今回は毛利敬親を取り上げるぞ。幕末の長州藩主だったが、賢候とは呼んでもらえなかったそうじゃないか、なんでか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、毛利敬親について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、毛利敬親は、萩の生まれ

毛利敬親(たかちか)は文政2年(1819年)2月10日、福原房昌(のちの毛利斉元)の長男として誕生、母は側室の原田氏。敬親の父は、7代藩主毛利重就の6男、9代藩主毛利治親の異母弟で部屋住みだった毛利親著の長子で、世襲家老で一門の福原家の養嗣子だったが、敬親が生まれた年の9月10日に10代長州藩主毛利斉煕の養子になり教元と改名、次いで11月11日には将軍斉昭から諱をもらって斉元と改名し、後に長州藩11代藩主になることに。

敬親は、幼名猶之進、のちに父の前名の教元の偏諱を与えられ教明に。そして将軍家慶から諱をもらって慶親と改名したが、長州征伐で官位をはく奪後、敬親と改名。ここでは敬親で統一。

1-2、敬親以前の毛利家は

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敬親の父斉元は、12代藩主となる斉広(なりとう)が幼かったための中継ぎとして迎えられた藩主。斉広の父である10代藩主斉煕が隠居後に大御所政治を行い、斉広の正室に将軍家斉の娘を迎えたりと、けっこう派手な生活をしたため、庶民からの反発もあったそう。

なので、敬親の父で次の藩主の斉元は、先代の大御所斉煕の政治への口出しと、天保の一揆などへの対応に苦労したということ。それになんといっても部屋住みの子で家臣の家に養子に出されていた身で、次の斉広が成人するまでの中継ぎの藩主の立場で引け目も。敬親もそんな父の苦労を側で見ていたので、後の人格形成に影響があったと言われています。

斉元は、天保一揆の翌年、天保3年仕組みという財政政策を5年間にわたって実施、藩主の連枝たちへの配当を半分に削減、藩札の乱発をなくし、藩の借金の利子を下げて年延べを行うといった債務整理で、財政を立て直したということ。

2-1、敬親、19歳で長州藩主相続

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天保7年(1836年)6月12日、敬親は、萩城下の阿武川の分流橋本川川岸の南苑邸に住んでいたが、「申歳の大水」といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇。南苑邸には川上から倒壊した家屋などが流れ込んで荒廃し、御客屋に避難。そして洪水の3か月後の9月8日に父斉元が死去、その跡を継いで12代藩主となった毛利斉広も幕府への手続きが終わって20日足らずで死去という事態に。

このとき敬親には、当時8代藩主毛利治親の姻戚だった田安徳川家からの養子縁組の話もあり、12代藩主斉広には異母弟の信順がいたことで少々もめたものの、結局は敬親が斉広の養子となって、天保8年(1837年)に家督継承、19歳で13代長州藩主に。家督相続に当たっては、斉広の長女都美姫を正室とすることが決められていたが、都美姫は当時数え5歳だったため、正式な婚儀は10年後の弘化4年(1847年)に。

尚、敬親が藩主就任後、10代斉熙の未亡人が政治に口出し、村田清風や益田などといった有能な家臣をやめさせようとしたが、敬親は内部紛争を調整し、父の意志を引き継いで財政政策に本腰を入れたということ。

ちなみに、10代斉熙の未亡人は鳥取藩6代池田 治道の娘で、長姉が島津斉彬の母で賢夫人と言われた弥姫、もう一人の姉があの佐賀藩の鍋島直正の母君で、その妹にあたる人。

2-2、敬親、藩政改革で財政再建

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敬親は、天保10年(1839年)に、村田清風を登用して藩政改革を行うことに。財政再建は、倹約はもちろん、まず藩士の借金の利息を大幅に軽減、藩による特産品の専売制をやめ、商人の自由な取引を許可し、運上銀を課税。さらには、藩営の金融兼倉庫業である越荷方(こしにかた)を、商業と交通の要衝の関門海峡に設置。日本海側の産物を大坂の相場が安いときに下関にとどめ、高値になると売って利益に。これらの政策が成功し、約140万両あった赤字は解消、藩財政は豊かになり、蓄えられた余剰金が幕末、志士たちの活動資金に

