今回は、織田信長の妹で浅井長政(あざいながまさ)との政略結婚、その後の落城の悲劇で有名なお市の方について学ぶぞ。お市の方といえば絶世の美女で悲劇のヒロインだ、どんな生涯を送ったのかみんな気になるでしょう。

それでは、女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。今回は女性のあんじぇりかから見ても、実に興味深い悲劇のヒロインのお市の方を紹介する。

悲劇の女性お市の方の生涯を追ってみる

お市の方は、戦国時代を代表する美女と言われた人ですが、織田家と浅井家の同盟のための政略結婚、幸せな結婚生活も同盟が破れて戦争になり落城して終焉。その後、柴田勝家と再婚して再び落城して自害というまさに悲劇のヒロインで、生き残った3人の娘たち、茶々、初、江の行く末と共にドラマになるほどの人生を送ったことで、何百年経っても人々の注目を集める女性。お市の方について5分読めばわかるようにまとめてみました。

1、お市の方は織田家の生まれ

お市の方は、天文16年(1547年)の生まれで、織田信長の父信秀の5女
しかし諸説があり、母は信秀正室の土田御前(どだ、またはつちだ)、信長の同母妹で13歳年下となり、他に信行、信包(のぶかね)、秀孝、お犬の方が同腹のきょうだいという説。または、信長の従兄弟の織田広良(與康)の娘であるとか、信長の叔父・織田信光の娘で信長の従妹説も。しかし小谷落城後に出戻ってきたお市の方と娘たちの待遇がかなり良いことを考えると、同母妹説が有力視されるのでは。他に兄信長の娘分として嫁いだので信長の愛妾だという説まであるが、これはお市の方が4歳の時に父織田信秀が死去しているので、結婚に際して長兄で家長の信長がお市の方の親代わりとなって、その娘分とされることで何ら問題はないはず。

名前は市で、市姫、お市御寮人と言われ、結婚後はお市の方、小谷の方、または小谷殿、秀子という名も。

1-1、美人の誉れ高く聡明な女性

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By 不詳 - 高野山持明院蔵「浅井長政夫人像」, パブリック・ドメイン, Link

今に残る肖像画は、長女の淀殿が、父長政の17回忌と母お市の方の7回忌の菩提を弔うために描かせて高野山持明院に奉納したもの。戦国時代女性の夏の正装で、打掛の上半身を脱いで腰に巻きつけた腰巻姿で、ぱっと見た印象がなんとも華やか。
織田家は信長以下美形ぞろいの家系で、お市はそのなかでもナンバーワンの美女と言われ、しかもその頃ではかなり大柄で160センチ以上あったということ。
そして「男だったら立派な武将になったろう」と信長が嘆息したという話があるくらいで、よほど頭がよくて芯の強い女性だったのでしょう。

2、浅井長政と結婚

image by PIXTA / 46819325

これは織田信長と浅井長政の同盟関係の証としての政略結婚
この結婚の時期も諸説あり、永禄7年(1564年)または永禄8年、永禄10年説も。

尚、お市の方はこのとき20歳前後、この頃の武家の女性の初婚年齢が14歳前後だったことを考えると、晩婚過ぎる、再婚ではないか、浅井長政の前に誰かと結婚歴があるのではないかという説あり。
しかし、お市の方は尾張の国だけでなく近隣諸国にも噂が及ぶほどの美貌の持ち主。それに、兄の信長が「男なら良い武将になった」と惜しんだほど聡明な女性となれば、信長としても滅多なところに嫁にやりたくない、ここぞと思う重要な同盟相手にお市の方を送り込み、相手との間を堅固にするのに貢献してもらいたいと、相手を選り好みしていたからではないか、と考えることも出来ますよね。

そういうわけで、信長が京都を目指すためにも重要な地である北近江国の小谷城主、それもなかなかの器量を持つという注目株の浅井長政との結婚となったわけでは。

信長は浅井家の承諾を得て大喜びし、本来、浅井家から織田家がもらうはずの結納金も自ら出したと伝わっているので、きっと豪華な嫁入り道具を揃えて送り出したことでしょう。

