「枕草子」は清少納言による随筆。中宮定子に仕えた平安時代中期ころに活躍した、今でいう女流作家のような存在です。「枕草子」は日本で最初のエッセイと言われることも多い作品。日本の古典として有名な作品ですが、最近は現代のSNSと関連づけて説明されることも多のです。

「枕草子」が当時の女子の心をどうしてつかむことができたのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。「枕草子」は、現在のメディアの視点からみても面白い作品。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて、「枕草子」の記事をまとめた。

清少納言とは?「枕草子」が執筆された時期は?

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「枕草子」は、平安時代の中期に書かれた随想。どの時期に完成したか、はっきり分かる記述は残っていません。作者である清少納言は、中宮定子のために「枕草子」を執筆。初稿本は、995年から996年ころのあいだにできあがりました。そのあとも、加筆・修正が繰り返され、1010年ころに完成したと言われています。

清少納言は宮中に仕えた平安時代中期の女性

清少納言は歌人として有名な清原元輔の娘。993年に、私的な女官として中宮定子に仕えるようになりました。清少納言は宮仕えする際の女官の名称。本名は清原諾子(なぎこ)ということが最近の研究で分かりました。

清少納言の「清」は父の姓の清原から。「少納言」は地位を意味します。しかし、近い親族に少納言はおらず、どうして少納言と呼ばれたのかは不明です。

知的な会話をする勉強相手として中宮定子に気に入られたのが清少納言。2人は「あ・うん」の呼吸であったことが「枕草子」にたびたび記されています。

彼女と定子は主従関係にとどまらないソウルメイトのような関係でした。それを裏づけるかのように、「枕草子」には2人の密接な心のつながりを感じさせる場面がたびたび紹介されています。

「枕草子」の執筆期間には諸説ある

ひとつは、中宮定子が亡くなった翌年の1001年に完成したとする説。この説は、後ろ盾がいなくなった清少納言は、宮中を離れて消息不明となったとする考えによるものです。

経済的にも困窮してかつての栄光は見る影もなかった、最後は物乞いをしていたという言い伝えが、女性の地位が低下した室町時代に登場。現在も説のひとつとして定着しています。

もうひとつの説は、定子が亡くなったあと、10年ほどのあいだ加筆・修正を続けていたとするもの。「枕草子」には、定子死去のことは触れられていません。しかし、定子が亡くなったあとの1008年ごろの出来事は含まれています。

母親を亡くした定子の娘の家庭教師をしていたとする見方も。そこから清少納言は、定子の死去後も宮中に残って「枕草子」の発信を継続していたと考えられています。

「枕草子」は中宮定子のサロンから生まれた!敗者の立場から書かれた?

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平安時代の文学の大部分は宮中に仕える女房によるものです。当時、女房のなかで文才のある女性はサロンの広報担当者のような位置づけ。サロンの中心たる中宮のすばらしさを書き物を通じて発信しました。

中宮定子は、後ろ盾を失ったことで宮中における居場所を失った后。当時としては敗者にあたります。そのようなサロンから生まれたのが「枕草子」だったというわけです。

中宮定子が失墜した理由は?摂関政治が関係?

定子の父親である藤原道隆は、関白として天皇に代わり権力を握っていました。これが摂関政治です。道隆が亡くなると定子の叔父が関白職を継承。しかしその叔父も急死してしまいます。

そこで政権は藤原道長に移行。有力な後ろ盾を失った定子は、一条天皇の后という立場であるにも関わらず、宮中で居場所を失ってしまうのです。

次々と不幸にみまわれた中宮定子は出家することに。このとき定子は一条天皇の子供を身ごもっていました。子供を産んだ定子は、一条天皇の強い願いで宮中に帰ります。しかし、定子の境遇は以前のように恵まれたものではありませんでした。

摂関政治で栄華をほこる藤原道長との勢力争いに敗れた立場を象徴するのが、まさに定子のサロンだったのです。

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清少納言は中宮定子サロンの広報担当者!彼女の人生を輝かせることがミッション

