その辺のところを幕末と徳川将軍家に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸幕府の将軍や殿様にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川家定について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、徳川家定は12代将軍家慶の4男
徳川家定(いえさだ)は、文政7年(1824年)4月8日、後の12代将軍で当時は将軍継嗣だった家慶の4男として江戸城西の丸で誕生。母は側室のお美津の方、または堅子(父は幕臣の跡部正賢または跡部正寧とも)で、落飾後は本寿院(ほんじゅいん)、お美津の方は他にも2人の男児を出産し、いずれも早世。尚、家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけ。
家定の幼名は政之助、元服して家祥(いえさち、いえさき)と改名したが、偏のある名を持つ将軍はいずれも早世か子供がないので、縁起が悪いと将軍になる際に家定と改名。家定は歌橋という乳母に任せっきりで育てられたせいか、歌橋にしか心を開かなかったということ。
1-2、子供の頃から病弱で次期将軍として危ぶまれた
家定は幼い頃に天然痘を患い顔にあばたが残ったのを気にしていて、おまけに脳性麻痺も患っていたので、言語を発するにもかなり大変という状態で、人前に出ることを極端に嫌ったそう。
このために祖父の11代将軍で、大御所としての実権を握っていた家斉の寵臣たちが、家定を毒殺しようとしているという噂があったほどで、家斉の死後にも、家斉派による家定排斥の動きがあり、父家慶は老中の水野忠邦と共に家斉派を粛清。
父家慶は、家定の障害を治すためにリハビリをさせたが、思わしい効果は得られず。そこで、家慶は正室の有栖川宮喬子女王(たかこじょおう)の妹、吉子女王(よしこじょおう)と水戸藩主斉昭夫妻の7男で、義理の甥にあたる一橋慶喜を将軍にしたがったが、老中阿部正弘らが反対、結局家定は、天保12年(1841年)大御所家斉の死後、将軍継嗣に決定。
1-3、ペリー来航のショックで、父家慶が急死、家定が13代将軍に
嘉永6年(1853年)6月、ペリーの黒船が来航したが、その19日後に家慶が病死し、家定は29歳で13代将軍に。 そして母お美津の方は落飾して本寿院と号して、将軍生母として本丸大奥に。
嘉永7年(1854年)1月、ペリーが艦隊を率いて再来日、幕府は同年3月、日米和親条約に調印、家定は、元々弱かった体調が将軍就任以後悪化して廃人同様に。このために幕政は老中阿部正弘の主導で行われ、安政4年(1857)の正弘の死去後は、老中堀田正睦(まさよし)によって主導されることに。 尚、家定は、安政4年(1857年)10月21日に米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見。
2-1、家定の夫人たち
家定の初婚は18歳のときですが、次々と夫人に先立たれ、3人目が有名な天璋院篤姫。側室はひとりで志賀(しが)という旗本の娘。もちろん子供はなし。
2-2、鷹司任子
鷹司任子(たかつかさあつこ)は、文政6年(1823年)生まれ、関白鷹司政煕(まさひろ)の23女で、兄の関白鷹司政通の養女として輿入れ。初名は有君で院号は天親院(てんしんいん)。家定が将軍世子の時代に迎えた最初の夫人で、文政11年(1828年)5歳のときに納采し、天保2年(1831年)に8歳で江戸城本丸へ入輿。天保13年(1842年)に西の丸で婚儀が行われて、以後、御簾中様(ごれんちゅう、将軍世子の正室のこと)と呼ばれたが、嘉永元年(1848年)6月10日、疱瘡のため26歳で死去。
2-3、一条秀子
一条秀子(いちじょう ひでこ)は、文政8年(1825年)生まれ、関白一条忠良の14女で初名は寿明姫、院号は澄心院(ちょうしんいん)。
嘉永元年(1848年)、家定の最初の正室の鷹司任子の死去後、亡くなった年中に納采。翌年の嘉永2年(1849年)11月22日に入輿したが、ほぼ半年後の嘉永3年(1850年)6月6日に26歳で死去。輿入れで京都から江戸へ向かう道中に足に火傷を負い、その後遺症が死因とする説あり。
この方は、立ち姿でも首が襖の引き手の下にあったとか、片足が短く跛行して歩いたと言われていましたが、2007年から2008年にかけて行われた寛永寺谷中徳川家近世墓所調査団の報告では、遺体から推測される身長は130センチで、すねの骨や歯に極度の変形があり、成長期になんらかの病気にかかったためと判明したそう。
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