2-1、浅井長政とはどういう人物か

北近江の浅井氏はもともとは北近江半国の守護の京極氏の家来で、長政の祖父亮政が、京極家のお家騒動を発端に勢力を持った家。次の長政父の久政は亮政ほどの人物ではなく、浅井氏の家来たちは若いながらも初陣で頭角をあらわした嫡子の長政(当時は賢政)に期待して、強引に久政を隠居させて代替わりさせたくらい、長政は若いながらも戦国大名として注目株

ということで、信長の方から縁談を持ちかけ、同盟を申し出た次第。
しかし、浅井家は越前の朝倉家とは長年のつながりがあり、信長は朝倉家とは敵対関係にあることで、浅井家中では信長との同盟に反対の声が多く、結局、長政は信長に「朝倉との不戦の誓い」を確認した後に、信長との同盟とお市の方との結婚を承諾。その頃長政は、主筋の六角家の家臣平井定武の娘と婚約を破談にしてお市の方に乗り換えたのでした。また、賢政の名も信長の一字をもらって長政と改め、花押のデザインも、長の字に変えたという説も。

とにかく織田と浅井の同盟が出来たおかげで、信長は上洛への道筋である近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりもゲット。信長が足利義昭を奉じて上洛したとき、長政も呼ばれて上洛して交流も。

2-2、お市の方と長政は円満だった

この時代、結婚相手とは婚礼の席でほぼ初対面、現代から見れば異常な感じでも、高い身分の人たちはむしろそれが当たり前で、家のために役目を持って嫁ぐことに覚悟を持っていたくらい。
あの下級武士の寧々の母ですら、秀吉と寧々の恋愛を「野合」と言って認めなかったというので、恋愛での結びつきは下品とされていたらしい。
浅井長政はとても大柄な男性で、お市の方との仲は良く娘3人が次々と誕生

信長は他家へ嫁いだ娘たちにも思いやり溢れる手紙をたくさん出していた人なので、お市の方にもそういう手紙を出していたはず、お市の方からも長政には信長について色々話していたのでは。
そうやって長政は義理の兄になる信長の器量を認めて親しみを抱いた、また、お市の方から信長に伝える長政や浅井家の様子は、浅井家の動向と共に、義理の弟としても個人的な親しみを持つ切っ掛けになったのでは。
もちろん、お市の方に付き従った男性の家来、女性の付き人もいたはずで、彼らはスパイ的役割を果たしていたのはもちろんのこと、お市の方も嫁いでも兄は大事な存在として忘れず、役割はきちんと果たしたはず。

\次のページで「3、幸せな結婚生活だったが、ついに兄信長の朝倉攻略が始まった」を解説!/

3、幸せな結婚生活だったが、ついに兄信長の朝倉攻略が始まった

天下統一を目指す信長は、浅井長政との同盟関係があるのを信じ切って、元亀元年(1570年)、信長は朝倉攻めを開始。

3-1、信長が朝倉隆景を攻めたせいで、浅井家は同盟破棄した

信長としてはなにしろお市の方を嫁にやったのだし、長政も将来有望な武将だとわかり、浅井家との関係がこれで堅固になって、何をしても自分の味方なのは間違いないと安心しきっていたのでは。
しかし、浅井家は朝倉を攻めないという約束を信長が破ったと大騒ぎに。長政は信長に付きたかったが、父久政や家臣たちがまだ若い長政の意見に耳を貸さなかったかもしれない。そして浅井家は織田家との同盟よりも、朝倉家との古い関係を重んじて、朝倉側に付くことに。信長は浅井家裏切りの知らせを受けても、容易に信じようとしなかったくらいショックを受けたらしい。

3-2、お市の方、両端を縛った小豆の袋を信長に送る

image by PIXTA / 45388827

お市の方は、浅井家が朝倉方に付くということをすぐに兄信長に知らせたということ。陣中見舞いというかたちで、使いの者に小豆の入った布袋をもたせたが、その袋が両端が紐でくくられてあったのを見た信長は、浅井の裏切りで挟み撃ちに合うと一瞬で理解して京の都まで馬を走らせて必死で逃げることに。このときに殿軍を務めた秀吉や家康、明智光秀らの働きでやっと信長軍は脱出できたという、有名な金ケ崎の退き口(のきぐち)という後々まで語り草になった信長必死の合戦でした。
小豆の布袋は作り話という可能性も高いようですが、お市の方がこういう役割を期待されていたことも事実。

