戦国時代では家名存続をさせるために歴代当主の血筋から、次期当主を決めていくのが普通だったようです。父や祖父そして叔父達があまりにも優秀過ぎると、生まれてきた子供がその宿命を背負わされて戦場に出ていくもどんなに血筋が優秀であっても生まれてくる子供までも優秀というわけにはいかないことは今の現代においても同様です。

それでも叔父達の力を借りながら、豊臣家に臣従していき百万石を超える大大名まで出世することが出来た毛利輝元について歴史マニアでもある歴史ライターwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

毛利元就を筆頭に、毛利家が戦国時代では一番好きな家系。毛利家を調べ上げ長州藩の藩祖と呼ばれた毛利輝元を紹介していく。

幸鶴丸が誕生

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祖父だった毛利元就によって中国制圧を推し進めている中で毛利家の後継ぎとして誕生します。

吉田郡山城で産声を上げる

元就の時代で居城となっていた吉田郡山城にて、毛利隆元の嫡男として1553年1月22日に誕生しました。一大勢力だった大内義隆は家臣の陶晴賢に裏切られ弱体の一途を辿っていきます。大内家とは元々、隆元が人質として出されていた家でだったため隆元にとっても縁のある人物でした。また隆元の隆は義隆の一字を賜り名乗ったとされ、大内家からの絶大な信頼があり元就率いる毛利家は良い方向に風が吹いていきます。

そんな大内家に人質となっている際に、義隆から婚姻の話を持ち掛けられたことで断る理由もなく婚姻関係を結び毛利と大内をより深く関係へと結びつかせていきました。隆元は生涯側室を持たなかったとされ尾崎局と仲睦まじく輝元を含む三人の子を出産したとされています。

陶氏を打倒すべく厳島で対峙

義隆を打ち破り大内家を手中に収めた晴賢は、毛利家に国を分け与えていましたが急成長していた毛利家に国の返還を求めましたが元就が拒否したことで争いへ発展していきます。両者とも謀略を張り巡らさせ敵味方が入れ替わりながら戦を始めていき、陶軍が厳島の宮尾城に激しい攻撃を行い陥落寸前まで追い込まれていく毛利軍。

兵力差で勝てないと踏んでいた元就は、事前に繋がりのあった村上水軍へ小早川隆景を通して援軍交渉を行っていました。一向に返事の無い村上水軍を諦め討死覚悟で宮尾城を救援に向かおうとしたところに、村上水軍が毛利軍の援軍として戦に加わり陶軍の背後を突くことに成功した毛利軍は追撃を重ねていき陶軍を圧倒していきます。

背後を突かれたことで、戦況が思わしくなくなった晴賢は撤退を支持するも兵士達は混乱していて負け戦が濃厚となり僅かな手勢を引き連れて撤退しようとしました。しかし辿り着いたところには舟はなく自害を決意した晴賢は家臣に介錯を頼み果ててしまいます。

防長制圧

陶氏を討ち取ったことで、急激に力を弱めていった大内氏と陶氏でした。大内家領土を素早く制圧したいと考えた元就と隆元は、大内家配下の将を調略し内部から揺さぶりを行っていきつつ抵抗していた大内家臣の城を攻撃していきます。また大内氏を攻めるにあたっては、龍造寺氏とは同盟を尼子氏と大友氏には牽制役として吉川元春や小寺元武を送っていました。

この時既に大内義長は元就と隆元の策略によって、唯一援軍を頼める大友氏や海上を塞ぎ逃げる場所を無くしていきます。立て直しをすることが出来ないと判断した元就は、内藤隆世を許すことは出来ないが晴賢の傀儡として扱われてしまった義長は助命するといいました。しかし元就は最初から大内家を滅ぼすつもりでいたため、隆世を自害させることは口実でしかなく義長を無理やり討ち取るつもりでいたようです。

謀られたことを知った義長でしたが、周りを包囲されてしまいどうすることも出来なくなってしまい自害しました。これによって大内所領を見事と毛利家に取り込み尼子氏と対等に渡り合える大名となっていきます。