また、教育、人材育成については、天保12年(1841年)、江戸藩邸に文武修行の場の有備館を建設、嘉永2年(1849年)に、藩校明倫館を城下の中心地へ移転、規模拡張を実施。敬親は調和を重んじていたので藩としての団結を考え、支藩との間の軋轢修復のための努力も。

長州藩の実高
長州藩の石高は36万石となっていますが、慶長15年(1610年)の検地では53万石、これでは関が原で敗れたのに、功績があった広島50万石の福島正則より多くなるなどの理由から、公称の表高は実質7割の36万石となったということ。その後、表向き36万石は変わらずに新田開発などによって実高は増えていき、幕末には100万石を超えていたということ。

2-3、敬親の時代の長州藩の政局

村田清風は当時55歳で、9代藩主斉房から13代藩主敬親まで5代の藩主に仕えた人。11代斉元のときに「此度談」を書き、藩政改革を強く訴えていたが、内容があまりにも厳しすぎるので受け入れられず、職を辞して隠居。

そして敬親が藩主になると、清風を藩政改革の任に。清風は徹底した合理主義で急進改革だったため、藩内から清風に対する反対も強かったが、敬親は批判には耳を貸さずに、清風を信頼して任せたそう。前述のとおり財政改革は大成功となったが、清風は多くの人々の恨みを買って失脚、次の保守派坪井久右衛門が改革事業の大半を元の木阿弥に。

そして次は清風派の革新派が再改革と、その後の長州藩の政局は、清風派が革新の正義党、坪井派の保守の俗論党の両派が抗争、政権交代となり、幕末には倒幕派と佐幕派になっていったということ。

2-4、敬親、吉田松陰の講義を聴く

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後の吉田寅次郎松陰は、山鹿流兵学教授の家だった叔父吉田大助の養子となり、叔父玉木文之進のスパルタ教育で山鹿流兵学教授になるべく子供の頃から勉学に励んでいましたが、天保11年(1840年)敬親は、当時11歳で藩校明倫館の教授見習いだった松陰を城に呼び、山鹿流兵学の御前講義を。

敬親は松陰の講義に感心し、松陰の師匠は誰かと聞き、松陰の師匠である叔父の玉木文之進を見出して官職に付かせ、文之進は昇進して藩の重役に抜擢されるまでになったそう。また松陰に対してもこの後、18歳になるまで5回も敬親が自ら勉学の進み具合をテスト、14歳のときは講義の後、不意打ちに孫子の講義が聴きたいと所望し、松陰がみごとに講義したところ、敬親は感心して所蔵の「七書直解」本を与え、19歳になるまでに5人の師匠が松蔭に教育を施し、松陰が独立して師範格となる最終テストも敬親が立ち会ったということ。

松陰は独立の師範になったとき、学制改革についての分厚い意見書を書いて藩主敬親に献上。「世に棲む日日」によれば、身分の低い松陰がこのような重大な意見書を藩主に献上するのは他藩では考えられないが、この長州藩の敬親と村田清風の時代は、そういう意見を求める気風が大だったということ。

2-5、黒船来航時の敬親

嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船が来航し、長州藩は相模国周辺の警備を担当、そして安政5年(1858年)8月、戊午の密勅を受けて尊王に尽力することになり、同年には、保守派の坪井九右衛門を引退させて、革新派の周布政之助らを登用。そして藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出。敬親は周布を重用して藩是三大綱を決定し、藩の体制強化と洋式軍制導入の兵制改革を開始することに。

2-6、敬親、「航海遠略策」を藩論にしたが

文久元年(1861年)、敬親の求めにより、重臣の長井雅樂(うた)が、「航海遠略策」を建白。これは公武合体に乗っ取り、開国して欧米の技術を学び国力を高めたのちに、欧米諸国と対等に渡り合えるように努めるべきという正論で、敬親は気に入り藩論にすることに。

