軍大臣だったシドニー・ハーバートから「クリミア戦争で負傷した兵のために看護団を率いて現地へ向かってほしい」と要請されることに。

しかしナイチンゲールの家族は反対。良家の娘が病人や貧しい人を助けることに抵抗感を感じたため。当時の社会では女性は働くものではないと考えられていました。働かないといけない女性は、卑しいとされていた時代。家族からの反発もうなずけますね。ところが大臣から「総監督」という肩書を授けられると、一変。彼女の家族は応援することに。また若い女性が年配の女性を引き連れて戦地で傷ついた兵士たちを看病するために赴くことから、イギリス中が彼女を英雄視し熱狂することに。こうして激励を受けたナイチンゲールの一団は戦地へと向かうことに。

2-3 熱烈な激励を受けたものの、戦地では…

ナイチンゲールは体力があって年配の女性38人を伴って、戦地スクタリの野戦病院へ赴くことに。しかし現場の反応はとても冷たいものでした。軍医らはナイチンゲールらを徹底的に無視。これに対し看護婦らは憤慨することに。しかしナイチンゲールは冷静でした。彼女は他の看護婦らを宥め、軍医からの指示を待つように呼びかけます。そして指示を待っている間に、誰の仕事にもなっていなかったトイレ掃除しました。ナイチンゲールらが掃除をする前のトイレはとても不潔で、負傷した兵士らがこのトイレを使うことでかえって症状が悪化したり合併症を起こしたりする要因に。そして戦局が激しくなってくると、とうとう軍医らは彼女たちの助けを求めたのでした。

\次のページで「2-4 当初は高い死亡率だった」を解説!/

2-4 当初は高い死亡率だった

実はナイチンゲールが評価されたのは、献身的な看護ではなく野戦病院での衛生環境の改善した点でした。ナイチンゲールの功績によって野戦病院内の死亡率が激的に下がったことはよく知られていることですが、意外なことに当初の死亡率は約43%とかなり高いものでした。そしてナイチンゲールらがトイレ掃除など、病院内の環境の改善を行うと、半年ほどで死亡率はわずか約2パーセントにまで減少。

これまでと変わらない薬品、医療品なのになぜでしょうか。ここに目を突けたナイチンゲール。彼女は統計学を用いて、野戦病院内の劣悪な環境の中で合併症を起こし亡くなった兵士が多いことを客観的に示し、政府を説得することに。ここで治療には病院内の環境を整えることも大切ということが証明されることに。こうして病院内での環境を改善させることに成功し、劇的に死亡率を下げたのでした。

3 統計によって近代看護の概念を変えた

白衣の天使クリミアの天使と呼ばれたナイチンゲール。しかし彼女の最も大きな功績はクリミア戦争での献身的な看護ではありません。ここではクリミア戦争後の彼女の動きを見ていきましょう。

3-1 ヴィクトリア女王に謁見

Coronation portrait of Queen Victoria - Hayter 1838.jpg
ジョージ・ハイター - Royal Collection RCIN 401213; image; previous upload was here, パブリック・ドメイン, リンクによる

クリミア戦争から帰国した彼女は、従軍経験から陸軍全体の衛生改革が重要と考えるように。ところが改革という変化を役人や政治家は嫌うことに。そこで彼女は、統計学を武器にします。1856年にナイチンゲールはヴィクトリア女王に謁見。その際に、彼女は統計資料を持参し女王に改革の重要性について訴えることに。こうしてナイチンゲールは女王を味方につけて、勅撰改革委員会を設置することに働きかけることに成功しました。

ちなみにナイチンゲールは看護のイメージが強いですが、統計学の権威としても有名な人物。クリミア戦争から帰国した後に近代統計学の父とされるケトレー博士とも交流していました。そして国際統計会議で衛生統計の国際基準を採択することに尽力することに。このほかにも、アメリカの統計学会では名誉会員に、イギリスでは女性として初の王立統計協会会員に選ばれています。

3-2 戦略家としても長けていた

統計学によって客観的に衛生改革の重要性を示したナイチンゲール。しかし彼女のすごさはこれだけではありませんでした。当時勅撰改革委員会を立ち上げるには、陸軍大臣の命令がなければなりませんでした。しかし時の大臣、パンミュアは変化を嫌ったため設置案を放置。するとナイチンゲールは、3月以内に委員会を設置しないと自身のクリミア戦争での体験と改革試案を公表するとしたのです。