隆元の急死

毛利家の領土拡大をしていた1555年以降は、隆元は断続的に兵を率いて戦に参加していたため輝元のもとに居座ることは少なくあまり接することが出来ていませんでした。手に入れた領土をそのまま保持し続けることは難しく立て直しを図っている中で、豊後国からは大友宗麟が侵攻を始め尼子晴久も毛利領土へ攻め込んできます。

大内領土を吸収したとはいえ隣国の二大勢力を同時に対応することは出来ませんので、尼子氏には元就が大友氏には隆元が迎え撃つための準備をしていきました。隆元は五度目となる大友氏と門司城で戦い宗麟の重臣だった戸次鑑連の猛攻撃にあいながらも何とか踏ん張り隆景の軍勢が到着したことで両軍ともにらみ合い戦が長引いていきます。

尼子氏の攻略に取り掛かっていた元就でした。隆元は尼子氏攻めに加わるために室町幕府の将軍足利義輝に和睦の仲介を依頼し両軍とも合意に難航しましたが、和睦を結び尼子氏へ兵力を集中させていきます。1563年8月3日に備後の和智誠春が宴の席用意したことでお酒や食事を楽しみ夜が明けると隆元が急死してしまいました。

毛利家督を相続

隆元の死で家督を継ぐことになる輝元でしたが、隆元が当主時代から元就が実権を握っていた状態で輝元の時代になっても変わらず元就が中心の毛利家でした。

輝元の元服

輝元が当主となったのは十一歳の時で、後見人として元就が政務を取り仕切っていました。形式上は輝元が当主でしたが、若年であるがために実権を握ることは出来ず保留扱いになっています。十三歳になった時に元就が室町幕府を通じて輝元の元服準備を進めておりこの時に将軍義輝の偏諱を与えられたことで輝元と名乗っていきました。

元服したことで事実上の当主となり、輝元の名で書状がやり取りされていき権力を握っていきましたが場合によっては元就との連判状も発給されていたようです。高齢だった元就は時代が流れるにつれ自身の権限を徐々に輝元へ移していき隠居を考えていくようになりました。

ところがいざ隠居する話を輝元にすると、隠居しないように懇願されたことで隠居をせずに毛利家の相談役として輝元の傍に残っていきます。

尼子氏との戦いで初陣

尼子氏と長年に渡り争い銀産出量が多い石見銀山を毛利領内に収めるべく動いていた元就でしたが、隆元の急死や地元の豪族だった小笠原氏の抵抗にあい敗北していた状況でした。隆元の死で泣き崩れていた元就でしたが、陣中に尼子氏を滅ぼすことが隆元への追善であるといい兵の士気を上げます。白鹿城を約二万の大軍で攻撃を行い二ヶ月ほど戦ったところで城主の松田氏が元就に降伏したことで白鹿城が陥落。

毛利軍は白鹿城を陥落させたことを皮切りに尼子氏領内の拠点を次々と制圧していき、尼子氏の居城だった月山富田城への補給路を全て断ち包囲していきました。1565年4月17日に月山富田城へ総攻撃を仕掛けていき城へ通じる道が三か所ありその内の一か所に隆元も加わり初陣を飾っております。戦果を挙げた内容は記録にないため分かりません。

 

\次のページで「尼子氏衰退」を解説!/

尼子氏衰退

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月山富田城を包囲し兵糧すら送り込めない状況となった尼子軍は、数多くの投降者が現れましたが元就は容赦なく斬り捨てたことにより投降せずに城内に立て籠もる形になっていきました。

既に月山富田城内は士気が下がり正しい判断が出来ない状況の中で、宇山久兼が自身の財産を投げ売り兵糧を手に入れ尼子義久のために奮闘するも大塚与三衛門の讒言によって身内に討たれてしまいます。これがきっかけとなり籠城で踏ん張っていた下がっていた士気が更に下がり1566年11月21日に義久は元就に投降し尼子氏を滅ぼしました。

降伏時に残っていた兵力は三百人程度しかいなかったとされとても戦える状態ではなかったようです。大内氏と尼子氏を滅ぼしたことで中国地方を制圧した元就は、輝元へとしっかりと託していこうとするも当主らしからぬ行動が多かったため頭を悩ませていきました。

