今回は井上馨を取り上げるぞ。

長州藩士で攘夷を叫んでいたのに、明治になってガラっと変わったんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、井上馨について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、井上馨は長州藩上士の生まれ

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井上馨(かおる)は、天保6年11月28日(1836年1月16日)、長州藩士井上光亨(五郎三郎、大組100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現山口市湯田温泉)で誕生。生家の井上家も養子となった志道家とも藩祖毛利元就以前から仕えた、意外なほどの名門。

幼名は勇吉、通称は長州藩主毛利敬親から拝受の聞多(ぶんた)、諱は惟精(これきよ)。ここでは井上馨で統一。

嘉永4年(1851年)、14歳の井上馨は、兄井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。尚、井上馨は松下村塾の吉田松陰の門下生ではないんですね。

1-2、井上馨、参勤交代で江戸へ、伊藤博文と親友に

毛利家は表高が36万石で、井上家は家格は百石でも実際の俸禄は40石程度で、幼い井上馨も邸内で畑を耕したりという暮らし。安政2年(1855年)、次男の井上馨は、19歳で長州藩士志道慎平(しじ、大組250石)の養嗣子に。同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い江戸へ下向、江戸で同じ長州藩士とはいえ身分の低い6歳年下の伊藤博文(俊輔)と出会って意気投合、お神酒徳利と言われるほどの仲良しになり、生涯の親友に。

尚、井上馨は、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事、蘭学も学んだということ。そして万延元年(1860年)、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わったが、また文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを勤め江戸へ再下向。

聞多は、新知識を仕入れて藩主に教えるため、何でも知っているという意味だそう。

1-3、井上馨、イギリス公使館焼き討ちに参加

井上馨は、江戸では英学修業を仰せつかって横浜に家を借りて住むはずが、藩からもらったお金を遊興に使ったりと遊学、しかし文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入。

そして長州藩邸にたむろしていた高杉晋作、久坂玄瑞らの尊王攘夷運動に共鳴。同年11月、外国公使がしばしば武蔵国金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと高杉らが相談、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話し、武市が土佐藩前藩主山内容堂に、容堂から長州藩世子の毛利定広に伝わり、世子自ら止めに行ったせいで中止になり、長州藩邸で謹慎、謹慎中に御楯組結成。

そして文久3年(1863年)1月31日、高杉、久坂井上馨、伊藤ら御楯組の12名は、品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼討ちを決行。

2-1、井上馨、イギリス留学

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Maull & Co. - http://www.city.hagi.yamaguchi.jp/hagihaku/event/choshu5/english.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

文久3年(1863年)3月、井上馨は、執政の周布政之助が攘夷後の開国に向け、藩からイギリスへ留学生を送ることを知り、伊藤と共に加えるよう嘆願、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助とともに長州五傑(長州ファイブ)の1人としてイギリスへ密航

井上馨は、横浜から上海に着いてすぐ国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、さすがの伊藤も呆れたということ。彼らはロンドンではホームステイして、色々見聞を広めて英語も勉強、翌元治元年(1864年)9月、ロンドンタイムズ紙で下関が攻撃されるという記事を読み、仰天した井上馨は、伊藤博文とともに半年で留学を切り上げて急遽帰国して和平交渉に尽力。
尚、このとき帰国した井上馨と伊藤博文は明治後、政治家になり、残った山尾庸三、井上勝、遠藤謹助は官僚に

2-2、井上馨、高杉晋作、伊藤博文でイギリスと交渉

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上野彦馬 - 「近代日本を支えた人々」, パブリック・ドメイン, リンクによる

この頃長州藩は、佐幕派の俗論党が政権を執っていたが、四国艦隊に下関を砲撃され、幕府軍は長州征伐でカオス状態、しかし井上馨が攘夷はだめ、国がつぶれる、はやく四国艦隊と和睦と口酸っぱく主張しても藩の首脳たち、藩主父子も藩論が攘夷で沸騰しているときに攘夷はやめるといえないという雰囲気で、井上馨、癇癪を爆発させ、一度こっぴどい目にあわないとわからないと突き放したそう。