3-3、織田信長を敵に回すと恐ろしい報復が

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元亀元年(1570年)9月、織田徳川連合軍対浅井朝倉連合軍による姉川の合戦が行われた後、信長による比叡山の焼き討ち、一向一揆との戦いなどを経て、元亀3年(1572年)7月、信長は再び北近江に来襲し、天正元年(1573年)にはついに一乗谷を落として朝倉氏を滅ぼし、浅井家の小谷城も陥落させ、長政と父久政は自害。長政は享年29歳。27歳のお市の方は3人の娘と共に救出されて織田家に。

信長は天正2年(1574年)の正月に、内輪の宴席で、薄濃(はくだみ)漆塗りに金粉を施した義景、久政、長政のどくろを白木の台に据え置いて酒宴を催した話が有名。
尚、お市の子供ではないが、長政の長男で10歳の万福丸は串刺しの刑に、赤ちゃんだった次男の万寿丸は僧籍に。

\次のページで「4、実家に帰ったお市の方と娘たちの処遇は手厚いものだった」を解説!/

4、実家に帰ったお市の方と娘たちの処遇は手厚いものだった

小谷城から助け出された後、お市の方と娘たちは、信長の許しを得、兄のひとりの信包、またはお市の方の叔父の信次の庇護下に。信長ともう一人の兄信包は、お市の方と娘たちをとても気にかけていて、かなりの贅沢も許したほど優遇。

これは今までのお役目ご苦労という意味か、浅井朝倉合戦で、お市の方の情報が役に立って信長が命拾いしたこともあったかも、そしておそらくは、美しいお市の方の姪たちが成長した後、またまた政略結婚に使おうと大事に養育していたのでしょう。

5、本能寺の変後、お市の方は柴田勝家と再婚、そして

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天正10年(1582年)本能寺で信長が明智光秀に討たれた後、秀吉が明智光秀を討ち取り、織田家の後継者を決めるために清洲城で会議が開催。世に言う清洲会議。
秀吉らは、信長と同じく二条城で討ち取られた嫡男信忠の長子である3歳の三法師を織田家の跡取りと決定。
そのなかで、お市の方と3人の娘たちの処遇も話し合われ、秀吉の助言で重臣の柴田勝家とお市の方は結婚することになり、お市の方も承諾し、3姉妹ともども越前北ノ庄の城へ。
勝家は60歳、お市の方は37歳、しかし20代に見えるほど若々しく美しかったとか。
しかし天正11年(1583年)、勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れたため、お市の方は夫と共に越前北ノ庄城内で自害
辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公かな」
お市の方は、娘3人を「浅井家の血を絶やすな」と遺言し、直筆の書状と共に敵陣の秀吉に託したという。

秀吉は貴婦人好みで知られていて、特に織田家の女性には特別な気持ちを持っていたらしく、織田家出身の姫を何人も寵妾に。なのでお市の方に懸想していても不思議ではなく、北ノ庄城から脱出せずに夫の柴田勝家と運命を共にしたのはお市の方が秀吉を嫌っていたから、という説もうなずけなくはないですが、そんな嫌いな人に大事な若い娘たちを託すかは疑問。
お市の方は兄信長が亡くなった今、自分の役目は終わったといういさぎよい気持ちがあったのでは。

お市の方の子孫

お市の方の娘たちは、茶々、初、江の浅井三姉妹で、晩年に至るまでとても仲が良かったと言われています。

長女の茶々は淀殿と呼ばれて豊臣秀吉の側室となり、鶴松、秀頼を産んだ。秀頼はかなり大柄で肥満体、祖父の浅井長政も大柄な人だったので浅井家の血が濃いと言われたそうです。大坂夏の陣で落城後、秀頼と共に自害し、茶々は生涯で3度も落城の憂き目に。