大内残党の抵抗

尼子氏を滅ぼしてから直ぐに大友氏の参謀だった吉岡長増に進言されたことで、大内輝弘は旧大内領内へ侵攻を始めていきました。大内氏の一族であると分かった大内氏の遺臣団は輝弘のところに集結していき大友氏と連携して毛利軍を攻撃していきます。

高嶺城を攻める前に毛利家重臣だった市川経好を破っていましたが、経好の妻市川局が僅かな手勢を統率して大内軍を応戦していきました。市川局の活躍で城が落城せずに済み輝弘は大内氏の別邸に退避していきますが、九州攻略を諦め毛利軍が兵を引き返し始め吉川元春と隆景を輝弘討伐をするため別邸へと向かっていきます。

輝弘は別邸から逃げ脱出場所を探していくも海路も塞がれていて逃げる場所が無くなり茶臼山で自害しました。

織田家と親交

元就が亡くなる前に織田信長との親交が始まっていて同盟と結んでいきます。

輝元が総大将に

長らく後見役として輝元の補佐を行っていた元就は高齢ということもあり、体は病に侵されていきました。尼子再興軍が結成され毛利家に牙を向けてきましたが、元就では総大将としての指揮を振るうことが出来ず代わりに輝元が総大将として尼子氏と対峙していきます。尼子勝久がまず攻撃を仕掛けてきたのは、居城だった月山富田城でした。

輝元は毛利軍本隊を指揮し元春は石見を隆景は備後に向けて兵を進めていき、陥落の恐れのあった月山富田城へは輝元隊が向かい尼子再興軍の城を次々と陥落させていきます。その後月山富田城へ向かいには必ず通る布部山に陣を構えていた尼子再興軍。尼子再興軍は少数でありながら奮戦する活躍を見せていき毛利軍を苦戦させていきます。

1570年3月20日に毛利軍と尼子再興軍は布部山で対峙し、最初は地の利があった尼子再興軍が有利でしたが数で勝る毛利軍に少しずつ押されていき元春の別働隊が迂回し尼子再興軍の本陣に奇襲をかけたと事で毛利軍の勝利となりました。

足利義昭と織田信長

1571年に元就が亡くなり重臣だった元春と隆景の力を借りながら領内の政務をこなしていきます。この時は隣国に大友氏・尼子氏・浦上氏・三好氏がいたため、気が抜けない状況下にあり敵国との戦いを優位に進めたいがために将軍家を頼る必要でした。また将軍家の取り成しをする際は、必ず織田信長を経由しなければならなかったため信長とも同盟関係を築いていきます。

しかし信長の同盟は表面上だったことで、輝元は毛利家単独で敵国と戦うしかありませんでしたが勢いに乗っていた毛利軍は尼子氏を退け浦上氏とは同盟し三好氏の領内へ侵攻をしていきました。これにより大友氏を除く敵国を屈服させ包囲されていた状況を瓦解させることに成功します。

毛利家は一段落したところでしたが、義昭と信長の関係が悪化していき京で大規模な戦いへと発展していき義昭は敗北し京を追放されたことで室町幕府が崩壊しました。

信長の朱印状によって浦上氏と対立

1573年の天正元年に信長は毛利家への牽制として浦上氏に朱印状を発給し、毛利家領内と認められていた播磨など三ヵ国を浦上氏領内として扱うことになりました。これに反発していくのが浦上氏の配下だった宇喜多直家であり輝元は直家を支援することになっていきます。直家の反発は信長への牽制として担わせることも可能でしたので、手厚く支援しました。

浦上氏も輝元や直家の反発に対して、毛利氏と対立していた大友氏や直家に父を謀殺された怨みのある三村元親との連携を深めていきましたが、元親は毛利家に臣従している状況で離反するか家臣らと協議していきます。家臣らの支持は毛利家に居座ることを望んでいましたが、父を謀殺された怨みから重臣たちの意見を押し切り信長と通じていきました。