「枕草子」は、女性たちがみんなでワイワイ噂話をするような明るさが魅力の作品。中宮定子が宮中で居場所を失った立場だからこそ、明るい作品を生み出す必要がありました。

随所に「定子さまはすばらしい」「定子さまは聡明」など、定子をたたえる文章が添えられるのが「枕草子」の特徴。定子がふたたび宮中の中心に戻れることを願いながら、清少納言は読むと楽しくなる文章を発信し続けました。

「枕草子」は日本で初めて書かれた随想文学

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「枕草紙」は、日本史の教科書などで、日本で初めて書かれた随想文学と紹介されています。現在でいうエッセーに近い要素がちりばめられている作品。同時代に活躍した紫式部の「源氏物語」を物語文学に位置づけ、2作品が比較されることが多いことも特徴的です。

「枕草子」の意味は?随想に分類される理由は?

「枕草子」の由来にはいくつかの説があります。とくに有力なものが「身近なことを書き綴ったノート」とする説。ここから、現在の文学ジャンルの随想あるいはエッセーに分類されます。

身近なことを書いているノートであることから、日記なの?という声も。ただ、清少納言は何度も文章の推敲をかさね、作品としての価値を高めました。そのため、その日のことをつづるだけの日記とは区別されます。

清少納言が生きた平安時代の中期。随想に分類される作品はほかにありませんでした。今ではあたりまえのように存在する随想・エッセー。この時代ではかなり独創的な手法だったのです。

「いいね!」を獲得することを目的に執筆された!

「枕草子」が当時の貴族に広く読まれた理由が「共感性」。あの有名な「春はあけぼの」の段にある、春の季節はだんだん空が明るくなる時間帯がいちばんいいとする内容は、「そうだよね~」と共感できる内容です。

現代なら共感すると「いいね!」を押すことが定番。平安時代には「いいね!」の機能はありません。代わりに「書き写し」を通じて拡散=広まっていきました。

共感を通じて拡散させる清少納言の執筆方法は、ブログやSNSに通じるところも。「枕草子」の読者が増えれば増えるほど中宮定子の名声が高まります。こうした拡散の手法により「枕草子」は定子サロンの広報誌として力を発揮しました。

男性の品定めをして「枕草子」はフォロワーを増やした

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「枕草子」が平安時代に拡散した理由のひとつが男性の品定め。清少納言は、どんな男性がすてきか、どんな男性が憎たらしいかをたびたび記述しました。これは、宮仕えする女房たちが日常的に楽しむ話題。それを「枕草子」に書き記すことで「そうね!分かる~」という共感の輪が広がります。共感の連鎖により、さらに読者=フォロワーを増やしていきました。

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「枕草子」の人気は恋愛トークにある

平安時代における人気のテーマのひとつが恋愛もの。当時は、恋人に会うために行動できたのは男性のみ。女性は、相手の訪問をただひたすら待つだけという時代だったからです。

聡明で美しい女性が、男性を待ちわびる歌を送るものの、相手の男性の態度ははっきりしない。それは本当になさけないことだと、清少納言は一刀両断。

男女の関係が続くかは男性次第。恋人を待つだけの苦しみは平安時代の女性に共通するものでした。恋愛トークは「苦しいのは私だけじゃない!」と、みんなが感情を共有できるテーマだったのです。

男女の考え方の違いは多くの女性の共感を呼んだ

「枕草子」から見える男女の価値観の違いは現代にも通じるもの。現代も、働く女性のことをよくなく思う男性がいるものですが、平安時代も同様。宮仕えをする女性は軽くてけしからん!という男性がそれなりにいました。それを清少納言は「憎たらしい」と言い切ってしまいます。

宮仕えをする女性は今でいうキャリアウーマン。宮中で働くことは平安時代の女性たちのあこがれでした。それを苦々しく思う男性についての記述は、主な読者である女房たちの共感を呼んだのです。

いっぽう「枕草子」でほめられている男性は、宮中につとめる女性の価値を認め、その姿をほめたたえる男性。当時の女性たちも、自分の仕事を評価されることを大切にしていたことが分かります。

「をかし」が当時の女性たちにウケた理由は?共通の体験がポイント?

