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攘夷志士として活躍した「井上馨」明治時代は西洋化の外務大臣を歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は井上馨を取り上げるぞ。

長州藩士で攘夷を叫んでいたのに、明治になってガラっと変わったんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、井上馨について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、井上馨は長州藩上士の生まれ

image by PIXTA / 53753234

井上馨(かおる)は、天保6年11月28日(1836年1月16日)、長州藩士井上光亨(五郎三郎、大組100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現山口市湯田温泉)で誕生。生家の井上家も養子となった志道家とも藩祖毛利元就以前から仕えた、意外なほどの名門。

幼名は勇吉、通称は長州藩主毛利敬親から拝受の聞多(ぶんた)、諱は惟精(これきよ)。ここでは井上馨で統一。

嘉永4年(1851年)、14歳の井上馨は、兄井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。尚、井上馨は松下村塾の吉田松陰の門下生ではないんですね。

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ほほう、松陰先生の門下生ではないのか、うまく入り込んだんだな。

1-2、井上馨、参勤交代で江戸へ、伊藤博文と親友に

毛利家は表高が36万石で、井上家は家格は百石でも実際の俸禄は40石程度で、幼い井上馨も邸内で畑を耕したりという暮らし。安政2年(1855年)、次男の井上馨は、19歳で長州藩士志道慎平(しじ、大組250石)の養嗣子に。同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い江戸へ下向、江戸で同じ長州藩士とはいえ身分の低い6歳年下の伊藤博文(俊輔)と出会って意気投合、お神酒徳利と言われるほどの仲良しになり、生涯の親友に。

尚、井上馨は、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事、蘭学も学んだということ。そして万延元年(1860年)、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わったが、また文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを勤め江戸へ再下向。

聞多は、新知識を仕入れて藩主に教えるため、何でも知っているという意味だそう。

1-3、井上馨、イギリス公使館焼き討ちに参加

井上馨は、江戸では英学修業を仰せつかって横浜に家を借りて住むはずが、藩からもらったお金を遊興に使ったりと遊学、しかし文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入。

そして長州藩邸にたむろしていた高杉晋作、久坂玄瑞らの尊王攘夷運動に共鳴。同年11月、外国公使がしばしば武蔵国金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと高杉らが相談、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話し、武市が土佐藩前藩主山内容堂に、容堂から長州藩世子の毛利定広に伝わり、世子自ら止めに行ったせいで中止になり、長州藩邸で謹慎、謹慎中に御楯組結成。

そして文久3年(1863年)1月31日、高杉、久坂井上馨、伊藤ら御楯組の12名は、品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼討ちを決行。

2-1、井上馨、イギリス留学

文久3年(1863年)3月、井上馨は、執政の周布政之助が攘夷後の開国に向け、藩からイギリスへ留学生を送ることを知り、伊藤と共に加えるよう嘆願、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助とともに長州五傑(長州ファイブ)の1人としてイギリスへ密航

井上馨は、横浜から上海に着いてすぐ国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、さすがの伊藤も呆れたということ。彼らはロンドンではホームステイして、色々見聞を広めて英語も勉強、翌元治元年(1864年)9月、ロンドンタイムズ紙で下関が攻撃されるという記事を読み、仰天した井上馨は、伊藤博文とともに半年で留学を切り上げて急遽帰国して和平交渉に尽力。
尚、このとき帰国した井上馨と伊藤博文は明治後、政治家になり、残った山尾庸三、井上勝、遠藤謹助は官僚に

2-2、井上馨、高杉晋作、伊藤博文でイギリスと交渉

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上野彦馬 – 「近代日本を支えた人々」, パブリック・ドメイン, リンクによる

この頃長州藩は、佐幕派の俗論党が政権を執っていたが、四国艦隊に下関を砲撃され、幕府軍は長州征伐でカオス状態、しかし井上馨が攘夷はだめ、国がつぶれる、はやく四国艦隊と和睦と口酸っぱく主張しても藩の首脳たち、藩主父子も藩論が攘夷で沸騰しているときに攘夷はやめるといえないという雰囲気で、井上馨、癇癪を爆発させ、一度こっぴどい目にあわないとわからないと突き放したそう。

四国艦隊の砲撃で下関が占領後、和睦せよと藩から井上馨に命令が来たが、いまさら遅いとますます怒り、とうとう世子定広に、これからは開国で行くと言わせ、藩の罪人となって家の座敷牢にいた高杉晋作を許して交渉役にして切り抜けたということ。高杉、井上馨、伊藤博文は3人でがんばり、カオスのひとつを解決に。

尚、司馬遼太郎著「世に棲む日日」では、これまでは無名志士にすぎなかった井上馨と伊藤博文が、留学を切り上げて帰国し、必死で奔走したことで英雄にかけあがったと評価

2-3、井上馨、暗殺未遂

しかし井上馨は、9月25日、俗論党に襲われて瀕死の重傷を。このとき、芸妓の中西君尾からもらった鏡を懐にしまっていて急所を守ったとか、美濃の浪人で適塾出身の医師所郁太郎が、畳針で約50針の縫合の処置をして一命を取り留めたとか、あまりの重傷に兄の光遠に介錯を頼んだが、母が血だらけの聞多をかき抱いてとめたという、井上馨の修羅場エピソードは、明治時代の国語の教科書に「母の力」と題して紹介され、戦前ではよく知られた話だそう。

また、仲良しの伊藤が見舞いに訪れ、井上馨が危険だから早く離れろと忠告したが、伊藤がなかなか承諾しなかった話もあるが、伊藤は身分が低く暗殺されるほどの存在ではなかったそう。

2-4、井上馨、高杉晋作の功山寺挙兵に決起

井上馨は、その後体調回復、しかし俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかったが、なんとか高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起して成功、再び藩論を開国攘夷に統一。

その後は、慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉、伊藤と結託し、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じて天領の別府に逃れ、しばらく潜伏療養。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、7月から8月にかけて長崎で「薩長同盟」の成果として、薩摩藩名義で亀山社中を窓口にしてトーマス・グラバーからゲベール銃を購入、同年6月から8月までの第2次長州征伐の石州口で戦って、江戸幕府軍に勝利し、9月2日、広沢真臣とともに幕府の代表勝海舟と休戦協定を締結。

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