その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、中岡慎太郎について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、中岡慎太郎は土佐の大庄屋の生まれ
中岡慎太郎(なかおか しんたろう)は、天保9年(1838年)4月13日、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現高知県安芸郡北川村柏木)で、北川郷の大庄屋中岡小伝次と後妻ウシの長男として誕生。きょうだいは姉が3人で慎太郎は末っ子。
尚、父小伝次は、慎太郎が生まれたときは60歳で、慎太郎の次姉の婿に中岡家を継がせるつもりだったよう。名は道正、通称ははじめ福太郎、福五郎、光次、のち脱藩後に慎太郎と改名。号は遠山、迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。ここでは慎太郎で統一。
1-2、慎太郎の子供時代
慎太郎は、子供の頃から利発で豪胆、物心のつく頃から父に厳しく躾けられ、4歳になると寺の住職から教えを受けるようになり、7歳で、2里(約8km)離れた隣村の塾へ片道2時間かけて四書の講義に通い、14歳になる頃には塾の講師代役を勤める神童ぶりだったそう。
1-3、慎太郎、18歳で武市半平太瑞山に出会う
アラツク – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
慎太郎はまた、間崎哲馬(滄浪)に入門して経史を学んだが、同門に吉村寅太郎、岩崎弥太郎などがいたということ。
そして嘉永6年(1853年)、安芸郡奉行所に藩校田野学館が併設開校。生徒数は約50人で、漢学、習字、弓術、砲術、槍術、剣術、柔術、練兵の授業を行い、高知の致道館と並んで土佐の藩校として、慎太郎の他には、清岡道之助、清岡治之助等、数多くの人材を輩出。
慎太郎は安政元年(1854年)入学、翌年、出張稽古に来た武市半平太瑞山に出会い、剣術を学んで弟子となり、村を出て城下の武市の道場に入門、高知城下で2年暮らして歴史や兵学、西洋砲術などを学び、武市の親友で3歳年上の坂本龍馬とも知り合ったということ。安政4年(1857年)、19歳のとき、慎太郎は野友村庄屋利岡彦次郎の長女兼(かね)15歳と結婚。
文久元年(1861年)、武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動に。
こちらの記事もおすすめ
三菱財閥の創設者『岩崎弥太郎』1代で巨大な財を成した男の生涯を幕末マニアが5分で詳しくわかりやすく解説
1-4、慎太郎、大庄屋としてもすぐれた手腕を発揮
安政5年(1858年)、慎太郎は、20歳のころから「大庄屋見習い」としての仕事を老齢の父小伝次から引継ぎ、北川郷の治政に携わることに。
「陸援隊始末記」などによれば、安政4年(1857年)、慎太郎が父の病で実家へ戻った家へもどった翌年、南海トラフ大地震で被害を受けた村の復興に尽力。自家の田畑を抵当に入れて借りたお金で飢えた村民に米を配り、さつまいもを500貫ほど集めたが、それでは足りず、飢饉のときに開ける貯蔵米の倉を開けてもらおうと高知まで行き、国家老桐間蔵人の屋敷を訪ねたが、夕方だったので取次いでもらえず。しかたなく門で朝まで待っていたら、早朝散歩に出た桐間家老が慎太郎を見付けて事情を聞き、慎太郎の必死の陳情にすぐさま倉を開けて村民の救済が出来たそう。村民はこの慎太郎の恩を忘れず、明治45年に顕彰碑を。
また、慎太郎の北川郷は、川の両側すぐに山がせまる地形で農地の確保が簡単ではなく、山林の権利も豪商に握られ、川の氾濫もしばしば起こる悪条件の土地だったので、耕地整理や、ロウを採るための櫨(ハゼの木)の栽培、杉や漆などの売れる木の植林という施策を行ったということ。慎太郎は大庄屋として、民政家の資質もあったようで、「光次(慎太郎の前名)の並木」と呼ばれた植林の一帯が残っていたり、塩の代わりにと慎太郎が育成を奨めたが、当時は栽培が難しかった柚子は、現在は北川村どころか高知県の特産品に。