元親に離反されたことで、輝元は隆景の進言通りに元親討伐を進めていき三村氏の諸城を陥落させ備中松山城を囲み麦狩りを行い兵糧を断ち元親を自害させていきます。

織田との同盟破棄

1575年に尼子氏残党に苦戦を強いられながらも撃退し輝元の領土は元就の時代よりも大きくなっていました。ところが、信長が一転して浦上氏を支援することを決め輝元と抗戦を辞さない姿勢を見せ始め同盟が破棄されていきます。この時に義昭は密かに幕府再興を企ていて毛利家に何も告げずに独断で行動していましたが、織田家との同盟破棄に伴い輝元に幕府再興を依頼していきました。

輝元は将軍の庇護することを決めたことで全国の情勢が変化していき、信長に対して三回目の包囲網を敷き信長に抵抗していきます。大坂の石山本願寺勢が勝利し勢いづくと思われましたが信長本隊が到着したことで状況が悪化。石山本願寺勢が劣勢していくと輝元に支援を求めてきたため輝元は水軍を派遣。石山本願寺勢に海上から補給物資を送り込みながら、木津川口で織田軍と対峙していきます。

毛利水軍は当時として最先端の火器を使用し、織田軍を潰走させることに成功し勢いづいていきました。

織田包囲網瓦解

隣国で織田方に競り勝ち勢いづいていた輝元は、義昭から上洛を計画し有利に動いていた状況を更に押し上げるつもりでいました。しかし武田氏による徳川家康への牽制と荒木村重の織田離反といった好転材料があったにもかかわらず上洛を行うことが出来ません。上洛することが出来ない理由には、信長の調略によるものと隆景の上洛反対がありました。

隆景は輝元を幼き頃から知っていることと教育係に任命されていたことで、輝元の性格を見抜いていてこの状況に有頂天となっていることを把握しています。隆景による輝元抑止が強く説得をしたことで上洛を断念せざるを得ない状況となりました。その後に直家が毛利氏から離れ信長に降っていくと毛利氏方に与していた将らも信長方に周っていきます。

輝元が上洛しない影響が徐々に出始め、村重の敗北と石山本願寺の陥落そして上杉氏のお家騒動などが立て続けに発生したことで包囲網が瓦解していきました。

\次のページで「豊臣政権下での輝元」を解説!/

豊臣政権下での輝元

追い込まれていく毛利家でしたが、信長が本能寺で討たれたことで窮地を脱していきます。

羽柴秀吉と講和

毛利家の重要な砦となっていた備中高松城が羽柴秀吉によって包囲され、水攻めを受けていました。輝元も隆景と元春らと共に五万の軍勢を動かし備中高松城へ救援へと向かいましたが、毛利水軍の一部が秀吉の調略により離反した影響で物資を思うように供給出来ない状況で備中高松城へ救援を差し向けることが出来ません。

更に信長が直々に本隊を率いて備中へ押し寄せて来ることが決まり、輝元筆頭の毛利氏は絶望的な状況になっていきます。ところが信長が明智光秀の謀反に合い討たれてしまうと、秀吉が和睦を申し出てきたため危機的な状況だったことで和睦を受け入れることを承諾しました。

和睦条件は備中高松城城主の清水宗治の命と美作・備中・伯耆の三国を割譲することで輝元が妥協し毛利家の窮地から脱することが出来ます。

毛利家が大大名となる

備中高松城の戦いで和睦が進められ一時的に、停戦した形となりましたがあくまで和睦であり講和ではないとして交渉が難航しておりました。そんな最中に秀吉が講和交渉が進んでいないことに激怒し毛利家を再侵攻することをほのめかしていきます。安国寺恵瓊が交渉役として秀吉と交渉を行っていましたが、隆景そして元春は領地の割譲に反対し交渉が長期化していきました。

交渉が進んで行かない途中に柴田勝家と秀吉による織田家次期当主争いや家康と信雄との関係悪化に伴い、苦戦を強いられていきますが家康と信雄とは講和が成立し信長時代よりも多くの国を従え驚異的な勢力となっていきます。そして長らく続いた国境画策が功を奏し1585年に秀吉は輝元の要求を承諾し百二十万となり家康などに並ぶ大大名へとなっていきました。