そして敬親は長井に命じて、京都の朝廷や幕府にも建白するために奔走させ、一時はこの策が幕府にも朝廷にも受け入れられたのですが、松下村塾一派の急進攘夷派の高杉晋作、久坂玄瑞らの猛反発を喰らい、長井の暗殺計画まで立てる始末で、その圧倒的な雰囲気に敬親も消極的になり、また老中安藤信正の失脚、久坂らの朝廷工作などもあって結果的に「航海遠略策」は失敗に終わり、長井は責任を取らされて切腹に。

敬親と養子の世子定広は長井の切腹をなかなか受け入れられなかったが、このままでは藩が分裂の危機になると「そうせい」ということに。

2-7、下関砲撃事件、8月18日の政変、禁門の変、四国艦隊下関砲撃、長州征伐とカオスに

長井雅楽の失脚後、長州藩論は周布政之助、桂小五郎(木戸孝允)らの主導で、攘夷へと転換。文久2年(1862年)7月、攘夷の実行を藩の方針とし、文久3年(1863年)4月、藩庁を海防上の理由で海沿いの萩城から山口城に移転、5月には外国船の打ち払いを開始、しかしアメリカとフランスの軍艦からの報復攻撃を。

そして同年の八月十八日の政変によって、長州藩は京を追われ、翌年元治元年(1864年)6月、池田屋事件で多くの長州藩士が犠牲となり、長州藩は京に出兵、7月に禁門の変が勃発。

この長州藩の暴挙で朝廷は幕府に長州征伐を命じて8月に敬親の官位を剥奪。さらに8月、英仏蘭米の4ヵ国連合艦隊が下関に襲来し敗北、講和に。そして幕府軍の第一次長州征伐となったが、敬親が幕府への恭順と決定、国司親相、益田親施、福原元僴ら3家老の切腹させ、敬親は10月、萩で謹慎。

執政の周布政之助も禁門の変の責任をとって切腹し、革新派の正義派に代わり、椋梨(むくなし)藤太ら保守の俗論派が藩政を執ることに。

2-8、高杉晋作のクーデター成功

しかし元冶元年(1864)12月、九州に逃れていた高杉晋作が下関に戻って、俗論派から藩政を取り戻すために功山寺で挙兵。18名の決死隊を編成し、軍艦3隻を奪取、そして1月に経堂で両軍は激突、正義派が勝利し、山口まで進撃、高杉らのクーデターは成功し、正義派が藩政を執ることに。

敬親は、藩庁を山口に戻して諸隊の総督と長州三支藩の家老に対し、武備恭順で、表向きは幕府に恭順を装いつつ、最新武器を導入して西洋式戦術を取り入れた軍備の近代化を推し進めるようにという宣言。

禁門の変後、但馬出石で潜伏していた桂小五郎(木戸孝允)も復帰し、慶応2年(1866年)1月、坂本竜馬らの仲介で薩摩との同盟が成立。長州藩は薩摩藩の名義で、軍艦や最新の兵器を大量に購入出来、桂の推薦で迎えた村田蔵六(大村益次郎)が第二次長州征伐の対幕府軍の指揮をとって、幕府軍を撃退、将軍家茂の死で休戦に。翌慶応3年(1867年)10月14日には、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下され、前日、土佐藩が提出した大政奉還の建白書を受け、15代将軍慶喜が大政奉還、12月、王政復古の大号令、そして鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へ。

2-9、明治後の敬親

慶応4年(1868)11月、敬親 は上洛して明治天皇に拝謁し、左近衛権中将に。明治2年(1869年)1月、木戸孝允(桂小五郎)が、版籍奉還を実施。そこで木戸は、範を示すために長州藩に他藩に先駆けて版籍奉還を受け入れてもらうように敬親に頼んだところ、快諾、しかも退出する木戸を呼びとめて、今は戦乱の世で人々は気が荒立っているので、これほどの変革を行なうと、どういう事が起こるかわからないから、木戸が京都に行き時機を見計らって行うようにという、かなり適切なアドバイスをしたので、木戸は、自分の殿様ながら意外な賢さにびっくり仰天したということ。

