この時代は古代日本の中でも期間が短く、たった84年で次の「平安時代」へと移り変わる。ただ、短いと言えど奈良時代は市井の人々にとっても、貴族にとってもかなりつらい時期だったんです。
いったい「奈良時代」に何があったのか、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。
ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。弥生時代、飛鳥時代と続けて調べたのだから、このまま続けて古代日本の歴史を制覇したい!そういうことで、引き続き古き日本を解説していきます!
1.なんと素敵な平城京
飛鳥時代の終わり、わずか25歳の若さで崩御した文武天皇。その後に即位したのが、文武天皇の母親の元明天皇でした。元明天皇によって藤原京(奈良県橿原市あたり)から北に20キロほどの平城京へと遷都します。この遷都が飛鳥時代と奈良時代の区切りです。
奈良時代はこの710年から794年の平安時代まで続きます。語呂合わせは「な(7)んと(10)素敵な平城京」。ついでなので、平安時代の語呂も一緒に覚えておきましょう。「鳴(7)く(9)よ(4)ウグイス平安京」です。
飛鳥時代の終わり
現代日本の首都は東京ですね。これは長い間変わっていません。しかし、古代日本では結構な頻度で遷都しているんですよ。飛鳥時代の遷都は6回で、その最後となったのが古代日本における最大の都・藤原京でした。
藤原京は、当時のアジアの中心であり、最先端だった大陸の「唐」から学んだ「条坊制」をもとにして建設された中国風都城で、現在の奈良県橿原市あたりにありました。かなり大きな都だったんですが、実は、前の都だった飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)から藤原京へ遷都してから14年目、元明天皇が即位したころもまだ藤原京の建設は続いていたんです。その建設途中の建物を壊し、材木や礎石やらを運び込んで造られたのが平城京でした。
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本当は素敵じゃない、つらい時代
さて、「なんと素敵な平城京」と語呂合わせしましたが、それとは裏腹に奈良時代はとてもつらい時代でした。人々は律令制度のもとで良民と賤民に分けられ、良民に分類された農民たちには租庸調という重い納税の義務を課します。また、外国から国を守るために「防人」として北九州へ行かされる人たちもいて、しかも、命がけの仕事だというのにお給料は出ません。北九州までの旅費も仕事中の食費だって自腹です。しかも、この防人のお勤め期間中も租庸調の納税は免除されません。とんでもないレベルのブラック……。
また、賤民には「五色の賤」と言って、賤民にも五つの分類がありました。その中でも下の方に位置する「奴婢」ともなると、売買の対象にもなります。いわゆる「奴隷」のような扱いです。
一方で、貴族は貴族で別のつらさがありました。どっろどろの権力争いですね。身分が高い人の言うことは絶対という時代ですから、もし、下の人たちがうっかり上の人たちに目を付けられてまうようなことになると、無実の罪を着せられて処刑なんてことも。それに、上は上同士で争っていて、政権争いに破れた派閥は部下もろとも大変な目に合います。どんな身分であっても、世知辛い世の中でした。
租庸調制
飛鳥時代、中大兄皇子の「大化の改新」によってできた税金徴収制度のこと。班田収授の法で借りた口分田で収穫した米の3%~10%を税として納める「租」。一定期間都にいてタダで労働して納める「傭」。各地は特産物を納める「調」の三種類で構成されます。
農地拡大政策「墾田永年私財法」で開墾してもらおう
良民だからと言って権利があるわけでなく、重い税に耐えかねて納税の義務のない賤民となる人々が続出して、田畑は荒れ果ててしまいました。しかし、人口だけは増えていくので、口分田が足りなくなってしまいます。朝廷は農民に新しい土地を開墾するように言うのですが、とんでもなく重い税を支払わなければいけないのに、何年もかかる重労働ですぐには利益にならない開墾なんて農民はやってられません。
そこで朝廷は「三世一身の法」を発布して開墾を促します。この法は、新しい土地を開墾した人に、その褒美として開墾した土地を孫の代までの三代に限って私有地にし、その間、国はこれを没収しないものとしました。ちなみに、奈良時代の平均寿命は30歳前後とされています。孫の代まであっという間ですね。そういうわけで、せっかく開墾した土地もわりとすぐに朝廷に取り上げられてしまうので、「三世一身の法」は朝廷が思っていたような効果を上げられませんでした。
ここで朝廷は思い切った方向に舵を取ります。それが743年の「墾田永年私財法」でした。「墾田永年私財法」では、開墾した土地を永久に自分のものにしてもいい、としたのです。
……あれ?口分田にする土地が欲しかったんじゃないの?
少し先の未来で崩壊する「公地公民」
ちょっとだけ先の話をすると、「墾田永年私財法」は「大化の改新」のときに制定された「公地公民」の制度を崩すことになります。「公地公民」を簡単に言うと、「土地も人も、みんな国(=天皇)のもの」という決まりです。だけど、「墾田永年私財法」によって新しく開墾した土地は私有地、つまり、完全に国の手を離れた個人の所有物ということになってしまいます。
現代だと、個人の土地の権利は国や法がしっかり守ってくれていますよね。でも、奈良時代はどうでしょうか?個人の財産を守ってくれる警察や裁判所はありません。それに、農民が個人的に開墾を行うのはとんでもない重労働で、簡単に開墾事業に着手することもできません。
一般農民がやらなければ誰がやるの?――答えは、貴族と寺社でした。特に貴族には開墾する人手がありますし、すぐに利益にならなくても平気です。貴族や寺社の持つ土地を荘園と言いますが、荘園には「不輸の権」と「不入の権」といって、土地に対する税金を払わなくてよかったり、朝廷の役人を立入禁止にできる権利が認められていました。この権利のおかげで貴族と寺社の荘園が増え、そこに農民を雇って農業をさせ、収穫の一部を年貢として貴族たちに納めさせます。「公地公民」制度下なら、本来この年貢は国に納められる税だったはず。大事な収入を失った国は、「墾田永年私財法」によって貧しくなっていくのでした。
ドタバタ遷都の影に藤原氏あり
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藤原京から平城京へと慌ただしい遷都でしたが、当時を記録する歴史書『続日本紀』には簡潔に「遷都した」としか書かれておらず、一切の詳細がわかっていません。藤原京で疫病が流行したとか、平城京の方が交通の便がいいとか、モデルにした唐の首都・長安と形が違ったからとか、いろんな説はありました。しかし、平城京の形を見ると、当時の朝廷に台頭した藤原氏の影響があったと考えられました。
長安の都は、大きな長方形の北に皇城があり、そこから南の明徳門に向けて真っ直ぐ大路が伸びています。その大路の左右を右街、左街に分けた左右対称な都市でした。それに倣って造られたはずの平城京ですが、しかし、図の平城京の形を見るとなんだか右に膨らんでいませんか?この外京と呼ばれるところに住んでいたのが藤原氏です。
外京には、藤原氏の氏寺の興福寺や、藤原氏の氏神を祀る春日大社がありました。興福寺も春日大社も藤原氏ゆかりのもので、天皇家とは関係ないように見えますよね?ところが、興福寺は奈良の寺院の中心に、春日大社は国家の神社として扱われるようになります。さらにもう少し後になると、ここに「奈良の大仏」で知られる東大寺が建立されることになるのです。
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