四国艦隊の砲撃で下関が占領後、和睦せよと藩から井上馨に命令が来たが、いまさら遅いとますます怒り、とうとう世子定広に、これからは開国で行くと言わせ、藩の罪人となって家の座敷牢にいた高杉晋作を許して交渉役にして切り抜けたということ。高杉、井上馨、伊藤博文は3人でがんばり、カオスのひとつを解決に。

尚、司馬遼太郎著「世に棲む日日」では、これまでは無名志士にすぎなかった井上馨と伊藤博文が、留学を切り上げて帰国し、必死で奔走したことで英雄にかけあがったと評価

2-3、井上馨、暗殺未遂

しかし井上馨は、9月25日、俗論党に襲われて瀕死の重傷を。このとき、芸妓の中西君尾からもらった鏡を懐にしまっていて急所を守ったとか、美濃の浪人で適塾出身の医師所郁太郎が、畳針で約50針の縫合の処置をして一命を取り留めたとか、あまりの重傷に兄の光遠に介錯を頼んだが、母が血だらけの聞多をかき抱いてとめたという、井上馨の修羅場エピソードは、明治時代の国語の教科書に「母の力」と題して紹介され、戦前ではよく知られた話だそう。

また、仲良しの伊藤が見舞いに訪れ、井上馨が危険だから早く離れろと忠告したが、伊藤がなかなか承諾しなかった話もあるが、伊藤は身分が低く暗殺されるほどの存在ではなかったそう。

2-4、井上馨、高杉晋作の功山寺挙兵に決起

井上馨は、その後体調回復、しかし俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかったが、なんとか高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起して成功、再び藩論を開国攘夷に統一。

その後は、慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉、伊藤と結託し、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じて天領の別府に逃れ、しばらく潜伏療養。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、7月から8月にかけて長崎で「薩長同盟」の成果として、薩摩藩名義で亀山社中を窓口にしてトーマス・グラバーからゲベール銃を購入、同年6月から8月までの第2次長州征伐の石州口で戦って、江戸幕府軍に勝利し、9月2日、広沢真臣とともに幕府の代表勝海舟と休戦協定を締結。

\次のページで「3-1、明治後の井上馨」を解説!/

3-1、明治後の井上馨

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慶応3年(1867年)の王政復古後、井上馨は、新政府から参与兼外国事務掛に任じられて九州鎮撫総督澤宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任。浦上四番崩れに関わったあと、明治元年(1868年)6月に長崎府判事に就任、長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業にかかわったそう。

翌年は大阪へ赴任、7月に造幣局知事へ異動、明治2年(1869年)から3年( 1870年)にかけて、長州の奇兵隊脱隊騒動を鎮圧し、明治2年11月に死去した兄の家督を継承して志道姓から井上姓に復姓、甥で兄の次男勝之助を養子にし、明治3年(1870年)8月、大隈重信の仲介で新田俊純の娘武子と結婚。

明治政府では、明治維新に功績のあった薩摩、長州を筆頭に、土佐、肥前と藩閥が出来ていたのですが、大物たちが次々と亡くなったりするなかで、伊藤博文と共に井上馨は政府の重鎮、元勲に。

3-2、井上馨、大蔵省に入省

明治維新後、井上馨は、財政の分かる人材が少なかったこともあって重宝され、木戸孝允(桂小五郎)の引き立てで大蔵省に入り、伊藤博文と行動をともにして財政に力を入れたということ。明治4年(1871年)7月、廃藩置県の秘密会議に出席、同月に副大臣相当職の大蔵大輔に昇進。

そして大蔵卿の大久保利通が木戸や伊藤らと岩倉使節団に加わって2年間の外遊中に、西郷隆盛らと留守政府を預かったが、井上馨は事実上大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるったということ。