また戊辰戦争後、薩摩藩主や長州藩主らは、生涯、毎年25000石(約15万両相当)ずつ受け取れる褒賞が出たが、敬親は、その半分以上を戊辰戦争に貢献した家臣に配ったそう。毛利家は伝統ある家なので、家臣の教育に加え、藩の記録も重要視し、中世からの資料も豊富に残していたということ。

明治2年(1869年)6月、権大納言となり、家督を養嗣子の定広に譲り隠居。そして明治4年(1871)3月、山口藩庁殿で53歳で死去。

3-1、敬親の逸話

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不明。 - 毛利博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

敬親は、藩主になったときは財政難だったために、木綿服を着て質素な振る舞いで領民が感激したとか、農民と共に農作業をしたとか、萩焼きをつくり、絵も描くという意外と多趣味で、一生怒ったことがないと言われたそう。

長州藩は関ケ原の戦いの後、それまでの4分の1にまで減知されたが、多くの家臣たちが知行を減らされてもついてきたので、知行のわりに家臣が多すぎて藩の財政を圧迫したそうですが、敬親も、藩主としてなんとかして家臣や領民を養っていかなければという責任感が強かったということ。

領民にも藩士にも慕われ、山口県のあちこちに銅像が立っているという敬親の逸話をご紹介しますね。

\次のページで「3-2、吉田松陰への想い」を解説!/

3-2、吉田松陰への想い

敬親は松陰の講義について、儒者の講義はありきたりの言葉ばかりで眠気を催させるが、寅次郎(松陰)の話は、自然に膝を乗り出すと感想を。

また、松陰が友人たちとの東北旅行に出るのに手形の発行が間に合わず脱藩し罪を得たとき、敬親はなんとか救済しようとしたが出来ず、とりあえず10年諸国へ修業に出したいと松陰の父に願書を出させるよう指示、松陰に修業させる特別の取り計らいをしたそう。

そして敬親は、慶応元年(1865年)ころ、食事中にふと、「今日は寅次郎の日(命日)だな」と、出された焼き魚に手を付けず、近頃は誰も寅次郎のことを言うものがいない、命日を思い出すものもいないとぶつぶつ独り言を言っていた話が「世に棲む日日」に。

・注、肉親の命日、葬式や年回忌の仏事などには、精進と言い、肉、魚はもちろん卵も食べずに必ず菜食にする習慣が。

3-3、敬親の鶴の一声

第1次長州征伐で幕府軍が長州に迫ってきた元治元年(1864年)9月25日、午前4時から藩の命運がかかった会議が開かれ論戦が行なわれ、昼ご飯も井上聞多(馨)が、こんな重要時に食事なんかしてる暇はないと、食事抜きで夜の7時まで家臣の意見はほぼ出尽くしたが、結論は出ず。敬親は最後に初めて口を開いて、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と述べると退出したということ。

3-4、容堂の本質を見抜く

土佐藩主山内豊範が養女の婿になったこともあり、「鯨海酔侯」こと前藩主山内容堂とも付き合いがあった敬親は、近侍が容堂の隠居部屋を訪れ「酔擁美人楼」という額をみて、大名にしてはくだけた雰囲気だと話したとき、「こういう言は酒が飲みたくてもできず、美人を抱きたくても抱く余裕の無い者が好んで口にするものだが、容堂侯は24万石の太守で酒佳人は望み放題なのに、わざとそんな額を掲げているのは、自ら豪傑を装うということ」と述べたそう。

3-5、家来が死ぬのを嫌った

慶応元年(1865年)、高杉晋作の奇兵隊らが功山寺で挙兵し萩へ進軍してきたとき、当時の藩の執政で俗論派の椋梨藤太が上士隊を組織し討伐に向かう前、敬親は、人を殺すな、追討はいかん、鎮静にしろ、総大将はいかん、総奉行にせい、と命じ、軍令書の承認を求めると、第一に人を殺すな、接戦を好まず兵糧攻めにして自然に退散するよう攻めろと、軍事的部分を削ってしまい、隊将の粟屋帯刀は首を振って呆れたそう。