豊臣恩顧の将へ

秀吉から八カ国を認められたことで協力姿勢を見せていく輝元。四国攻めと九州攻めに協力していき見事制圧することに成功し割譲された四国の阿波・讃岐・伊予に関して国分が行われ隆景の領土となっていきました。また九州攻めの最中に元春が病によって亡くなってしまい毛利家の体制が傾いていきます。

九州も国分したことで、毛利家の領内を転換させる時に隆景を筑前一国と筑後・肥前を伊予国から移すように指示されるも輝元の補佐が出来ない理由で秀吉に断っていましたが結局与えられてしまい隆景も毛利家の経営から離れていくことになりました。

1588年には秀吉に臣従するために輝元は上洛し聚楽第で秀吉と対面し、豊臣姓を賜り秀吉に臣従していきます。

朝鮮出兵で活躍

小田原征伐がなされ全国統一を為した遂げた秀吉は、朝鮮へ兵を進めていきました。輝元は六番隊として文禄の役に参加し隆景と同じ隊として行動し茂渓の戦いなどで多くの将らと激戦を繰り広げ活躍していきます。一時的に明軍の沈惟敬と小西・加藤の三者で会談を行い講和することが決定していきました。

しかし思うように講和が進まず、交渉が決裂していくと輝元は本国へ帰還します。1595年に秀吉の後継者だった秀次切腹事件が発生しこの発端となったのが、秀次が書き留めた誓約が原因ともいわれておりこの件は石田三成から秀吉の下へ報告されていました。

秀次の死後に秀吉から五大老を命じられて有力大名として隆景らと名を連ねることになっていきます。また明軍と講和交渉が決裂したことで、再度朝鮮出兵へ決意した秀吉は西国諸国の将を総動員するも輝元は病身だったため毛利家次期後継者の毛利秀元に三万の軍勢を牽かせていきました。

長年支えてきた最後の叔父

元春が先に亡くなり隆景も1597年に亡くなってしまい、相談できる唯一の身内が居なくなってしまいました。隆景亡き後は秀吉から養子として引き取っていた小早川秀秋が当主になります。ところが隆景家臣だった者達は秀秋に仕えることを良く思っていなかったため毛利家に帰陣していきました。

また隆景の領地を毛利家返還に伴い輝元の養子にしていた秀元の領地を、輝元から分け与える必要があり秀吉に処理をお願いし秀元に二国と隆景の領土を元春の三男であり吉川家当主だった吉川広家の領内にする予定でしたが秀吉の病が悪化したことで見送ります。

そして病によって秀吉が亡くなる寸前に秀頼の補佐を命じられていて、五奉行に対して味方をする旨の起請文を出し豊臣政権を守る動きをしていきました。

天下の大戦へ

秀吉亡き後、五大老だった家康が本性を表し始め天下を取るために行動していきます。

\次のページで「武断派による三成襲撃」を解説!/

武断派による三成襲撃

五大老と奉行派で秀頼を後見していきながら豊臣政権を構築していく予定でしたが、家康が独断で秀吉の遺言を無視していきました。何を行うにしても五大老と五奉行の同意を得てから行っていくことが、基本とされていましたが無断で豊臣恩顧の将らと家康は婚姻関係を結んでいきます。

この行為に反発していくのが、三成筆頭の奉行派でした。もともと三成と武断派は仲が悪く秀吉が居たがために争う姿勢を見せてきませんでしたが、秀吉が亡き時代となり枷が無くなり両者とも横柄な態度を取っていきます。

年が経つにつれ関係が悪化していき、武断派によって石田屋敷を襲撃する事件が発生し家康が仲介することで事なきを得た三成でした。また収まりがつかない武断派筆頭の加藤清正でしたが、五大老の一人だった前田利家がなだめたことで武断派を抑止することが出来ています。

上杉征伐へ参加

五大老の上杉景勝と重臣直江兼続からの直江状と城を勝手に修繕している様子を見て、上杉征伐を全国の大名に発令し会津へ向けて出兵していきました。輝元は出兵に参加するつもりはありませんでしたが、豊臣政権を動かしていたのが家康だったことで半ば強制的に出兵することになります。