当時の大蔵省は、民部省と合併してできた巨大省庁だったので、財政だけでなく地方官僚を通して地方行政にも介入できたため、予算問題では、改革にかかる多額の予算を要求する各省と衝突しただけでなく、学制頒布を掲げる文部卿大木喬任や、地方の裁判所設置と司法権の独立を目指す司法卿江藤新平との対立も発生。

秩禄処分の武士への補填で、吉田清成に命じたアメリカからの外債募集が集まらず、また明治4年(1871年)9月、大久保と建議した田畑永代売買禁止令と地租改正もまだ実現せずで、政府の財政は窮乏。そこで井上は、緊縮財政と予算制度確立を図ったが、文部省が学制頒布、司法省が司法改革などの高い定額を要求するので拒絶し、予算を削ったことなどで江藤らの怒りを買い、明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及され、5月に辞職。

3-3、井上馨、大阪会議を実現

井上馨は、大蔵省を辞職後、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなど実業界に入るも、伊藤の強い要請で政界に復帰。そして井上馨が辞任した木戸と板垣の説得にあたり、伊藤が大久保を説得、両者の間を周旋して会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させたということ。

また、同年に発生した江華島事件の処理として、翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆とともに副使として渡海、朝鮮の交渉にあたり2月に日朝修好条規を締結。

3-4、井上馨、外務卿に就任

大久保暗殺後に伊藤が政権の首班となり、井上馨は明治11年(1878年)伊藤により参議兼工部卿に就任、翌明治12年(1879年)に外務卿へ転任。明治14年(1881年)に大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したが、伊藤と協力して大隈を政界から追放(明治十四年の政変)。この後も朝鮮との外交に対処、翌明治15年(1882年)壬午事変では朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避。

3-5、井上馨、鹿鳴館を建てて華やかに交渉

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不明 - http://www.stained.co.jp/history2.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

井上馨が外務卿の時代、明治16年(1883年)に鹿鳴館を建設、諸外国と不平等条約改正交渉にあたり、明治17年(1884年)の華族令で伯爵に叙爵。

鹿鳴館は井上馨が、日本を文明国と認めない列強との不平等条約改正交渉をスムーズに行うように、西洋と同等に文化的な日本を見せようと作った施設。西洋人から見れば様にならないドレスや燕尾服にシルクハットの日本人たちが、ぎこちなくダンスを踊るのが滑稽視され、また日本御国粋主義者たちには退廃的に映ったのですが、井上馨は大まじめだったようです。

欧米では、パーティーなどの会合では着飾った夫人とカップルで出席し、政事や外交などについて色々話し合いが行われる習慣があったので、家に人を招いてパーティーをする習慣のない日本で、パーティーが出来る公的施設として鹿鳴館が必要だと思ったわけなんですね。

明治16年(1883)に完成した鹿鳴館は、国賓の接待、舞踏会や天長節の祝賀だけでなく、皇族や上流婦人によるチャリティーバザーなども行われましたが、しかし、条約改正交渉もうまくいかず、明治20年(1887年)に井上馨の外務卿を辞職すると鹿鳴館時代は衰退。

3-6、井上馨、実業界の発展にもいろいろと尽力

 井上馨は、紡績業、鉄道事業などを興して殖産興業に努め、日本郵船、藤田組、小野田セメント、筑豊御三家、特に三井財閥の最高顧問になるほど密接な関係をもつなど、実業界の発展に尽力。しかし尾去沢銅山事件に代表されるように、三井や長州系列の政商と密接に関わって、賄賂と利権で私腹を肥やして散財する行為が当時から貪官汚吏(たんかんおり)の権化と批判されていたし、西郷隆盛には、「三井の番頭さん」と皮肉られたのは有名。