クリミア戦争では彼女が従軍したスクタリ以外にもいくつか野戦病院がありました。ところがナイチンゲールの活躍に嫉妬した軍医らが彼女の権限を制約したため、他の野戦病院の環境が改善されないまま多くの死者を出すことに。この件をパンミュアは黙認していました。つまり、ナイチンゲールの要求に従わないと、公表され自身の政治生命に影響が出ることを懸念したパンミュア。こうして彼はしぶしぶ設置に動くことになったのです。

3-3 ナイチンゲールが登場するまでの当時の看護の概念

ところで、ナイチンゲールが活躍するよりも以前の当時の看護はどういったものだったのでしょうか。

かつての病院の起源は中世のヨーロッパまで遡ります。当時はカトリック教会の修道院のシスターが病気になった人々の世話をしていました。ところが16世紀の宗教改革によってプロテスタントが誕生すると、状況は変わることに。プロテスタントたちは、教会や修道院を否定。もちろんカトリック教会も残っていたため全ての病人ではないにしろ、病人は看病されぬまま死ぬことに。そして修道院での看病も今とはかなり違ったもの。単に病気になった人々を入れておくだけだったのです。

しかしナイチンゲールは自身の経験から、衛生に関する知識を持つ看護師の育成が大事だと考えるように。こうして彼女は看護学校を造ることに。クリミア戦争での高い名声のお陰で、彼女の元には多くの寄付金が寄せられることに。こうして次々に看護学校は造られ、優秀な看護師が誕生していきました。

\次のページで「3-4 彼女の晩年」を解説!/

3-4 彼女の晩年

Florencenighting00abbouoft 0068.jpg
Various artists, often described on work - Florence Nightingale as seen in her portraits. With a sketch of her life, and an account of her relations to the origin of the Red Cross Society (Published 1916) (author Abbott, Maude E), パブリック・ドメイン, リンクによる

クリミアと天使と謳われた彼女の晩年はどのようなものだったのでしょうか。

80歳となったナイチンゲールは、視力が落ちて読書も文字を書くこともできない状況となっていました。また体型も、若い頃はすらりと背が高かったのが大柄のおばあちゃんとなることに。86歳になると、ついに失明してしまいました。しかし彼女の元を訪れるお客は後を絶たず、彼女はベッドから起き上がり会話し、時には冗談を言うこともあったそう。

翌年には女性としては初の「有功勲章」エドワード7世から受賞した際には、外出が困難だったため、ダグラス・ドーソン卿が自宅に赴き伝達式を行うことに。この時ナイチンゲールは何の章なのか理解できていなかったそう。

3-5 ナイチンゲールの死

失明してからもナイチンゲールは、新聞を音読してもらっていました。そして亡くなる数日前には、遺書を残すことに。遺書には4つのことが書かれていたそう。派手な葬式をしない、ウェストミンスター寺院へ葬らないこと(有名人が多く眠る寺院として有名だったため)、大袈裟な記念碑を建てない、棺についていくのは2人まで

そしてナイチンゲールは1910年に90歳の寿命を全うして亡くなりました。彼女はナイチンゲール家に埋葬され、墓石にはF・Nと誕生と没した年のみ刻まれています

近代看護制度を確立した女性

ナイチンゲールは高い教養力と、敬虔なカトリック教徒でした。そして彼女が16歳の時に転機が訪れることに。神から「私に仕えよ」という声を聞き、看護の道を進むことに。そして1854年でのクリミア戦争での従軍経験から、病院内の環境を整えることの重要性に気づき、帰国後はヴィクトリア女王を味方につけて衛生改革を行うことに。

ナイチンゲールといえば、クリミアの天使近代看護の母と呼ばれていますよね。しかしそれだけではなく、統計学を用いて客観的に劣悪な環境下での兵士の死亡率を示し、衛生状態を改善することを訴えた人物。統計学の高い知識が認められ、女性として初のイギリス王立統計協会会員にも選出されています。

信心深いナイチンゲールだったからこそ、近代看護を確立することができたといえるでしょう。彼女は90歳で亡くなり、ナイチンゲール家の墓で安らかに眠っています。

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イギリスヨーロッパの歴史世界史

統計学の権威としても知られる「ナイチンゲール」の生涯について歴女がわかりやすく解説!