この時に恵瓊と広家を参加させていきましたが、恵瓊は三成と大谷吉継と密かに会談を行い家康と対峙することが決まりました。1600年7月に三成は挙兵すると吉継の指示通りに総大将は、輝元となりました。しかし輝元は恵瓊と相談しただけで重臣達とは相談を行わず二つ返事で総大将となることを承諾してしまいます。

そして六万の大軍を大坂城に向けて、兵を進めていき事前に秀元に対して家康方の留守役を追い出し大坂城へ入城していきました。

関ヶ原で西軍大敗

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輝元と恵瓊で西軍加担を決めてしまい、広家の意見が通ることはありませんでした。輝元は三成挙兵に伴い隆景の遺領を奪還するべく宍戸氏を中心に伊予国へ兵を進めていき、加藤領と藤堂領を攻撃していきます。伊予の関ヶ原とも称され毛利軍が兵で勝っていましたが、加藤軍の奮戦によって毛利軍は大きな被害が出てしまいました。

その一方で輝元自身は大坂城に残り西軍の諸将らが離反しないように情報を集めていきます。9月15日になると関ヶ原にて西軍と東軍が正面からぶつかっていくと西軍には兵を動かさない大名が多数いて、小西行長や吉継そして三成と島左近の部隊しか攻撃を行っていない状況でした。

地形と兵の奮戦によって西軍が一時的に優勢になっていましたが、毛利一門だった秀秋と脇坂氏らが西軍から東軍へ寝返り戦況は一気に東軍優勢となります。毛利家は秀元が指揮する形になっていましたが、広家が事前に黒田長政に内通しており毛利家存続させるための工作をしていました。

広家の説得により本家が存続

広家の行動によって毛利家が安泰と思われていましたが、広家の弁解していた事実の異なることが発覚し家康は毛利家の所領安堵を取り消し没収するといい始めていきました。広家に毛利家を継がせるよう家康から言い渡されるも、本家を見捨てる事が出来ない広家は家康を必死に説得し輝元に周防・長門の二カ国が安堵される形で減封。

毛利家の改易は待逃れましたが百二十万石から二十九万石と大大名から小規模な大名へと格下げとなってしまいました。

乱世が終り毛利家を存続させるために行動していく

減封されたことで、領地が激減したことで輝元は潮時と考え嫡男へと家督を譲っていきました。

家督を嫡男へ

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減封となった同月10月に輝元は髪を剃り幻庵宗瑞と法名を名乗り、形式上家督を秀就へ譲っていきました。秀就は基本江戸に在中していて国許には輝元がいたため二頭体制として毛利家の舵取りを輝元が行っていきます。

1603年には家康から帰国を命じられ領内に居城を建てることも許されました。そして幕府と相談した結果、長門国萩の指月山に決まり萩城が建設されていきます。建設途中に熊谷氏と天野氏による窃盗事件が発生しましたが、両名を斬首したことで幕府側から不興を買うことなく済みました。

その後は幕府の領地検地が行われ三十六万石まで高直しを行います。

大坂の陣

1614年の方広寺事件がきっかけとなり豊臣と徳川による争いが避けられない事態になっていきました。秀頼からは多くの豊臣恩顧の大名に参陣要請を行いましたが、輝元を始めとする諸大名は参陣をせずに徳川方のままで徳川軍として兵を率いていきます。

大坂の陣へ輝元も参陣していきますが、体は病に侵されていて秀就と秀元に軍勢を任せていて主戦力を大坂に向けていきました。あまり戦闘に参加することが出来ずに秀頼自害によって豊臣政権が幕を閉じます。

徳川将軍に会うために上洛した後に没する

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大坂の陣以降に健康状態が思わしくない体でしたが、家臣を引き連れ毛利家の好意を見せるべく徳川将軍の徳川秀忠に面会しにいきます。衰弱している輝元を心配した秀忠は、家臣らに特別の計らいをするように依頼していて輝元は一連の懇意を秀忠は勿論のこと土井利勝や柳生宗矩らに感謝を述べました。

将軍への上洛は隠居し家督を譲る意味合いあり、将軍への挨拶してから三年後の1621年に家督を正式に秀就へ引き継がせ自身は隠居していくことになります。体の状態も一時的に回復はしたように思えましたが、徐々に食が細くなっていく同時に腰付近に腫物ができ1625年に隠居先で亡くなりました。