\次のページで「3-6、井上馨、その後も閣僚に」を解説!/

3-6、井上馨、その後も閣僚に

井上馨はその後も、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣で内務大臣、第三次伊藤内閣で大蔵大臣など数々の要職を歴任、総理大臣と海軍陸軍大臣の他のほとんどの大臣職をかなりしっかり務めたということで、伊藤博文が交通事故で負傷したため、総理臨時代理を。

そして明治34年(1901年)第4次伊藤内閣の崩壊後、明治天皇の大命降下を受けて組閣作業を行なったが、右腕であった渋沢栄一に大蔵大臣就任を拒否されたため組閣作業から抜け、後輩の桂太郎を内閣総理大臣に推薦して第1次桂内閣が成立。

桂政権では日露戦争勃発まで戦争反対でしたが、明治37年(1904年)に日露戦争が始まると戦費調達に奔走し、戦費調達のために国債を集めて外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通して見事、ユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから多額の外債を獲得。

明治44年(1909年)に伊藤の暗殺後は、元老の一人として政界、財界に大きな影響を与え、大正3年(1914年)には元老会議にで、次期内閣総理大臣に大隈重信を推薦し第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)9月1日に79歳で病死。

4-1、井上馨が関わったとされる疑獄事件

裁判などで汚職が確定したわけではなく、疑いはあるが謎を残した曖昧な結末は現代と同じですが、井上馨が関わったと言われる有名な疑獄事件です。

4-2、尾去沢銅山事件

この事件は、江戸末期に財政危機にあった南部藩が、御用商人の鍵屋村井茂兵衛から多額の借金をしていたが、(南部藩だけでなく他の藩も)当時の慣習から形式上、借金の証文はお金を借りている藩が、商人の村井に貸し付けた文面になっていたことから。そして南部藩所有の尾去沢鉱山は、村井からの借金で運営されているが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていたのですね。

明治元年(1869年)、採掘権は南部藩から村井に移されたのですが、大蔵大輔として諸藩の外債返済の処理を行っていた井上馨は、明治4年(1871年)に、この証文を元になんと村井に借金の返済を求め、村井は自分が貸しているお金を返せと言われて返せないことで、大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえてしまい、村井は破産。

井上馨はこの尾去沢鉱山を競売にかけて、長州の同郷人岡田平蔵に無利息で払い下げ、現地に「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせて私物化を図ったということ。村井は司法省にこれを訴え出たので、司法卿の佐賀藩出身の江藤新平が追及し、井上馨の逮捕を求めるが長州閥の抵抗で出来ず、井上馨の大蔵大輔辞職で終了。そして江藤が下野し、佐賀の乱で死刑になったため真相は解明されずじまい。

政界を離れた井上馨は、鉱山を手に入れた岡田とともに明治6年(1873年)秋、「東京鉱山会社」を設立、翌年1月には鉱山経営に米の売買、軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を益田孝らと設立、岡田の急死(銀座煉瓦街で死体となって発見)で鉱山事業を切り離し、同年3月に益田らと先収会社を設立したのが後に三井物産に発展したということ。

幕末の頃から長州藩士や土佐藩士なんかも、藩のお金で料亭や遊郭でどんちゃん騒ぎしまくって、公私のお金の区別がつかない派手な使い方をしていたようですが、井上馨は明治になってもその癖が抜けなかったのか、それにしてもこれだけ明白な汚職が藩閥のおかげで罪にならないのもすごいですね。

4-3、藤田組贋札事件

明治初期に大阪の政商藤田組が、長州閥の井上馨と贋札を製造した疑惑をもたれた事件。明治11年(1878年)末以来、各地で贋札が発見され,手代の密告で翌年9月に藤田組幹部の藤田伝三郎,中野梧一が逮捕。藤田組は長州藩奇兵隊出身の藤田伝三郎と久原庄三郎らが創立し,特に井上馨の庇護で急成長した商社。中野梧一は旧幕臣(斎藤辰吉)で,廃藩置県後大蔵大輔だった井上馨に見いだされて初代山口県令,のちに辞任して藤田組に。