結局は絵堂で山県有朋が夜襲をかけて戦勝。山県は俗論派が謀反人とするような文書を偽造し、また椋梨は敬親父子の出馬を願ったが、敬親は朝廷から処罰を受けていると断ったということ。

敬親も養子の定広も、そうせい侯と言われたのは、そうしないと殺されていただろうからとか、長州藩はつぶれていただろうと言われますが、このエピソードはそれが如実にあらわれているよう。

3-6、井上聞多と名前を付けた

後の外務大臣の井上馨は長州藩では上士の家柄で、敬親や定広の側近く小姓として仕えていたこともあり、藩主親子をかなり気やすい伯父やいとこのように思っていたそう。そして藩主親子も井上をからかったり冗談を言ったりと可愛がり、敬親が、新しい知識や情報などなんでも知っているから聞多(ぶんた、もんた)とするようにと命じたのが通称に。

そうせい、そうせいと言いつつ、幕末の混乱を乗り切った隠れた名君

毛利敬親は村田清風を用いて藩政改革を成功させたので、幕末の動乱期前には、必要な資金はたっぷり、そして積極的な人材登用と教育にも力を入れたおかげで人材も豊富に育ち、ご本人は40代後半、よく肥えて貫禄たっぷりな殿さまでした。

そして20代、30代前半の吉田松陰をはじめ、久坂玄瑞、高杉晋作、井上聞多、桂小五郎などの血気盛んな長州藩士たちが攘夷攘夷と奔走して問題を起こし長州藩存亡の危機となっても、泰然自若として家臣に任せっきり、藩政権が佐幕派に握られても、「そうせい」と言い、攘夷派になっても「そうせい」。

自分の主張がないようですが、愚人を近づけず賢人だけを登用し、必要なときには存在感を示したという、雰囲気的には校長先生とか大学の総長のよう。

幕末には賢侯と言われた藩主もいましたが、自分だけが有能でいいと酔っぱらってストッパーの役目しか果たさなかったり、強烈な個性を発揮した藩主のおかげで藩内は内紛で人材を粛清しちゃって、明治になるまでに自滅した藩のことを思えば、長州藩は敬親のそうせいのおかげで怒涛の幕末を乗り切って、明治維新の中心になれたと言えるのではないでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

そうせい侯と言われた「毛利敬親」幕末の長州藩主について歴女がわかりやすく解説

今回は毛利敬親を取り上げるぞ。幕末の長州藩主だったが、賢候とは呼んでもらえなかったそうじゃないか、なんでか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、毛利敬親について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、毛利敬親は、萩の生まれ

毛利敬親(たかちか)は文政2年(1819年)2月10日、福原房昌(のちの毛利斉元)の長男として誕生、母は側室の原田氏。敬親の父は、7代藩主毛利重就の6男、9代藩主毛利治親の異母弟で部屋住みだった毛利親著の長子で、世襲家老で一門の福原家の養嗣子だったが、敬親が生まれた年の9月10日に10代長州藩主毛利斉煕の養子になり教元と改名、次いで11月11日には将軍斉昭から諱をもらって斉元と改名し、後に長州藩11代藩主になることに。

敬親は、幼名猶之進、のちに父の前名の教元の偏諱を与えられ教明に。そして将軍家慶から諱をもらって慶親と改名したが、長州征伐で官位をはく奪後、敬親と改名。ここでは敬親で統一。

1-2、敬親以前の毛利家は

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敬親の父斉元は、12代藩主となる斉広(なりとう)が幼かったための中継ぎとして迎えられた藩主。斉広の父である10代藩主斉煕が隠居後に大御所政治を行い、斉広の正室に将軍家斉の娘を迎えたりと、けっこう派手な生活をしたため、庶民からの反発もあったそう。