祖父と父が築き上げた礎を一気に拡大させた大名

輝元時代では元就と隆元の時によりも大幅に、領地を拡大することに成功していて元春と隆景が必死に交渉していたことで大大名まで登りつめることが出来ました。しかし毛利家の中では、策を練って戦をしていたとする資料があまり残されていないため謀や戦は苦手であったかもしれません。

また元就も死去寸前に輝元の当主らしからぬ行動が目立ち、温厚な隆景ですら厳しく輝元に接して教育していたとされています。それでも隆景の教育によって少しは当主としての自覚を持ち始めていきますが、輝元自身で決断して行動することが少なく何をするにも叔父達の意見が無ければ行動に移せなかったように見受けられました。

それでも輝元は忠義心だけは忘れていない大名だったと思います。

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室町時代戦国時代日本史歴史

豊臣家の五大老にまで上りつめた「毛利輝元」を戦国通のサラリーマンが分かりやすくわかりやすく解説

戦国時代では家名存続をさせるために歴代当主の血筋から、次期当主を決めていくのが普通だったようです。父や祖父そして叔父達があまりにも優秀過ぎると、生まれてきた子供がその宿命を背負わされて戦場に出ていくもどんなに血筋が優秀であっても生まれてくる子供までも優秀というわけにはいかないことは今の現代においても同様です。

それでも叔父達の力を借りながら、豊臣家に臣従していき百万石を超える大大名まで出世することが出来た毛利輝元について歴史マニアでもある歴史ライターwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

毛利元就を筆頭に、毛利家が戦国時代では一番好きな家系。毛利家を調べ上げ長州藩の藩祖と呼ばれた毛利輝元を紹介していく。

幸鶴丸が誕生

image by PIXTA / 9436083

祖父だった毛利元就によって中国制圧を推し進めている中で毛利家の後継ぎとして誕生します。

吉田郡山城で産声を上げる

元就の時代で居城となっていた吉田郡山城にて、毛利隆元の嫡男として1553年1月22日に誕生しました。一大勢力だった大内義隆は家臣の陶晴賢に裏切られ弱体の一途を辿っていきます。大内家とは元々、隆元が人質として出されていた家でだったため隆元にとっても縁のある人物でした。また隆元の隆は義隆の一字を賜り名乗ったとされ、大内家からの絶大な信頼があり元就率いる毛利家は良い方向に風が吹いていきます。

そんな大内家に人質となっている際に、義隆から婚姻の話を持ち掛けられたことで断る理由もなく婚姻関係を結び毛利と大内をより深く関係へと結びつかせていきました。隆元は生涯側室を持たなかったとされ尾崎局と仲睦まじく輝元を含む三人の子を出産したとされています。

陶氏を打倒すべく厳島で対峙

義隆を打ち破り大内家を手中に収めた晴賢は、毛利家に国を分け与えていましたが急成長していた毛利家に国の返還を求めましたが元就が拒否したことで争いへ発展していきます。両者とも謀略を張り巡らさせ敵味方が入れ替わりながら戦を始めていき、陶軍が厳島の宮尾城に激しい攻撃を行い陥落寸前まで追い込まれていく毛利軍。

兵力差で勝てないと踏んでいた元就は、事前に繋がりのあった村上水軍へ小早川隆景を通して援軍交渉を行っていました。一向に返事の無い村上水軍を諦め討死覚悟で宮尾城を救援に向かおうとしたところに、村上水軍が毛利軍の援軍として戦に加わり陶軍の背後を突くことに成功した毛利軍は追撃を重ねていき陶軍を圧倒していきます。

背後を突かれたことで、戦況が思わしくなくなった晴賢は撤退を支持するも兵士達は混乱していて負け戦が濃厚となり僅かな手勢を引き連れて撤退しようとしました。しかし辿り着いたところには舟はなく自害を決意した晴賢は家臣に介錯を頼み果ててしまいます。