ということで、当時ドイツに滞在中だった井上馨が藤田組の営業資金にしようとドイツで紙幣を偽造したと伝えられ、藤田組が長州藩出身の井上馨と結託して、贋札を作ったと嫌疑をかけられたということ。自由民権運動が盛んな中で政治問題化、色々謎の多い事件で井上馨も濡れ衣説もあり。

幕末の志士と明治の汚職大臣の2面を持った人物

井上馨は長州の過激な攘夷志士のひとりでイギリス公使館焼き討ちまで行っておきながら、イギリス留学へ、そして下関が砲撃されることを知ってあわてて帰って来て奔走したときが運の分かれ目だったよう。このときの井上馨の活躍はすさまじいものがありました。

が、明治以後は財政関係に詳しいと取り立てられたが、幕末の頃のように公金と私の区別をつけないやり方が抜けなかったのか、汚職事件に関わったり、また条約改正のためのパフォーマンスもあって、鹿鳴館を建ててパーティー三昧とあまりイメージがよくないのは残念。

鹿鳴館時代、攘夷のためにイギリス公使館焼き討ちをしたことについて、外国の外交官に鹿鳴館のパーティーで、あのときとは違いますな閣下と皮肉っぽく言われて苦笑いしたとか、あのときはああでないといかんかったと言ったそう。長州人には珍しく理屈下手だが、なんとか物事をまとめる裁量があったということで、汚職疑惑がありつつ、それでも愛される典型的な日本の政治家のはしりなのかも。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

攘夷志士として活躍した「井上馨」明治時代は西洋化の外務大臣を歴女がわかりやすく解説

今回は井上馨を取り上げるぞ。

長州藩士で攘夷を叫んでいたのに、明治になってガラっと変わったんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、井上馨について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、井上馨は長州藩上士の生まれ

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井上馨(かおる)は、天保6年11月28日(1836年1月16日)、長州藩士井上光亨(五郎三郎、大組100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現山口市湯田温泉)で誕生。生家の井上家も養子となった志道家とも藩祖毛利元就以前から仕えた、意外なほどの名門。

幼名は勇吉、通称は長州藩主毛利敬親から拝受の聞多(ぶんた)、諱は惟精(これきよ)。ここでは井上馨で統一。

嘉永4年(1851年)、14歳の井上馨は、兄井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。尚、井上馨は松下村塾の吉田松陰の門下生ではないんですね。

1-2、井上馨、参勤交代で江戸へ、伊藤博文と親友に

毛利家は表高が36万石で、井上家は家格は百石でも実際の俸禄は40石程度で、幼い井上馨も邸内で畑を耕したりという暮らし。安政2年(1855年)、次男の井上馨は、19歳で長州藩士志道慎平(しじ、大組250石)の養嗣子に。同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い江戸へ下向、江戸で同じ長州藩士とはいえ身分の低い6歳年下の伊藤博文(俊輔)と出会って意気投合、お神酒徳利と言われるほどの仲良しになり、生涯の親友に。

尚、井上馨は、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事、蘭学も学んだということ。そして万延元年(1860年)、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わったが、また文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを勤め江戸へ再下向。

聞多は、新知識を仕入れて藩主に教えるため、何でも知っているという意味だそう。

1-3、井上馨、イギリス公使館焼き討ちに参加

井上馨は、江戸では英学修業を仰せつかって横浜に家を借りて住むはずが、藩からもらったお金を遊興に使ったりと遊学、しかし文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入。

そして長州藩邸にたむろしていた高杉晋作、久坂玄瑞らの尊王攘夷運動に共鳴。同年11月、外国公使がしばしば武蔵国金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと高杉らが相談、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話し、武市が土佐藩前藩主山内容堂に、容堂から長州藩世子の毛利定広に伝わり、世子自ら止めに行ったせいで中止になり、長州藩邸で謹慎、謹慎中に御楯組結成。