今回はランプの貴婦人と呼ばれた、ナイチンゲールについてです。

彼女はイギリス人で、陸軍大臣から任命されてクリミア戦争へ従軍することに。そして病院内で懸命に看護したことで知られ、その後看護学校を設立し近代看護の道を拓いた女性です。

そんなナイチンゲールの生涯をイギリスの歴史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパの歴史に関心があり、特にロシアとイギリス、フランス、オスマン帝国が戦ったクリミア戦争からナイチンゲールを知り興味を持った歴女。今回はそんな歴女のまぁこがナイチンゲールの生い立ちや彼女の偉業を解説していく。

1 ナイチンゲールの生い立ち

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ナイチンゲールは19世紀に登場した人物。ナイチンゲールといえば、戦場の病院で献身的な看護をし、ランプの貴婦人と呼ばれた女性ですよね。彼女はイギリスの陸軍大臣から任命され、クリミア戦争に赴くことに。そしてこれまでの看護の常識を覆し、近代看護を確立することになりました。ところでナイチンゲールはどんな女性だったのでしょうか。ここでは、フローレンス・ナイチンゲールの生い立ちについて詳しく見ていきます。

1-1 誕生

ナイチンゲールは裕福な両親の元に次女として生まれました。当時のヨーロッパ社会ではお金持ちの家の若い人々は教養を付けるため、ヨーロッパ中をグランドツアーとして周ることが当たり前。ちなみに彼女の両親はそのグランドツアーとして3年間余りヨーロッパ各国を周っていたそう。その際に、2人の女の子を授かることに。ナイチンゲールの正式名は、フローレンス・ナイチンゲールこのフローレンスという名は、生まれた時にフィレンツェにいたため。ナイチンゲールの姉も同様に生まれた土地の名から名前を取っています。

1-2 父からの英才教育を受ける姉妹

ナイチンゲールと彼女の姉は父から英才教育を受けることに。ちなみにどんな教育を受けたのかというと、言語ではドイツ語、フランス語、イタリア語、ギリシャ語、そしてラテン語までも。言語だけではなく、ナイチンゲールの父はイタリア語で16世紀の詩(タッソー)を朗読し、数学や歴史、哲学までも彼女たちにレクチャーしたそう。これほどまでに知識のある父はそうそういないですよね。ちなみにナイチンゲールはこれらの教育の中で数学や統計学に興味を持ったそう。これが後に大きな成果を遂げることに。

1-3 ある時神の声を聞くことに

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ナイチンゲールに転機が訪れたのは16歳の時。神から「私に仕えなさい」という声を聞いたのです。神の声が聞けたのは、彼女が敬虔なカトリック信者だったからかもしれません。そして裕福な家庭だったため、気持ちにゆとりがあったから聞けたのかもしれませんね。ちなみにマザー・テレサも同様に神の声を聞いたそう

ナイチンゲールは通っていた教会で行っていた慈善活動の一つだった病院での病人の看護をしていく内に、病気で苦しんでいる人々を助けることが自分のやるべきことだと悟ることに。こうしてナイチンゲールは両親に隠れてこっそりと医学や看護の勉強をするようになりました。

1-4 生涯独身を貫く

ナイチンゲールは生涯を通して結婚しなかった人物でした。彼女の両親は素敵な男性と結婚をしてほしいと考えていたようで、ナイチンゲールは17歳でヨーロッパ旅行へ。そしてパリの社交界にデビューすることに。しかしナイチンゲールはちやほやされればされるほど、ここは自分の居場所ではないと考えるように。

ちなみに26歳の時に彼女はある男性からプロポーズをされることに。ところが彼女は、「私にはやるべきことがある。神の道に進まなければならない」と言って断ります。ところが男性も諦められず、その2年後に再度プロポーズ。これもまた断ったナイチンゲールでしたが、彼女の本心は彼のことが好きだったそう。しかし神が命じた道に進むことが第一と考えた彼女は断ったのでした。ちなみにその後別の男性からもプロポーズされましたが、また断ると、その男性はなんとナイチンゲールの姉と結婚したそう。

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