幕末日本史歴史江戸時代

そうせい侯と言われた「毛利敬親」幕末の長州藩主について歴女がわかりやすく解説

3-2、吉田松陰への想い

敬親は松陰の講義について、儒者の講義はありきたりの言葉ばかりで眠気を催させるが、寅次郎(松陰)の話は、自然に膝を乗り出すと感想を。

また、松陰が友人たちとの東北旅行に出るのに手形の発行が間に合わず脱藩し罪を得たとき、敬親はなんとか救済しようとしたが出来ず、とりあえず10年諸国へ修業に出したいと松陰の父に願書を出させるよう指示、松陰に修業させる特別の取り計らいをしたそう。

そして敬親は、慶応元年(1865年)ころ、食事中にふと、「今日は寅次郎の日(命日)だな」と、出された焼き魚に手を付けず、近頃は誰も寅次郎のことを言うものがいない、命日を思い出すものもいないとぶつぶつ独り言を言っていた話が「世に棲む日日」に。

・注、肉親の命日、葬式や年回忌の仏事などには、精進と言い、肉、魚はもちろん卵も食べずに必ず菜食にする習慣が。

3-3、敬親の鶴の一声

第1次長州征伐で幕府軍が長州に迫ってきた元治元年(1864年)9月25日、午前4時から藩の命運がかかった会議が開かれ論戦が行なわれ、昼ご飯も井上聞多(馨)が、こんな重要時に食事なんかしてる暇はないと、食事抜きで夜の7時まで家臣の意見はほぼ出尽くしたが、結論は出ず。敬親は最後に初めて口を開いて、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と述べると退出したということ。

3-4、容堂の本質を見抜く

土佐藩主山内豊範が養女の婿になったこともあり、「鯨海酔侯」こと前藩主山内容堂とも付き合いがあった敬親は、近侍が容堂の隠居部屋を訪れ「酔擁美人楼」という額をみて、大名にしてはくだけた雰囲気だと話したとき、「こういう言は酒が飲みたくてもできず、美人を抱きたくても抱く余裕の無い者が好んで口にするものだが、容堂侯は24万石の太守で酒佳人は望み放題なのに、わざとそんな額を掲げているのは、自ら豪傑を装うということ」と述べたそう。

3-5、家来が死ぬのを嫌った

慶応元年(1865年)、高杉晋作の奇兵隊らが功山寺で挙兵し萩へ進軍してきたとき、当時の藩の執政で俗論派の椋梨藤太が上士隊を組織し討伐に向かう前、敬親は、人を殺すな、追討はいかん、鎮静にしろ、総大将はいかん、総奉行にせい、と命じ、軍令書の承認を求めると、第一に人を殺すな、接戦を好まず兵糧攻めにして自然に退散するよう攻めろと、軍事的部分を削ってしまい、隊将の粟屋帯刀は首を振って呆れたそう。

結局は絵堂で山県有朋が夜襲をかけて戦勝。山県は俗論派が謀反人とするような文書を偽造し、また椋梨は敬親父子の出馬を願ったが、敬親は朝廷から処罰を受けていると断ったということ。

敬親も養子の定広も、そうせい侯と言われたのは、そうしないと殺されていただろうからとか、長州藩はつぶれていただろうと言われますが、このエピソードはそれが如実にあらわれているよう。

3-6、井上聞多と名前を付けた

後の外務大臣の井上馨は長州藩では上士の家柄で、敬親や定広の側近く小姓として仕えていたこともあり、藩主親子をかなり気やすい伯父やいとこのように思っていたそう。そして藩主親子も井上をからかったり冗談を言ったりと可愛がり、敬親が、新しい知識や情報などなんでも知っているから聞多(ぶんた、もんた)とするようにと命じたのが通称に。

そうせい、そうせいと言いつつ、幕末の混乱を乗り切った隠れた名君

毛利敬親は村田清風を用いて藩政改革を成功させたので、幕末の動乱期前には、必要な資金はたっぷり、そして積極的な人材登用と教育にも力を入れたおかげで人材も豊富に育ち、ご本人は40代後半、よく肥えて貫禄たっぷりな殿さまでした。

そして20代、30代前半の吉田松陰をはじめ、久坂玄瑞、高杉晋作、井上聞多、桂小五郎などの血気盛んな長州藩士たちが攘夷攘夷と奔走して問題を起こし長州藩存亡の危機となっても、泰然自若として家臣に任せっきり、藩政権が佐幕派に握られても、「そうせい」と言い、攘夷派になっても「そうせい」。

自分の主張がないようですが、愚人を近づけず賢人だけを登用し、必要なときには存在感を示したという、雰囲気的には校長先生とか大学の総長のよう。

幕末には賢侯と言われた藩主もいましたが、自分だけが有能でいいと酔っぱらってストッパーの役目しか果たさなかったり、強烈な個性を発揮した藩主のおかげで藩内は内紛で人材を粛清しちゃって、明治になるまでに自滅した藩のことを思えば、長州藩は敬親のそうせいのおかげで怒涛の幕末を乗り切って、明治維新の中心になれたと言えるのではないでしょうか。

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