尚、中岡家は地元の有力な庄屋で、名字帯刀を許された郷士の身分、土佐の庄屋は幕府に批判的で幕末以前のはやくから庄屋連盟を結び、勤王思想を持ち、百姓は天皇の家来で藩主の私有ではないという思想を持っていたということで、脱藩して志士になったものも多く、慎太郎もそう言う考え方を持っていたよう。
2-1、慎太郎、50人組で江戸へ
文久2年(1862年)、文久の改革で、参勤交代が緩和されて江戸在住の大名の家族が国元へ帰り、各藩の出費は軽減。しかし江戸の大名相手に営業していた渡り中間など数万人が困窮、改革の旗頭の政事総裁職で4賢侯の越前福井藩の松平春嶽と土佐藩の山内容堂らの邸内に、石を投げるなどの危害を加えるという噂が土佐の国元に伝わり、慎太郎は、土佐郷士、足軽、庄屋が中心の「50人組」の伍長として前藩主山内容堂を警護するために京都見物を経て江戸へ出府、そして長州藩の久坂玄瑞らと知り合い、後に容堂が土佐藩に招聘したいと考えていた佐久間象山を訪ねるよう命を受け、久坂らと松代に水戸藩と次いで長野松代の象山を訪ねて政治や国防に関して議論をしたということ。
こちらの記事もおすすめ
江戸の歴史を学ぶなら必須「参勤交代」を元塾講師が分かりやすくわかりやすく解説!
2-2、慎太郎、25歳で土佐藩を脱藩
文久3年(1863年)、京都では8月18日の政変が起き、攘夷派の公卿三条実美(さねとみ)らが失脚、朝廷から追放された三条ら七卿は都落ちして長州藩の領内へ。その直後には土佐藩でも土佐勤王党が藩の弾圧にあい、武市半平太瑞山らが捕縛される事態に。慎太郎は、長州の様子を見に行き一旦帰国したが、危険を感じて脱藩して長州へ逃れたということ。
同年9月、長州藩に亡命。脱藩後、慎太郎は尊皇攘夷派の志士たちから武市半平太瑞山の正当な後継者とみなされて、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となり、周防国三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)を務めて招賢閣の会議員にも推され、長州や各地の志士たちとの重要な連絡役も果たしたそう。元治元年(1864年)には、中沼了三塾に入門して薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)らの知遇を得るなど、人脈も開拓。
こちらの記事もおすすめ
幕末のキーワード!「尊王攘夷」の意味を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説
2-3、慎太郎、長州軍の一員として禁門の変で戦う
慎太郎は、元治元年(1864年)の新年早々から、長州藩の形勢挽回をはかるため、京に上って長州藩邸を根城として潜伏し、行動を起こすことに。慎太郎は、来島又兵衛を説得できず国元を出奔してきた高杉晋作らと、公武合体派の首魁の差綱藩主の父島津久光暗殺を計画するが、実行できず。そして、西郷信吾(従道、隆盛の弟)ら薩摩藩士とも面識を得、浪士を結集させて決起を計画したが叶わず。
長州に戻って再起を図ったのが5月で、三田尻を出て京へ向かったのが6月7日、池田屋の変が6月5日で、慎太郎は多くの同志を失うことに。そして京に入った慎太郎は再び長州藩邸に入って、長州の「進発論」が決定すると、天龍寺の国司、来島隊の陣営に入って禁門の変で遊撃隊として出陣、負傷。また、第一次長州征伐中は禁門の変で自刃した真木和泉に代わり、忠勇隊総督も務めたということ。
こちらの記事もおすすめ
長州の過激派攘夷志士で奇兵隊の創設者「高杉晋作」について歴女がとことんわかりやすく解説
\次のページで「3-1、慎太郎、倒幕のため薩長同盟に向かって動く」を解説!/