そして文久3年(1863年)1月31日、高杉、久坂井上馨、伊藤ら御楯組の12名は、品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼討ちを決行。

2-1、井上馨、イギリス留学

文久3年(1863年)3月、井上馨は、執政の周布政之助が攘夷後の開国に向け、藩からイギリスへ留学生を送ることを知り、伊藤と共に加えるよう嘆願、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助とともに長州五傑(長州ファイブ)の1人としてイギリスへ密航

井上馨は、横浜から上海に着いてすぐ国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、さすがの伊藤も呆れたということ。彼らはロンドンではホームステイして、色々見聞を広めて英語も勉強、翌元治元年(1864年)9月、ロンドンタイムズ紙で下関が攻撃されるという記事を読み、仰天した井上馨は、伊藤博文とともに半年で留学を切り上げて急遽帰国して和平交渉に尽力。
尚、このとき帰国した井上馨と伊藤博文は明治後、政治家になり、残った山尾庸三、井上勝、遠藤謹助は官僚に

2-2、井上馨、高杉晋作、伊藤博文でイギリスと交渉

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上野彦馬 – 「近代日本を支えた人々」, パブリック・ドメイン, リンクによる

この頃長州藩は、佐幕派の俗論党が政権を執っていたが、四国艦隊に下関を砲撃され、幕府軍は長州征伐でカオス状態、しかし井上馨が攘夷はだめ、国がつぶれる、はやく四国艦隊と和睦と口酸っぱく主張しても藩の首脳たち、藩主父子も藩論が攘夷で沸騰しているときに攘夷はやめるといえないという雰囲気で、井上馨、癇癪を爆発させ、一度こっぴどい目にあわないとわからないと突き放したそう。

四国艦隊の砲撃で下関が占領後、和睦せよと藩から井上馨に命令が来たが、いまさら遅いとますます怒り、とうとう世子定広に、これからは開国で行くと言わせ、藩の罪人となって家の座敷牢にいた高杉晋作を許して交渉役にして切り抜けたということ。高杉、井上馨、伊藤博文は3人でがんばり、カオスのひとつを解決に。

尚、司馬遼太郎著「世に棲む日日」では、これまでは無名志士にすぎなかった井上馨と伊藤博文が、留学を切り上げて帰国し、必死で奔走したことで英雄にかけあがったと評価

2-3、井上馨、暗殺未遂

しかし井上馨は、9月25日、俗論党に襲われて瀕死の重傷を。このとき、芸妓の中西君尾からもらった鏡を懐にしまっていて急所を守ったとか、美濃の浪人で適塾出身の医師所郁太郎が、畳針で約50針の縫合の処置をして一命を取り留めたとか、あまりの重傷に兄の光遠に介錯を頼んだが、母が血だらけの聞多をかき抱いてとめたという、井上馨の修羅場エピソードは、明治時代の国語の教科書に「母の力」と題して紹介され、戦前ではよく知られた話だそう。

また、仲良しの伊藤が見舞いに訪れ、井上馨が危険だから早く離れろと忠告したが、伊藤がなかなか承諾しなかった話もあるが、伊藤は身分が低く暗殺されるほどの存在ではなかったそう。

2-4、井上馨、高杉晋作の功山寺挙兵に決起

井上馨は、その後体調回復、しかし俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかったが、なんとか高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起して成功、再び藩論を開国攘夷に統一。

その後は、慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉、伊藤と結託し、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じて天領の別府に逃れ、しばらく潜伏療養。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、7月から8月にかけて長崎で「薩長同盟」の成果として、薩摩藩名義で亀山社中を窓口にしてトーマス・グラバーからゲベール銃を購入、同年6月から8月までの第2次長州征伐の石州口で戦って、江戸幕府軍に勝利し、9月2日、広沢真臣とともに幕府の代表勝海舟と休戦協定を締結。

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