

それでは、女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 悲劇の女性お市の方の生涯を追ってみる
- 1、お市の方は織田家の生まれ
- 1-1、美人の誉れ高く聡明な女性
- 2、浅井長政と結婚
- 2-1、浅井長政とはどういう人物か
- 2-2、お市の方と長政は円満だった
- 3、幸せな結婚生活だったが、ついに兄信長の朝倉攻略が始まった
- 3-1、信長が朝倉隆景を攻めたせいで、浅井家は同盟破棄した
- 3-2、お市の方、両端を縛った小豆の袋を信長に送る
- 3-3、織田信長を敵に回すと恐ろしい報復が
- 4、実家に帰ったお市の方と娘たちの処遇は手厚いものだった
- 5、本能寺の変後、お市の方は柴田勝家と再婚、そして
- 有名武将の妹で有能な武将を夫に持った美貌の女性だが、悲劇的な生涯だった
この記事の目次

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。今回は女性のあんじぇりかから見ても、実に興味深い悲劇のヒロインのお市の方を紹介する。
悲劇の女性お市の方の生涯を追ってみる
お市の方は、戦国時代を代表する美女と言われた人ですが、織田家と浅井家の同盟のための政略結婚、幸せな結婚生活も同盟が破れて戦争になり落城して終焉。その後、柴田勝家と再婚して再び落城して自害というまさに悲劇のヒロインで、生き残った3人の娘たち、茶々、初、江の行く末と共にドラマになるほどの人生を送ったことで、何百年経っても人々の注目を集める女性。お市の方について5分読めばわかるようにまとめてみました。
1、お市の方は織田家の生まれ
お市の方は、天文16年(1547年)の生まれで、織田信長の父信秀の5女。
しかし諸説があり、母は信秀正室の土田御前(どだ、またはつちだ)、信長の同母妹で13歳年下となり、他に信行、信包(のぶかね)、秀孝、お犬の方が同腹のきょうだいという説。または、信長の従兄弟の織田広良(與康)の娘であるとか、信長の叔父・織田信光の娘で信長の従妹説も。しかし小谷落城後に出戻ってきたお市の方と娘たちの待遇がかなり良いことを考えると、同母妹説が有力視されるのでは。他に兄信長の娘分として嫁いだので信長の愛妾だという説まであるが、これはお市の方が4歳の時に父織田信秀が死去しているので、結婚に際して長兄で家長の信長がお市の方の親代わりとなって、その娘分とされることで何ら問題はないはず。
名前は市で、市姫、お市御寮人と言われ、結婚後はお市の方、小谷の方、または小谷殿、秀子という名も。
1-1、美人の誉れ高く聡明な女性
By 不詳 – 高野山持明院蔵「浅井長政夫人像」, パブリック・ドメイン, Link
今に残る肖像画は、長女の淀殿が、父長政の17回忌と母お市の方の7回忌の菩提を弔うために描かせて高野山持明院に奉納したもの。戦国時代女性の夏の正装で、打掛の上半身を脱いで腰に巻きつけた腰巻姿で、ぱっと見た印象がなんとも華やか。
織田家は信長以下美形ぞろいの家系で、お市はそのなかでもナンバーワンの美女と言われ、しかもその頃ではかなり大柄で160センチ以上あったということ。
そして「男だったら立派な武将になったろう」と信長が嘆息したという話があるくらいで、よほど頭がよくて芯の強い女性だったのでしょう。
2、浅井長政と結婚

これは織田信長と浅井長政の同盟関係の証としての政略結婚。
この結婚の時期も諸説あり、永禄7年(1564年)または永禄8年、永禄10年説も。
尚、お市の方はこのとき20歳前後、この頃の武家の女性の初婚年齢が14歳前後だったことを考えると、晩婚過ぎる、再婚ではないか、浅井長政の前に誰かと結婚歴があるのではないかという説あり。
しかし、お市の方は尾張の国だけでなく近隣諸国にも噂が及ぶほどの美貌の持ち主。それに、兄の信長が「男なら良い武将になった」と惜しんだほど聡明な女性となれば、信長としても滅多なところに嫁にやりたくない、ここぞと思う重要な同盟相手にお市の方を送り込み、相手との間を堅固にするのに貢献してもらいたいと、相手を選り好みしていたからではないか、と考えることも出来ますよね。
そういうわけで、信長が京都を目指すためにも重要な地である北近江国の小谷城主、それもなかなかの器量を持つという注目株の浅井長政との結婚となったわけでは。
信長は浅井家の承諾を得て大喜びし、本来、浅井家から織田家がもらうはずの結納金も自ら出したと伝わっているので、きっと豪華な嫁入り道具を揃えて送り出したことでしょう。
2-1、浅井長政とはどういう人物か
北近江の浅井氏はもともとは北近江半国の守護の京極氏の家来で、長政の祖父亮政が、京極家のお家騒動を発端に勢力を持った家。次の長政父の久政は亮政ほどの人物ではなく、浅井氏の家来たちは若いながらも初陣で頭角をあらわした嫡子の長政(当時は賢政)に期待して、強引に久政を隠居させて代替わりさせたくらい、長政は若いながらも戦国大名として注目株。
ということで、信長の方から縁談を持ちかけ、同盟を申し出た次第。
しかし、浅井家は越前の朝倉家とは長年のつながりがあり、信長は朝倉家とは敵対関係にあることで、浅井家中では信長との同盟に反対の声が多く、結局、長政は信長に「朝倉との不戦の誓い」を確認した後に、信長との同盟とお市の方との結婚を承諾。その頃長政は、主筋の六角家の家臣平井定武の娘と婚約を破談にしてお市の方に乗り換えたのでした。また、賢政の名も信長の一字をもらって長政と改め、花押のデザインも、長の字に変えたという説も。
とにかく織田と浅井の同盟が出来たおかげで、信長は上洛への道筋である近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりもゲット。信長が足利義昭を奉じて上洛したとき、長政も呼ばれて上洛して交流も。
2-2、お市の方と長政は円満だった
この時代、結婚相手とは婚礼の席でほぼ初対面、現代から見れば異常な感じでも、高い身分の人たちはむしろそれが当たり前で、家のために役目を持って嫁ぐことに覚悟を持っていたくらい。
あの下級武士の寧々の母ですら、秀吉と寧々の恋愛を「野合」と言って認めなかったというので、恋愛での結びつきは下品とされていたらしい。
浅井長政はとても大柄な男性で、お市の方との仲は良く娘3人が次々と誕生。
信長は他家へ嫁いだ娘たちにも思いやり溢れる手紙をたくさん出していた人なので、お市の方にもそういう手紙を出していたはず、お市の方からも長政には信長について色々話していたのでは。
そうやって長政は義理の兄になる信長の器量を認めて親しみを抱いた、また、お市の方から信長に伝える長政や浅井家の様子は、浅井家の動向と共に、義理の弟としても個人的な親しみを持つ切っ掛けになったのでは。
もちろん、お市の方に付き従った男性の家来、女性の付き人もいたはずで、彼らはスパイ的役割を果たしていたのはもちろんのこと、お市の方も嫁いでも兄は大事な存在として忘れず、役割はきちんと果たしたはず。
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