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平安時代の文学を学ぶとき、必ず出てくるキーワードが「をかし」。知的な興味をそそる趣のことを指します。これがまさに「枕草子」を特徴づけるもの。「をかし」という美的感覚により「枕草子」の表現の趣旨を理解することができます。

もうひとつのキーワードが「もののあはれ」。しみじみとした情緒をあらわす概念で、「源氏物語」を評価する際に使われます。「をかし」は、しみじみではなくカラッと明るい感じ。この知的な明るさが「枕草子」の文章の特徴と言われています。

自然や季節を5感で表現!最後に「オチ」を忘れずに

有名な「春はあけぼの」の章段では、四季おりおりの風景を描写。現代の私たちが読んでも、清少納言がイメージした風景を思い浮かべることができるほど。シンプルでありながら共感できる身近なシーンが記述されました。

春は日の出前の景色のすばらしさ、夏は夜の過ごしやすさを表現。秋にある、V字型になって飛ぶ鳥の姿は、現代でも感動を共有できるシーンです。冬はとくに寒い日がいい。観察による知的な文章をつうじて「をかし」が表現されました。

清少納言のうまいところは、共感させながらときどき意外なことを差しはさむ手法。自然や季節を巧みに描写したあと、冬の昼間に火鉢の白い粉が残るのが嫌だと言って話をしめます。漫才の「オチ」に近いリズム感。それが読む楽しみを高めたのです。

生活のささいな物事は「いいね!」を増やす

「枕草子」には、生活のなかで遭遇するささいな物事の記述も目立ちます。有名なものが蚊。寝ているときに飛び回る蚊のうっとおしさに注目しています。とくにイヤだと思うのが顔の周りを蚊がとびまわること。蚊のかすかな声が気になって眠れないという趣旨のことを「枕草子」に記しています。

どうでもいいといえばどうでもいい話。ただ、どうでもいい話だからこそ、たくさんの人の共感を呼んだのです。どうでもいい話で共感を呼ぶには人を楽しませる文章スキルが必須。清少納言の巧みな状況描写があったからこそ、多くの「いいね!」を獲得できました。

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紫式部との人間関係は?ライバル?性格の違いは?

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紫式部は清少納言より4つほど年下。紫式部が宮仕えを始めたころは、すでに清少納言と「枕草子」は有名な存在でした。「紫式部日記」のなかには「枕草子」の文章や清少納言の性格について苦々しく記している個所が。そこから紫式部と清少納言をライバル関係とする見方があらわれました。

紫式部は「枕草子」の文章を酷評した!「源氏物語」との違いは?

清少納言について紫式部は、利口ぶったうぬぼれの強い人間だと酷評。この記述は、紫式部はネクラで陰湿だ、清少納言はプライドが高くて生意気だなど、2人の性格が分析されるきっかけにもなりました。

紫式部は「枕草子」の文章のスタイルそのものにも注目。ここから「枕草子」をかなり読み込んでいたことが分かります。

「源氏物語」は、「枕草子」の日常を題材とする軽いノリとは対照的な壮大な長編物語小説。2人のあいだには、物書きとしての趣向や性格にそれなりの違いがあったことが、紫式部の評価から読み取れます。

紫式部が清少納言をライバル視した理由は?本当に性格の違い?

ただ、紫式部が「枕草子」を酷評したのは、ライバル関係にあった、趣向・性格の違いがあったという単純な理由からではありません。紫式部が仕えたのは藤原道長の娘の中宮彰子。清少納言が仕えた中宮定子は、道長によってけり落された存在。政治的なライバル関係がありました。

紫式部の宮仕えのスタートは中宮定子が亡くなった直後。そこで紫式部に期待されたのが、「枕草子」と同じくらいの影響力がある広報誌を発信することでした。

紫式部が活躍することで、中宮彰子のすばらしさが貴族社会にアピールされます。定子は亡くなったとはいえ「枕草子」の存在感がずっとあった時期。そのプレッシャーから清少納言を酷評したと考えられます。

「枕草子」は身近な話題とさりげない知性でフォロワー獲得に成功

「枕草子」は日本で初めてかかれた随想文学として文化史の重要な位置を占めています。当時は、ありがたく上品な作品としてではなく、ブログのような気軽な感じ。日ごろの生活に関する何気ない記述に共感を抱き、「枕草子」を読むことを楽しんでいました。

「枕草子」にちりばめられた清少納言の知性や教養を理解する手腕も、当時の読者が求められたこと。共感できる身近さとさりげない知性の両方があったからこそ、「枕草子」は中宮定子のすばらしさを伝える広報誌として貴族社会に広く拡散したのです。