なので、敬親の父で次の藩主の斉元は、先代の大御所斉煕の政治への口出しと、天保の一揆などへの対応に苦労したということ。それになんといっても部屋住みの子で家臣の家に養子に出されていた身で、次の斉広が成人するまでの中継ぎの藩主の立場で引け目も。敬親もそんな父の苦労を側で見ていたので、後の人格形成に影響があったと言われています。

斉元は、天保一揆の翌年、天保3年仕組みという財政政策を5年間にわたって実施、藩主の連枝たちへの配当を半分に削減、藩札の乱発をなくし、藩の借金の利子を下げて年延べを行うといった債務整理で、財政を立て直したということ。

2-1、敬親、19歳で長州藩主相続

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天保7年(1836年)6月12日、敬親は、萩城下の阿武川の分流橋本川川岸の南苑邸に住んでいたが、「申歳の大水」といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇。南苑邸には川上から倒壊した家屋などが流れ込んで荒廃し、御客屋に避難。そして洪水の3か月後の9月8日に父斉元が死去、その跡を継いで12代藩主となった毛利斉広も幕府への手続きが終わって20日足らずで死去という事態に。

このとき敬親には、当時8代藩主毛利治親の姻戚だった田安徳川家からの養子縁組の話もあり、12代藩主斉広には異母弟の信順がいたことで少々もめたものの、結局は敬親が斉広の養子となって、天保8年(1837年)に家督継承、19歳で13代長州藩主に。家督相続に当たっては、斉広の長女都美姫を正室とすることが決められていたが、都美姫は当時数え5歳だったため、正式な婚儀は10年後の弘化4年(1847年)に。

尚、敬親が藩主就任後、10代斉熙の未亡人が政治に口出し、村田清風や益田などといった有能な家臣をやめさせようとしたが、敬親は内部紛争を調整し、父の意志を引き継いで財政政策に本腰を入れたということ。

ちなみに、10代斉熙の未亡人は鳥取藩6代池田 治道の娘で、長姉が島津斉彬の母で賢夫人と言われた弥姫、もう一人の姉があの佐賀藩の鍋島直正の母君で、その妹にあたる人。

2-2、敬親、藩政改革で財政再建

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敬親は、天保10年(1839年)に、村田清風を登用して藩政改革を行うことに。財政再建は、倹約はもちろん、まず藩士の借金の利息を大幅に軽減、藩による特産品の専売制をやめ、商人の自由な取引を許可し、運上銀を課税。さらには、藩営の金融兼倉庫業である越荷方(こしにかた)を、商業と交通の要衝の関門海峡に設置。日本海側の産物を大坂の相場が安いときに下関にとどめ、高値になると売って利益に。これらの政策が成功し、約140万両あった赤字は解消、藩財政は豊かになり、蓄えられた余剰金が幕末、志士たちの活動資金に

また、教育、人材育成については、天保12年(1841年)、江戸藩邸に文武修行の場の有備館を建設、嘉永2年(1849年)に、藩校明倫館を城下の中心地へ移転、規模拡張を実施。敬親は調和を重んじていたので藩としての団結を考え、支藩との間の軋轢修復のための努力も。

長州藩の実高
長州藩の石高は36万石となっていますが、慶長15年(1610年)の検地では53万石、これでは関が原で敗れたのに、功績があった広島50万石の福島正則より多くなるなどの理由から、公称の表高は実質7割の36万石となったということ。その後、表向き36万石は変わらずに新田開発などによって実高は増えていき、幕末には100万石を超えていたということ。

2-3、敬親の時代の長州藩の政局

村田清風は当時55歳で、9代藩主斉房から13代藩主敬親まで5代の藩主に仕えた人。11代斉元のときに「此度談」を書き、藩政改革を強く訴えていたが、内容があまりにも厳しすぎるので受け入れられず、職を辞して隠居。

そして敬親が藩主になると、清風を藩政改革の任に。清風は徹底した合理主義で急進改革だったため、藩内から清風に対する反対も強かったが、敬親は批判には耳を貸さずに、清風を信頼して任せたそう。前述のとおり財政改革は大成功となったが、清風は多くの人々の恨みを買って失脚、次の保守派坪井久右衛門が改革事業の大半を元の木阿弥に。

