
1-4 フランソワの急死
フランソワはもともと体が弱かった人物でした。ちなみに父アンリ2世が槍試合で血まみれで落馬した時、それを見て失神したそう。フランソワ2世はスコットランドからメアリ・ステュアートを妃として迎えることに。ところが彼が即位して1年足らずで病死してしまうことに。もしも2人の間に子どもが生まれていたら、メアリはイングランドのエリザベス1世に処刑されることもなかったことでしょうね。そう考えると運命はとても残酷ですね。
2 ユグノー戦争勃発
アンリ2世とカトリーヌの長男フランソワが即位してわずか1年後に病死したことで、次男のシャルルが10歳で即位することに。そしてカトリーヌが引き続き摂政を務めてフランス国内を治めることに。しかしこのシャルルの治世からユグノー戦争が起こるようになりました。ここではユグノー戦争の経過を詳しく見ていきましょう。
2-1 ユグノーとは?
ところでユグノーとはどういう意味でしょうか。ユグノーとは、キリスト教の宗派のことで、プロテスタントのこと。これまではカトリックが主流だったキリスト教ですが、カトリックの腐敗から宗教改革が起こることに。宗教改革の波は、フランスではカルヴァン派が浸透して商工業者や貴族の中からも信者が増えるように。特にカルヴァンが「世俗の職業は神から与えられてた使命として勤労に励むように」と説いたため、大きな影響力を持つように。ちなみにユグノーという名称は、カトリック教徒がプロテスタントたちのことを乞食と呼んだのが由来。
2-2 ユグノー戦争のきっかけ
ユグノー教徒がフランス国内で増えていき、政治情勢が不安定となってきたことに危機感を抱いたカトリーヌ・ド・メディシス。彼女はユグノー教徒を利用しようとし、1562年にユグノー教徒らの信仰の自由を認める勅令を出すことに。ところがこの勅令に不満を持ったカトリック側のリーダー、ギーズ公の軍隊がユグノー教徒74人を虐殺したことから宗教戦争へ。こうしてユグノー教徒とカトリック教徒が1598年まで内戦状態に。
2-3 マルゴとアンリの結婚
シャルルとカトリーヌを悩ませることとなったフランス国内の宗教内戦。これを解決するため、カトリック教徒の娘マルゴと、ユグノー教徒だったブルボン家のアンリの結婚式が行われることに。しかしマルゴはブルボン家のアンリではなく、同じカトリック教徒のギーズ公アンリのことが好きだったそう。いくらフランス国内の安定のためとはいえ、違う宗派の男性と結婚しなかればならなかったマルゴはかわいそうですね。
2-4 サンバルテルミの虐殺
エドワール・ドゥバ・ポンサン – Mairie de Clermont-Ferrand https://www.clermontmetropole.eu/bouger-se-divertir/le-dynamisme-culturel/les-musees-de-clermont-auvergne-metropole/marq-musee-dart-roger-quilliot/, パブリック・ドメイン, リンクによる
1572年の8月24日に2人の式が開かれ、カトリック教徒やユグノー教徒らが大勢見物に来ることに。そこでなんとカトリック教徒らがユグノー教徒に襲い掛かり、3千人ものユグノー教徒が虐殺されました。サンバルテルミの虐殺と呼ばれている出来事でした。一説によると、この虐殺はカトリーヌがシャルル9世にユグノー教徒の虐殺を承認させたと言われています。そのため、カトリーヌ・ド・メディスは悪女としても有名ですよね。こうしてカトリックとユグノーの宗教内乱は地方にも波及することに。
\次のページで「2-5 アンリの即位」を解説!/