次女初は浅井家の主筋になる父方従兄でもある京極高次と結婚するも、子供に恵まれず。高次死後は常高院と称して64歳まで長生き。妹江の4女をもらって初と名付けて育て、高次と側室との子の忠高と結婚させたものの、夫婦仲が良くなく早死に。
三女江は、最初は従兄の佐治一成に嫁ぎ、次いで秀吉の甥豊臣秀勝と結婚し、一女完子(さだこ)が生まれるも秀勝が早死。そして三度目に徳川家康の跡取りの秀忠と結婚、9歳とも7歳とも言われる年の差婚で、千姫、家光、東福門院和子など、2男5女が誕生。江の二度目の結婚で生まれた豊臣完子は、九条関白家に嫁ぎ子孫は現在の皇室にまでつながっています。

有名武将の妹で有能な武将を夫に持った美貌の女性だが、悲劇的な生涯だった

お市の方は織田信長の妹として浅井長政に嫁ぎ、浅井3姉妹と呼ばれる娘たちを産みました。政略結婚とはいえ幸せな結婚生活だったのに、兄信長と浅井氏の同盟が破れて戦争になり、信長が小谷城を攻め落とした後、娘たちと共に城から救出。その後、信長の重臣柴田勝家と再婚したが、秀吉に攻められて2度目の落城と共に自害にして果てた悲運の女性。時代と生まれた家がそうさせたのか、美貌で聡明なお姫様なのに贅沢三昧わがまま三昧な生活ではなく、忍従の多い一生を送り、歴史に名を遺したのでした。

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室町時代戦国時代日本史歴史

「お市の方」を女性史好きの歴女がわかりやすく解説!戦国時代、絶世の美女と言われた悲劇のヒロインの生涯が3分で簡単

今回は、織田信長の妹で浅井長政(あざいながまさ)との政略結婚、その後の落城の悲劇で有名なお市の方について学ぶぞ。お市の方といえば絶世の美女で悲劇のヒロインだ、どんな生涯を送ったのかみんな気になるでしょう。

それでは、女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。今回は女性のあんじぇりかから見ても、実に興味深い悲劇のヒロインのお市の方を紹介する。

悲劇の女性お市の方の生涯を追ってみる

お市の方は、戦国時代を代表する美女と言われた人ですが、織田家と浅井家の同盟のための政略結婚、幸せな結婚生活も同盟が破れて戦争になり落城して終焉。その後、柴田勝家と再婚して再び落城して自害というまさに悲劇のヒロインで、生き残った3人の娘たち、茶々、初、江の行く末と共にドラマになるほどの人生を送ったことで、何百年経っても人々の注目を集める女性。お市の方について5分読めばわかるようにまとめてみました。

1、お市の方は織田家の生まれ

お市の方は、天文16年(1547年)の生まれで、織田信長の父信秀の5女
しかし諸説があり、母は信秀正室の土田御前(どだ、またはつちだ)、信長の同母妹で13歳年下となり、他に信行、信包(のぶかね)、秀孝、お犬の方が同腹のきょうだいという説。または、信長の従兄弟の織田広良(與康)の娘であるとか、信長の叔父・織田信光の娘で信長の従妹説も。しかし小谷落城後に出戻ってきたお市の方と娘たちの待遇がかなり良いことを考えると、同母妹説が有力視されるのでは。他に兄信長の娘分として嫁いだので信長の愛妾だという説まであるが、これはお市の方が4歳の時に父織田信秀が死去しているので、結婚に際して長兄で家長の信長がお市の方の親代わりとなって、その娘分とされることで何ら問題はないはず。

名前は市で、市姫、お市御寮人と言われ、結婚後はお市の方、小谷の方、または小谷殿、秀子という名も。

1-1、美人の誉れ高く聡明な女性

Oichinokata.jpg
By 不詳 – 高野山持明院蔵「浅井長政夫人像」, パブリック・ドメイン, Link

今に残る肖像画は、長女の淀殿が、父長政の17回忌と母お市の方の7回忌の菩提を弔うために描かせて高野山持明院に奉納したもの。戦国時代女性の夏の正装で、打掛の上半身を脱いで腰に巻きつけた腰巻姿で、ぱっと見た印象がなんとも華やか。
織田家は信長以下美形ぞろいの家系で、お市はそのなかでもナンバーワンの美女と言われ、しかもその頃ではかなり大柄で160センチ以上あったということ。
そして「男だったら立派な武将になったろう」と信長が嘆息したという話があるくらいで、よほど頭がよくて芯の強い女性だったのでしょう。