そして次は清風派の革新派が再改革と、その後の長州藩の政局は、清風派が革新の正義党、坪井派の保守の俗論党の両派が抗争、政権交代となり、幕末には倒幕派と佐幕派になっていったということ。

2-4、敬親、吉田松陰の講義を聴く

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後の吉田寅次郎松陰は、山鹿流兵学教授の家だった叔父吉田大助の養子となり、叔父玉木文之進のスパルタ教育で山鹿流兵学教授になるべく子供の頃から勉学に励んでいましたが、天保11年(1840年)敬親は、当時11歳で藩校明倫館の教授見習いだった松陰を城に呼び、山鹿流兵学の御前講義を。

敬親は松陰の講義に感心し、松陰の師匠は誰かと聞き、松陰の師匠である叔父の玉木文之進を見出して官職に付かせ、文之進は昇進して藩の重役に抜擢されるまでになったそう。また松陰に対してもこの後、18歳になるまで5回も敬親が自ら勉学の進み具合をテスト、14歳のときは講義の後、不意打ちに孫子の講義が聴きたいと所望し、松陰がみごとに講義したところ、敬親は感心して所蔵の「七書直解」本を与え、19歳になるまでに5人の師匠が松蔭に教育を施し、松陰が独立して師範格となる最終テストも敬親が立ち会ったということ。

松陰は独立の師範になったとき、学制改革についての分厚い意見書を書いて藩主敬親に献上。「世に棲む日日」によれば、身分の低い松陰がこのような重大な意見書を藩主に献上するのは他藩では考えられないが、この長州藩の敬親と村田清風の時代は、そういう意見を求める気風が大だったということ。

2-5、黒船来航時の敬親

嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船が来航し、長州藩は相模国周辺の警備を担当、そして安政5年(1858年)8月、戊午の密勅を受けて尊王に尽力することになり、同年には、保守派の坪井九右衛門を引退させて、革新派の周布政之助らを登用。そして藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出。敬親は周布を重用して藩是三大綱を決定し、藩の体制強化と洋式軍制導入の兵制改革を開始することに。

2-6、敬親、「航海遠略策」を藩論にしたが

文久元年(1861年)、敬親の求めにより、重臣の長井雅樂(うた)が、「航海遠略策」を建白。これは公武合体に乗っ取り、開国して欧米の技術を学び国力を高めたのちに、欧米諸国と対等に渡り合えるように努めるべきという正論で、敬親は気に入り藩論にすることに。

そして敬親は長井に命じて、京都の朝廷や幕府にも建白するために奔走させ、一時はこの策が幕府にも朝廷にも受け入れられたのですが、松下村塾一派の急進攘夷派の高杉晋作、久坂玄瑞らの猛反発を喰らい、長井の暗殺計画まで立てる始末で、その圧倒的な雰囲気に敬親も消極的になり、また老中安藤信正の失脚、久坂らの朝廷工作などもあって結果的に「航海遠略策」は失敗に終わり、長井は責任を取らされて切腹に。

敬親と養子の世子定広は長井の切腹をなかなか受け入れられなかったが、このままでは藩が分裂の危機になると「そうせい」ということに。

2-7、下関砲撃事件、8月18日の政変、禁門の変、四国艦隊下関砲撃、長州征伐とカオスに

長井雅楽の失脚後、長州藩論は周布政之助、桂小五郎(木戸孝允)らの主導で、攘夷へと転換。文久2年(1862年)7月、攘夷の実行を藩の方針とし、文久3年(1863年)4月、藩庁を海防上の理由で海沿いの萩城から山口城に移転、5月には外国船の打ち払いを開始、しかしアメリカとフランスの軍艦からの報復攻撃を。

そして同年の八月十八日の政変によって、長州藩は京を追われ、翌年元治元年(1864年)6月、池田屋事件で多くの長州藩士が犠牲となり、長州藩は京に出兵、7月に禁門の変が勃発。