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平安時代日本史歴史

「枕草子」を元大学教員がわかりやすく解説!作者は清少納言、平安時代のSNS?フォロワー獲得の手法とは?3分で簡単日本初のエッセイ

「枕草子」は清少納言による随筆。中宮定子に仕えた平安時代中期ころに活躍した、今でいう女流作家のような存在です。「枕草子」は日本で最初のエッセイと言われることも多い作品。日本の古典として有名な作品ですが、最近は現代のSNSと関連づけて説明されることも多のです。

「枕草子」が当時の女子の心をどうしてつかむことができたのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。「枕草子」は、現在のメディアの視点からみても面白い作品。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて、「枕草子」の記事をまとめた。

清少納言とは?「枕草子」が執筆された時期は?

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「枕草子」は、平安時代の中期に書かれた随想。どの時期に完成したか、はっきり分かる記述は残っていません。作者である清少納言は、中宮定子のために「枕草子」を執筆。初稿本は、995年から996年ころのあいだにできあがりました。そのあとも、加筆・修正が繰り返され、1010年ころに完成したと言われています。

清少納言は宮中に仕えた平安時代中期の女性

清少納言は歌人として有名な清原元輔の娘。993年に、私的な女官として中宮定子に仕えるようになりました。清少納言は宮仕えする際の女官の名称。本名は清原諾子(なぎこ)ということが最近の研究で分かりました。

清少納言の「清」は父の姓の清原から。「少納言」は地位を意味します。しかし、近い親族に少納言はおらず、どうして少納言と呼ばれたのかは不明です。

知的な会話をする勉強相手として中宮定子に気に入られたのが清少納言。2人は「あ・うん」の呼吸であったことが「枕草子」にたびたび記されています。

彼女と定子は主従関係にとどまらないソウルメイトのような関係でした。それを裏づけるかのように、「枕草子」には2人の密接な心のつながりを感じさせる場面がたびたび紹介されています。

「枕草子」の執筆期間には諸説ある

ひとつは、中宮定子が亡くなった翌年の1001年に完成したとする説。この説は、後ろ盾がいなくなった清少納言は、宮中を離れて消息不明となったとする考えによるものです。

経済的にも困窮してかつての栄光は見る影もなかった、最後は物乞いをしていたという言い伝えが、女性の地位が低下した室町時代に登場。現在も説のひとつとして定着しています。

もうひとつの説は、定子が亡くなったあと、10年ほどのあいだ加筆・修正を続けていたとするもの。「枕草子」には、定子死去のことは触れられていません。しかし、定子が亡くなったあとの1008年ごろの出来事は含まれています。

母親を亡くした定子の娘の家庭教師をしていたとする見方も。そこから清少納言は、定子の死去後も宮中に残って「枕草子」の発信を継続していたと考えられています。

「枕草子」は中宮定子のサロンから生まれた!敗者の立場から書かれた?

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平安時代の文学の大部分は宮中に仕える女房によるものです。当時、女房のなかで文才のある女性はサロンの広報担当者のような位置づけ。サロンの中心たる中宮のすばらしさを書き物を通じて発信しました。

中宮定子は、後ろ盾を失ったことで宮中における居場所を失った后。当時としては敗者にあたります。そのようなサロンから生まれたのが「枕草子」だったというわけです。

中宮定子が失墜した理由は?摂関政治が関係?

定子の父親である藤原道隆は、関白として天皇に代わり権力を握っていました。これが摂関政治です。道隆が亡くなると定子の叔父が関白職を継承。しかしその叔父も急死してしまいます。

そこで政権は藤原道長に移行。有力な後ろ盾を失った定子は、一条天皇の后という立場であるにも関わらず、宮中で居場所を失ってしまうのです。

次々と不幸にみまわれた中宮定子は出家することに。このとき定子は一条天皇の子供を身ごもっていました。子供を産んだ定子は、一条天皇の強い願いで宮中に帰ります。しかし、定子の境遇は以前のように恵まれたものではありませんでした。

摂関政治で栄華をほこる藤原道長との勢力争いに敗れた立場を象徴するのが、まさに定子のサロンだったのです。

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