2、浅井長政と結婚

image by PIXTA / 46819325

これは織田信長と浅井長政の同盟関係の証としての政略結婚
この結婚の時期も諸説あり、永禄7年(1564年)または永禄8年、永禄10年説も。

尚、お市の方はこのとき20歳前後、この頃の武家の女性の初婚年齢が14歳前後だったことを考えると、晩婚過ぎる、再婚ではないか、浅井長政の前に誰かと結婚歴があるのではないかという説あり。
しかし、お市の方は尾張の国だけでなく近隣諸国にも噂が及ぶほどの美貌の持ち主。それに、兄の信長が「男なら良い武将になった」と惜しんだほど聡明な女性となれば、信長としても滅多なところに嫁にやりたくない、ここぞと思う重要な同盟相手にお市の方を送り込み、相手との間を堅固にするのに貢献してもらいたいと、相手を選り好みしていたからではないか、と考えることも出来ますよね。

そういうわけで、信長が京都を目指すためにも重要な地である北近江国の小谷城主、それもなかなかの器量を持つという注目株の浅井長政との結婚となったわけでは。

信長は浅井家の承諾を得て大喜びし、本来、浅井家から織田家がもらうはずの結納金も自ら出したと伝わっているので、きっと豪華な嫁入り道具を揃えて送り出したことでしょう。

2-1、浅井長政とはどういう人物か

北近江の浅井氏はもともとは北近江半国の守護の京極氏の家来で、長政の祖父亮政が、京極家のお家騒動を発端に勢力を持った家。次の長政父の久政は亮政ほどの人物ではなく、浅井氏の家来たちは若いながらも初陣で頭角をあらわした嫡子の長政(当時は賢政)に期待して、強引に久政を隠居させて代替わりさせたくらい、長政は若いながらも戦国大名として注目株

ということで、信長の方から縁談を持ちかけ、同盟を申し出た次第。
しかし、浅井家は越前の朝倉家とは長年のつながりがあり、信長は朝倉家とは敵対関係にあることで、浅井家中では信長との同盟に反対の声が多く、結局、長政は信長に「朝倉との不戦の誓い」を確認した後に、信長との同盟とお市の方との結婚を承諾。その頃長政は、主筋の六角家の家臣平井定武の娘と婚約を破談にしてお市の方に乗り換えたのでした。また、賢政の名も信長の一字をもらって長政と改め、花押のデザインも、長の字に変えたという説も。

とにかく織田と浅井の同盟が出来たおかげで、信長は上洛への道筋である近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりもゲット。信長が足利義昭を奉じて上洛したとき、長政も呼ばれて上洛して交流も。

2-2、お市の方と長政は円満だった

この時代、結婚相手とは婚礼の席でほぼ初対面、現代から見れば異常な感じでも、高い身分の人たちはむしろそれが当たり前で、家のために役目を持って嫁ぐことに覚悟を持っていたくらい。
あの下級武士の寧々の母ですら、秀吉と寧々の恋愛を「野合」と言って認めなかったというので、恋愛での結びつきは下品とされていたらしい。
浅井長政はとても大柄な男性で、お市の方との仲は良く娘3人が次々と誕生

信長は他家へ嫁いだ娘たちにも思いやり溢れる手紙をたくさん出していた人なので、お市の方にもそういう手紙を出していたはず、お市の方からも長政には信長について色々話していたのでは。
そうやって長政は義理の兄になる信長の器量を認めて親しみを抱いた、また、お市の方から信長に伝える長政や浅井家の様子は、浅井家の動向と共に、義理の弟としても個人的な親しみを持つ切っ掛けになったのでは。
もちろん、お市の方に付き従った男性の家来、女性の付き人もいたはずで、彼らはスパイ的役割を果たしていたのはもちろんのこと、お市の方も嫁いでも兄は大事な存在として忘れず、役割はきちんと果たしたはず。

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