「枕草子」が当時の女子の心をどうしてつかむことができたのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 清少納言とは?「枕草子」が執筆された時期は?
- 清少納言は宮中に仕えた平安時代中期の女性
- 「枕草子」の執筆期間には諸説ある
- 「枕草子」は中宮定子のサロンから生まれた!敗者の立場から書かれた?
- 中宮定子が失墜した理由は?摂関政治が関係?
- 清少納言は中宮定子サロンの広報担当者!彼女の人生を輝かせることがミッション
- 「枕草子」は日本で初めて書かれた随想文学
- 「枕草子」の意味は?随想に分類される理由は?
- 「いいね!」を獲得することを目的に執筆された!
- 男性の品定めをして「枕草子」はフォロワーを増やした
- 「枕草子」の人気は恋愛トークにある
- 男女の考え方の違いは多くの女性の共感を呼んだ
- 「をかし」が当時の女性たちにウケた理由は?共通の体験がポイント?
- 自然や季節を5感で表現!最後に「オチ」を忘れずに
- 生活のささいな物事は「いいね!」を増やす
- 紫式部との人間関係は?ライバル?性格の違いは?
- 紫式部は「枕草子」の文章を酷評した!「源氏物語」との違いは?
- 紫式部が清少納言をライバル視した理由は?本当に性格の違い?
- 「枕草子」は身近な話題とさりげない知性でフォロワー獲得に成功
この記事の目次
ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。「枕草子」は、現在のメディアの視点からみても面白い作品。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて、「枕草子」の記事をまとめた。
清少納言とは?「枕草子」が執筆された時期は?
「枕草子」は、平安時代の中期に書かれた随想。どの時期に完成したか、はっきり分かる記述は残っていません。作者である清少納言は、中宮定子のために「枕草子」を執筆。初稿本は、995年から996年ころのあいだにできあがりました。そのあとも、加筆・修正が繰り返され、1010年ころに完成したと言われています。
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清少納言は宮中に仕えた平安時代中期の女性
清少納言は歌人として有名な清原元輔の娘。993年に、私的な女官として中宮定子に仕えるようになりました。清少納言は宮仕えする際の女官の名称。本名は清原諾子(なぎこ)ということが最近の研究で分かりました。
清少納言の「清」は父の姓の清原から。「少納言」は地位を意味します。しかし、近い親族に少納言はおらず、どうして少納言と呼ばれたのかは不明です。
知的な会話をする勉強相手として中宮定子に気に入られたのが清少納言。2人は「あ・うん」の呼吸であったことが「枕草子」にたびたび記されています。
彼女と定子は主従関係にとどまらないソウルメイトのような関係でした。それを裏づけるかのように、「枕草子」には2人の密接な心のつながりを感じさせる場面がたびたび紹介されています。
「枕草子」の執筆期間には諸説ある
ひとつは、中宮定子が亡くなった翌年の1001年に完成したとする説。この説は、後ろ盾がいなくなった清少納言は、宮中を離れて消息不明となったとする考えによるものです。
経済的にも困窮してかつての栄光は見る影もなかった、最後は物乞いをしていたという言い伝えが、女性の地位が低下した室町時代に登場。現在も説のひとつとして定着しています。
もうひとつの説は、定子が亡くなったあと、10年ほどのあいだ加筆・修正を続けていたとするもの。「枕草子」には、定子死去のことは触れられていません。しかし、定子が亡くなったあとの1008年ごろの出来事は含まれています。
母親を亡くした定子の娘の家庭教師をしていたとする見方も。そこから清少納言は、定子の死去後も宮中に残って「枕草子」の発信を継続していたと考えられています。
「枕草子」は中宮定子のサロンから生まれた!敗者の立場から書かれた?
平安時代の文学の大部分は宮中に仕える女房によるものです。当時、女房のなかで文才のある女性はサロンの広報担当者のような位置づけ。サロンの中心たる中宮のすばらしさを書き物を通じて発信しました。
中宮定子は、後ろ盾を失ったことで宮中における居場所を失った后。当時としては敗者にあたります。そのようなサロンから生まれたのが「枕草子」だったというわけです。
中宮定子が失墜した理由は?摂関政治が関係?
定子の父親である藤原道隆は、関白として天皇に代わり権力を握っていました。これが摂関政治です。道隆が亡くなると定子の叔父が関白職を継承。しかしその叔父も急死してしまいます。
そこで政権は藤原道長に移行。有力な後ろ盾を失った定子は、一条天皇の后という立場であるにも関わらず、宮中で居場所を失ってしまうのです。
次々と不幸にみまわれた中宮定子は出家することに。このとき定子は一条天皇の子供を身ごもっていました。子供を産んだ定子は、一条天皇の強い願いで宮中に帰ります。しかし、定子の境遇は以前のように恵まれたものではありませんでした。
摂関政治で栄華をほこる藤原道長との勢力争いに敗れた立場を象徴するのが、まさに定子のサロンだったのです。
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