防長制圧

陶氏を討ち取ったことで、急激に力を弱めていった大内氏と陶氏でした。大内家領土を素早く制圧したいと考えた元就と隆元は、大内家配下の将を調略し内部から揺さぶりを行っていきつつ抵抗していた大内家臣の城を攻撃していきます。また大内氏を攻めるにあたっては、龍造寺氏とは同盟を尼子氏と大友氏には牽制役として吉川元春や小寺元武を送っていました。

この時既に大内義長は元就と隆元の策略によって、唯一援軍を頼める大友氏や海上を塞ぎ逃げる場所を無くしていきます。立て直しをすることが出来ないと判断した元就は、内藤隆世を許すことは出来ないが晴賢の傀儡として扱われてしまった義長は助命するといいました。しかし元就は最初から大内家を滅ぼすつもりでいたため、隆世を自害させることは口実でしかなく義長を無理やり討ち取るつもりでいたようです。

謀られたことを知った義長でしたが、周りを包囲されてしまいどうすることも出来なくなってしまい自害しました。これによって大内所領を見事と毛利家に取り込み尼子氏と対等に渡り合える大名となっていきます。

隆元の急死

毛利家の領土拡大をしていた1555年以降は、隆元は断続的に兵を率いて戦に参加していたため輝元のもとに居座ることは少なくあまり接することが出来ていませんでした。手に入れた領土をそのまま保持し続けることは難しく立て直しを図っている中で、豊後国からは大友宗麟が侵攻を始め尼子晴久も毛利領土へ攻め込んできます。

大内領土を吸収したとはいえ隣国の二大勢力を同時に対応することは出来ませんので、尼子氏には元就が大友氏には隆元が迎え撃つための準備をしていきました。隆元は五度目となる大友氏と門司城で戦い宗麟の重臣だった戸次鑑連の猛攻撃にあいながらも何とか踏ん張り隆景の軍勢が到着したことで両軍ともにらみ合い戦が長引いていきます。

尼子氏の攻略に取り掛かっていた元就でした。隆元は尼子氏攻めに加わるために室町幕府の将軍足利義輝に和睦の仲介を依頼し両軍とも合意に難航しましたが、和睦を結び尼子氏へ兵力を集中させていきます。1563年8月3日に備後の和智誠春が宴の席用意したことでお酒や食事を楽しみ夜が明けると隆元が急死してしまいました。

毛利家督を相続

隆元の死で家督を継ぐことになる輝元でしたが、隆元が当主時代から元就が実権を握っていた状態で輝元の時代になっても変わらず元就が中心の毛利家でした。

輝元の元服

輝元が当主となったのは十一歳の時で、後見人として元就が政務を取り仕切っていました。形式上は輝元が当主でしたが、若年であるがために実権を握ることは出来ず保留扱いになっています。十三歳になった時に元就が室町幕府を通じて輝元の元服準備を進めておりこの時に将軍義輝の偏諱を与えられたことで輝元と名乗っていきました。

元服したことで事実上の当主となり、輝元の名で書状がやり取りされていき権力を握っていきましたが場合によっては元就との連判状も発給されていたようです。高齢だった元就は時代が流れるにつれ自身の権限を徐々に輝元へ移していき隠居を考えていくようになりました。

ところがいざ隠居する話を輝元にすると、隠居しないように懇願されたことで隠居をせずに毛利家の相談役として輝元の傍に残っていきます。

尼子氏との戦いで初陣

尼子氏と長年に渡り争い銀産出量が多い石見銀山を毛利領内に収めるべく動いていた元就でしたが、隆元の急死や地元の豪族だった小笠原氏の抵抗にあい敗北していた状況でした。隆元の死で泣き崩れていた元就でしたが、陣中に尼子氏を滅ぼすことが隆元への追善であるといい兵の士気を上げます。白鹿城を約二万の大軍で攻撃を行い二ヶ月ほど戦ったところで城主の松田氏が元就に降伏したことで白鹿城が陥落。

毛利軍は白鹿城を陥落させたことを皮切りに尼子氏領内の拠点を次々と制圧していき、尼子氏の居城だった月山富田城への補給路を全て断ち包囲していきました。1565年4月17日に月山富田城へ総攻撃を仕掛けていき城へ通じる道が三か所ありその内の一か所に隆元も加わり初陣を飾っております。戦果を挙げた内容は記録にないため分かりません。

 

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