平安時代日本史歴史

「枕草子」を元大学教員がわかりやすく解説!作者は清少納言、平安時代のSNS?フォロワー獲得の手法とは?3分で簡単日本初のエッセイ

よぉ、桜木建二だ。「枕草子」は清少納言による随筆。中宮定子に仕えた平安時代中期ころに活躍した、今でいう女流作家のような存在だ。「枕草子」は日本で最初のエッセイと言われることも多い作品。日本の古典として有名な作品だが、最近は現代のSNSと関連づけて説明されることも多いんだ。

「枕草子」が当時の女子の心をどうしてつかむことができたのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。「枕草子」は、現在のメディアの視点からみても面白い作品。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて、「枕草子」の記事をまとめた。

清少納言とは?「枕草子」が執筆された時期は?

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「枕草子」は、平安時代の中期に書かれた随想。どの時期に完成したか、はっきり分かる記述は残っていません。作者である清少納言は、中宮定子のために「枕草子」を執筆。初稿本は、995年から996年ころのあいだにできあがりました。そのあとも、加筆・修正が繰り返され、1010年ころに完成したと言われています。

清少納言は宮中に仕えた平安時代中期の女性

清少納言は歌人として有名な清原元輔の娘。993年に、私的な女官として中宮定子に仕えるようになりました。清少納言は宮仕えする際の女官の名称。本名は清原諾子(なぎこ)ということが最近の研究で分かりました。

清少納言の「清」は父の姓の清原から。「少納言」は地位を意味します。しかし、近い親族に少納言はおらず、どうして少納言と呼ばれたのかは不明です。

知的な会話をする勉強相手として中宮定子に気に入られたのが清少納言。2人は「あ・うん」の呼吸であったことが「枕草子」にたびたび記されています。

彼女と定子は主従関係にとどまらないソウルメイトのような関係でした。それを裏づけるかのように、「枕草子」には2人の密接な心のつながりを感じさせる場面がたびたび紹介されています。

「枕草子」の執筆期間には諸説ある

ひとつは、中宮定子が亡くなった翌年の1001年に完成したとする説。この説は、後ろ盾がいなくなった清少納言は、宮中を離れて消息不明となったとする考えによるものです。

経済的にも困窮してかつての栄光は見る影もなかった、最後は物乞いをしていたという言い伝えが、女性の地位が低下した室町時代に登場。現在も説のひとつとして定着しています。

もうひとつの説は、定子が亡くなったあと、10年ほどのあいだ加筆・修正を続けていたとするもの。「枕草子」には、定子死去のことは触れられていません。しかし、定子が亡くなったあとの1008年ごろの出来事は含まれています。

母親を亡くした定子の娘の家庭教師をしていたとする見方も。そこから清少納言は、定子の死去後も宮中に残って「枕草子」の発信を継続していたと考えられています。

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中宮定子が「少納言」と呼びかけたと「枕草子」に書かれている。もしかすると、定子がつけたあだ名だったのでは。清少納言は、定子が亡くなったあとも「枕草子」の推敲を続けていたと思う。きっと彼女は、定子の娘に「母親はこんなにすばらしい女性だった」と「枕草子」を通じて伝えていた。また、自分が尊敬する人を宮中で忘れさせたくない、という気持ちもあっただろう。

「枕草子」は中宮定子のサロンから生まれた!敗者の立場から書かれた?

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平安時代の文学の大部分は宮中に仕える女房によるものです。当時、女房のなかで文才のある女性はサロンの広報担当者のような位置づけ。サロンの中心たる中宮のすばらしさを書き物を通じて発信しました。

中宮定子は、後ろ盾を失ったことで宮中における居場所を失った后。当時としては敗者にあたります。そのようなサロンから生まれたのが「枕草子」だったというわけです。

中宮定子が失墜した理由は?摂関政治が関係?

定子の父親である藤原道隆は、関白として天皇に代わり権力を握っていました。これが摂関政治です。道隆が亡くなると定子の叔父が関白職を継承。しかしその叔父も急死してしまいます。

そこで政権は藤原道長に移行。有力な後ろ盾を失った定子は、一条天皇の后という立場であるにも関わらず、宮中で居場所を失ってしまうのです。

次々と不幸にみまわれた中宮定子は出家することに。このとき定子は一条天皇の子供を身ごもっていました。子供を産んだ定子は、一条天皇の強い願いで宮中に帰ります。しかし、定子の境遇は以前のように恵まれたものではありませんでした。

摂関政治で栄華をほこる藤原道長との勢力争いに敗れた立場を象徴するのが、まさに定子のサロンだったのです。

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