

攘夷論とは日本から外国を撃退して追い払う排外思想であり、尊王攘夷の思想もまたその考え方に含まれる。さて、今回はそんな攘夷論について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から攘夷論をわかりやすくまとめた。
水戸学の流行と影響
江戸時代、水戸藩と中心として朱子学の影響を受けた水戸学が盛んになって広まります。水戸学は国学や史学など、元々は日本の文化や伝統を学ぶための学問として誕生しますが、やがては水戸藩に限らず全国の藩校での教育に取り入れられ、そのため水戸学の教えは幕末の志士達に大きな影響を与えるものになりました。
そんな水戸学には「欧米諸国は卑しむべき夷人であるため、日本列島にその力が及んだ場合直ちに打ち払って排除すべき」の教えがあり、例えるなら日本に広まったキリスト教の弾圧と似たような考えでしょう。そして、1820年代になると水戸学における攘夷論が確立します。
攘夷の「攘」とは払い除く、「夷」とは蝦夷を由来に異民族を示しており、つまり攘夷論は文字どおり外国を払い除いて日本から排除しようとする思想でした。江戸幕府もまた確立した攘夷の思想に基づく行動をとっており、代表的なものとして1825年に制定した異国船打払令が挙げられます。
攘夷論と尊王論が結びついた尊王攘夷論
攘夷論が広まる一方、日本では国学が発展していきますが、その中で日本は神の国であるとする政治思想が力を増していきます。そこで力を得たのが尊王論であり、王者を尊敬する……すなわち「天皇を尊ぶ」という考え方です。尊王論は元々中国の儒教から生まれた思想でもありました。
外国勢力の脅威がある中で思想とされた攘夷論、日本は天皇を尊ぶべきとした思想である尊王論、そして、それぞれの思想が結び付いた末に生まれた新たな思想が尊王攘夷論であり、幕末において倒幕派が支えとしていたのがこの尊王攘夷論です。
最も、日本は1639年から後に鎖国と呼ばれる幕府の対外政策によって外国の交流を絶っていたため、攘夷論がいくら支持されてもそれが行動として移される機会はそうそうなかったでしょう。そんな状況の中、日本で攘夷論が急激に発達するきっかけとなったのが1853年のペリーの黒船来航でした。
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水戸学では対外排除の教えがあり、その教えが元となって攘夷論が確立した。江戸幕府による異国船打払令も攘夷論に基づく行動の一つだろう。一方で、天皇を尊ぶ尊王論も広まっていき、それぞれの思想を結び付けたのが尊王攘夷論だ。
不平等条約に対する外国への怒り
1853年、黒船で日本にやってきたペリーは日本に開国を要求、翌1854年に日本とアメリカが日米和親条約を結んだことで日本は開国します。このため、これまで続けてきた鎖国が終わり、下田と箱館の港を開港したことで外国との交流が生まれました。これをきっかけとして1858年にはハリスと日米修好通商条約を結びますが、これが攘夷論をより強めることになります。
日米修好通商条約は日本にとって不平等条約でした。貴重な金や銀における変換比率の国内・国外差の問題から流出を招き、さらに外国製品の輸入によって日本製品が売れ行きが低下、日本の経済にマイナス効果をもたらします。これによって人々の生活が苦しくなり、各地で一揆や打ちこわしが起こりました。
生活が苦しくなった原因は日米修好通商条約の締結にあり、そのため人々は外国を嫌うようになります。このため外国を打ち払う攘夷論が広まっていき、またこのような不平等条約に対して天皇に無許可で締結した幕府に対しても不満が高まっていったのです。この問題は、後に江戸幕府が滅亡する要因にもなるのでした。
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