

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、江川英龍について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、江川英龍は韮山の生まれ

江川英龍(ひでたつ)は、享和元年(1801年)5月13日、父江川英毅と母久子の次男として韮山で誕生。幼名は芳次郎。諱は英龍、通称は太郎左衛門(たろうざえもん)、号は坦庵(たんあん、韮山ではたんなん)、ここでは英龍で統一。
1-2、江川家は代々韮山代官職
江川家は大和源氏の系統で、鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代は伊豆の韮山代官として天領の民政に従事、韮山代官の支配地は、駿河、伊豆、相模、武蔵、甲斐の5カ国にわたっていて約7万石に及んでいたそう。英龍は36代目の当主で父英毅が長命だったので、英龍が代官職を継いだのは天保6年(1835年)、35歳のとき。
韮山代官は江戸に屋敷を持ち、冬だけ韮山に住んでいたということで、代官職を継ぐ前の英龍は、学問を著名な儒学者の佐藤一斎、書を市川米庵、詩は大窪詩仏、絵を大国士豊、谷文晁に学ぶという、当時の最高の教育を受けているうえに、神道無念流の岡田十松に剣を学び、岡田十松の撃剣館四天王の一人に数えられるようになり、同門の後の練兵館創立者の斎藤弥九郎と親しくなったということ。
1-3、英龍、斎藤弥九郎を補佐に
天保6年(1835年)英龍が韮山代官となると、斎藤弥九郎は江戸詰書役として仕えたが、英龍は斎藤の練兵館創立の資金援助もしたほど仲良しだったということ。英龍の父英毅は、民治に力を尽くして商品作物の栽培での増収などを目指したことで知られているが、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行い、嘉永年間に種痘の技術が伝わると領民への接種を積極的に推進したなどで、領民思いの英龍の姿勢は「世直し江川大明神」と敬愛され、現在に至るまで、地元の韮山では英龍への強い愛着を持っているということ。
1-4、英龍と大塩平八郎の乱
天保8年(1837年)2月19日、大坂で大塩平八郎の乱が勃発、英龍の命で斎藤は大塩の行方を調べるため、大坂へ。
じつは大塩が、乱の直前に江戸の老中に当てて送った告発状は、江戸に運んでいた飛脚が、中に金品が入っていると思い箱根の山中で開封、金品がないので告発状ごと道中に捨てたが、それを拾って韮山代官である英龍に届けられ、内容の重大性に気付いた英龍が箱根関に通報したということ。
英龍は大塩が富士山麓に深く関りをもつと知り、また天保7年(1836年)8月、甲斐一国規模の天保騒動が発生、多くの無宿の博徒が騒動に参加したので、英龍はこの騒動が幕府直轄地の武蔵、相模へ波及することを警戒、斎藤を伴って正体を隠し「甲州微行」と言われる刀剣行商人に変装して、天保8年(1837年)5月、御殿場から富士山をまわり、富士の宮方面から富士川をくだって韮山に帰ったということ。
大塩事件の影響はなかったが、しかし治める役人の姿勢に問題があることが発覚。翌天保9年(1838年)7月、都留郡(現山梨県)約2万1千石が韮山代官支配地に編入された後、英龍は、谷村(やむら)陣屋に派遣する手代たちに、誠意をもち厳正に農民に対処するように命じたということで、英龍の支配以前は一年に2千両もの役得を得て、代官巡幸の費用などもばかにならなかったが、英龍の支配では雲泥の差の質素で公平無私な態度に農民たちは感服、郡内地方では初午の節句に、「世直し江川大明神」と書いた紙のぼりを各所の神社に立てて善政をたたえるように。
こちらの記事もおすすめ

庶民救済のための正義の反乱?「大塩平八郎の乱」について元塾講師が分かりやすく5分で解説 – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン

へへえ、名うての剣術使いの友人とお代官様が、おしのびで領地を見回るなんて、時代劇で取り上げそうだな。
\次のページで「2-1、英龍、江戸湾強化の見分副使に」を解説!/