この長州藩の暴挙で朝廷は幕府に長州征伐を命じて8月に敬親の官位を剥奪。さらに8月、英仏蘭米の4ヵ国連合艦隊が下関に襲来し敗北、講和に。そして幕府軍の第一次長州征伐となったが、敬親が幕府への恭順と決定、国司親相、益田親施、福原元僴ら3家老の切腹させ、敬親は10月、萩で謹慎。

執政の周布政之助も禁門の変の責任をとって切腹し、革新派の正義派に代わり、椋梨(むくなし)藤太ら保守の俗論派が藩政を執ることに。

2-8、高杉晋作のクーデター成功

しかし元冶元年(1864)12月、九州に逃れていた高杉晋作が下関に戻って、俗論派から藩政を取り戻すために功山寺で挙兵。18名の決死隊を編成し、軍艦3隻を奪取、そして1月に経堂で両軍は激突、正義派が勝利し、山口まで進撃、高杉らのクーデターは成功し、正義派が藩政を執ることに。

敬親は、藩庁を山口に戻して諸隊の総督と長州三支藩の家老に対し、武備恭順で、表向きは幕府に恭順を装いつつ、最新武器を導入して西洋式戦術を取り入れた軍備の近代化を推し進めるようにという宣言。

禁門の変後、但馬出石で潜伏していた桂小五郎(木戸孝允)も復帰し、慶応2年(1866年)1月、坂本竜馬らの仲介で薩摩との同盟が成立。長州藩は薩摩藩の名義で、軍艦や最新の兵器を大量に購入出来、桂の推薦で迎えた村田蔵六(大村益次郎)が第二次長州征伐の対幕府軍の指揮をとって、幕府軍を撃退、将軍家茂の死で休戦に。翌慶応3年(1867年)10月14日には、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下され、前日、土佐藩が提出した大政奉還の建白書を受け、15代将軍慶喜が大政奉還、12月、王政復古の大号令、そして鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へ。

2-9、明治後の敬親

慶応4年(1868)11月、敬親 は上洛して明治天皇に拝謁し、左近衛権中将に。明治2年(1869年)1月、木戸孝允(桂小五郎)が、版籍奉還を実施。そこで木戸は、範を示すために長州藩に他藩に先駆けて版籍奉還を受け入れてもらうように敬親に頼んだところ、快諾、しかも退出する木戸を呼びとめて、今は戦乱の世で人々は気が荒立っているので、これほどの変革を行なうと、どういう事が起こるかわからないから、木戸が京都に行き時機を見計らって行うようにという、かなり適切なアドバイスをしたので、木戸は、自分の殿様ながら意外な賢さにびっくり仰天したということ。

また戊辰戦争後、薩摩藩主や長州藩主らは、生涯、毎年25000石(約15万両相当)ずつ受け取れる褒賞が出たが、敬親は、その半分以上を戊辰戦争に貢献した家臣に配ったそう。毛利家は伝統ある家なので、家臣の教育に加え、藩の記録も重要視し、中世からの資料も豊富に残していたということ。

明治2年(1869年)6月、権大納言となり、家督を養嗣子の定広に譲り隠居。そして明治4年(1871)3月、山口藩庁殿で53歳で死去。

3-1、敬親の逸話

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不明。 – 毛利博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

敬親は、藩主になったときは財政難だったために、木綿服を着て質素な振る舞いで領民が感激したとか、農民と共に農作業をしたとか、萩焼きをつくり、絵も描くという意外と多趣味で、一生怒ったことがないと言われたそう。

長州藩は関ケ原の戦いの後、それまでの4分の1にまで減知されたが、多くの家臣たちが知行を減らされてもついてきたので、知行のわりに家臣が多すぎて藩の財政を圧迫したそうですが、敬親も、藩主としてなんとかして家臣や領民を養っていかなければという責任感が強かったということ。

領民にも藩士にも慕われ、山口県のあちこちに銅像が立っているという敬親の逸話をご紹介しますね。

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